第19話 堕精霊
「あれはね、人の強烈な怒りや殺意や恨みや妬みといった負の感情によって堕ちた憐れな精霊よ」
ハイドランジアに憑依した謎の灰色の女性が悲しそうに微笑んだ。
「堕ちた……精霊?」
スカーレットやリリアーナ、ハンナとルイーゼの四人が、禍々しい巨大な黒い竜巻を見上げる。
身の毛もよだつ憎悪の暴風。ありとあらゆる負の感情を凝縮したようなねっとりとした黒い竜巻。
竜巻は刻一刻と勢いを増し、王都の街を破壊し続けている。
巨大な竜巻に向かって色とりどりの閃光が放たれるが、全てを飲み込み、効いているようには見えない。
「堕ちた精霊。堕精霊。人間の感情によって精霊は変化する。特に、人間が強烈な負の感情に囚われると、その感情に飲まれて力を増し、死ぬまで無差別に暴れ回るただの厄災へと化してしまうの。一度堕ちてしまったら元には戻れない。人間も精霊も理性をなくして破壊の限りを尽くすだけよ」
リリアーナの専属メイドのルイーゼが冷静に灰色の女性に問いかけた。
「対処は可能なのですか?」
灰色の女性はあっさりと答える。
「可能よ。あの堕精霊よりも強い力で吹き飛ばせばいいのよ。でも、そうした場合」
「街にも甚大な被害が生じることになりますね」
「そういうこと」
灰色の女性の言葉を引き継いだルイーゼの顔が険しく歪んでいる。
黒い竜巻が街を破壊するか、街ごと黒い竜巻を吹き飛ばすか。
どちらにしても街は破壊されることになる。
「他に方法はないの!?」
「ハイド様!」
普段は何事にも無関心なリリアーナと、退屈そうな表情をしているスカーレットは、今回ばかりは必死な表情をしている。
彼らはこのロトス王国の王女と公爵令嬢だ。
民を守れない自分たちに悔しさや怒りを感じ、それを無理やり飲み込んでいる。
ハイドランジアに憑りついた灰色の女性は、大人の艶美な雰囲気を醸し出し、手を頬に当てて色っぽく考え込んでいる。
「そうねぇ。他の方法ねぇ。精霊の宿主が死ねば消えるわね」
「精霊の宿主!?」
「それは一体どこに!?」
「当然、あの竜巻の中でしょうね。堕精霊は宿主の肉体も変化させるわ。出会ったとしても貴女たちでは殺せないでしょうね」
希望の光が見えたかと思ったが、灰色の女性はおっとりと絶望を突き付ける。
くっ、とリリアーナとスカーレットは唇を噛みしめることしかできない。
自分の無力さに悔しさを感じるが、今は何もすることはできない。
「あら?」
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
狂った獣のような、身の毛のよだつ咆哮が王都の街を揺さぶる。
黒い竜巻から放たれた、心の底から震えさせる憎悪の叫びだ。
それと同時に、黒い竜巻から真っ黒な風の刃が飛びだしてきた。
十メートル以上もありそうな風の刃が、街の中に落ちて、建物を切り裂き、地面にまで深い亀裂を入れ、暴風で建物や人を吹き飛ばしていく。
いくつかの黒い風の刃が五人の近くに落ちてきた。
ルイーゼとハンナが前に出る。
「ハンナさん!」
「はい!」
ハンナは自分の周囲に、闇がドロッと零れ落ちる漆黒の短剣を大量に展開し、風の刃に向けて一気に放った。
闇の短剣に撃ち抜かれた黒い風の刃は、そのまま空中で制止する。
ハンナの短剣で、風の刃を空間に縫い留めたのだ。
同時に、ルイーゼが手に持った光で出来た
光の速度で放たれた
ルイーゼとハンナのおかげで周囲には被害はない。
「ふぅ~ん。不定形の精霊ならではの戦い方ね。複数の同時展開。いい腕ね」
ルイーゼとハンナを見て、灰色の女性が感心したように呟いた。
甚大な被害に顔をこわばらせていたスカーレットの顔が、真っ青になる。
「あぁ…! 風の刃がお城に!」
リリアーナも城の方角を見て、顔を青ざめる。
黒い風の刃が真っ直ぐに城へと向かっている。結界は発動されているようには見えない。
誰もが最悪の想像をした瞬間、王城から青い光が煌めき、風の刃が消滅していく。
国王ウィステリアの精霊の攻撃だ。
「あれは……お父様の精霊! 今度はお母様の!」
城の周囲に巨大な青白い炎の球が漂い、流星のごとく黒い竜巻に着弾していく。
王妃ミモザの精霊の攻撃だ。
青白い炎は燃え上がり、黒い風ごとパキパキと音を立てながら凍り付かせていく。
しかし、その氷も暴風に砕かれ飲み込まれていく。
「お母様の精霊でもダメですか」
リリアーナがガックリと肩を落とす。
周囲に絶望感が漂う。歯を食いしばって見ていることしかできない。
その時、灰色の女性が静かに前に出た。
「あらあら。じゃあ、少しだけ力を貸してあげましょう」
灰色の女性は黒い竜巻に向かって片手を突き出す。
手の平に灰色の光が宿っていく。それはどんどんと輝きを増していく。
「えっ? 何を……」
その言葉は誰のものだっただろうか。
全員が呆然とハイドランジアに憑依した女性を見つめる。
うふっ、と妖艶に微笑んだ灰色の乙女は、黒い竜巻に向かって極太の光線を発射した。
灰色の光が黒い竜巻に直撃し、押しとどめる。
「嘘…」
「竜巻を止めた?」
「それだけじゃありませんね。竜巻の風が弱くなっています」
リリアーナとスカーレットは唖然として固まり、ハンナは冷静に観察して述べた。
「GUUURUUUAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
苦しみにも似た咆哮が王都に響き渡る。
堕精霊とその宿主の苦しみの叫び声だ。
灰色の光線によって黒い竜巻が徐々に小さくなっていく。
しかし、黒い竜巻は抵抗するように、膨大な数の黒い風の刃を放出した。
「なぁっ!?」
「くっ!?」
「これは不味いですねぇ~」
「姫様! お逃げください!」
膨大な数の風の刃が迫りくる。
流石に、この数全てをルイーゼとハンナで防ぐことはできない。
慌てて周囲から離脱しようとする。
でも、灰色の乙女は悠然と微笑むだけだった。
灰色の光線を一旦止めると、迫りくる刃に目を向けて、ギュッと拳を握りしめた。
「”
膨大な数の黒い風の刃が、一瞬で細かな灰になり、風に乗って消えていった。
風が塵になった。暴風の被害もない。
「へっ?」
「えっ?」
「ほえー!」
「これは……」
リリアーナ、スカーレット、ハンナ、ルイーゼが目を丸くして驚いた。
これは夢ではないかと疑っているようだ。
灰色の女性は黒い竜巻を見据え、ニコッと微笑んだ。
灰色の唇が言葉を紡ぐ。
「”
世界から色が失われた。
空も、建物も、風景も、人も、ありとあらゆるものが色を失い、全ては灰色の世界と化した。
顕現していたルイーゼとハンナの精霊が怯え、宿主の命令を受けずに体内へと戻っていく。
黒く立ち昇っていた巨大な竜巻も灰色に染まり、徐々に風が解けていく。
精霊の攻撃をいくら受けてもびくともしなかった竜巻の威力が、見るからに弱まっていく。
地面に近いところから消え去っていく竜巻。
瞬く間に風が解けていき、竜巻は形を保てなくなって消滅した。
「これでいいわね」
長い灰色の髪を靡かせ、リリアーナたちに振り向く灰色の女性。
リリアーナたちは何が起こったのか理解ができない。
その彼女たちには空から降ってくる黒い塊が目に入った。
徐々に大きくなっていく禍々しい黒い塊。
それは近づくにつれて黒っぽい紫色の人型を取っていることがわかった。
濃い紫色の物体が灰色の女性に向けて落ちてくる。
「ハイド後ろ!」
「ハイド様!」
リリアーナとスカーレットが慌てて後ろを指さし、ハンナとルイーゼは再び精霊を召喚しようとするが、何故かうまくいかない。
顔に焦りが浮かぶ。
「えっ? 何かしら?」
直後、ドォーン、と轟音が鳴り響き、地面が揺れ、巨大な穴ができた。
灰色の女性が後ろを振り返ることなく、飛んできた濃ゆい紫色の物体を裏拳で吹き飛ばしたのだ。
いや、飛んでいるうるさい羽虫を追い払うような軽い仕草だった。
砂ぼこりが舞い散る。
リリアーナたちはあまりのことに、驚きを通り越して呆れの表情が浮かぶ。
「グァァアアアアアアアアア! コロスコロスコロスコロスコロス!」
降ってきた物体が咆哮し、砂ぼこりを拳の風圧で吹き飛ばす。
現れたのは濃い紫色の肌をした、二メートルを軽く超える人間だった。
黒い靄を纏い、大柄な肉体には強靭な筋肉がついている。
瞳はあらゆる憎悪や殺意でどす黒く濁っている。
「コロスゥゥウウウウウウウウウウウウウウウ!」
ダンッと地面を蹴って、砲弾のような勢いで屋根の上にいる灰色の女性めがけて飛び掛かっていく。
「面倒ね」
しかし、灰色の女性は煩わしそうに軽く手を振って、巨人を叩き落とした。
紫色の巨人が再び地面に激突して巨大な穴を作る。
「グァァアアアアアアアアア! ナゼダ! ナゼダ何故ダなぜダァァアアアアア!」
怒気をまき散らして叫ぶ紫色の巨人。
更に憎しみを深め、それによって肉体が膨張する。
どす黒い靄を纏った巨人の背丈が三メートルを超えた。
フーフー、と荒い息を吐き、殺意と憎悪にまみれた視線で屋根の上の女性陣を睨む。
「リリアーナァァァアアアアアア! スカーレットォォォオオオオオオオ!」
灰色の女性は驚いた様子で灰色の目を瞬く。
「あら。理性が残っているのね?」
名前を呼ばれたリリアーナとスカーレットは困惑して首をかしげる。
「何故私たちの名前?」
「何故でしょう?」
「はぁ…お嬢様とリリアーナ様はどこで恨みを買ったんですか? またですか。いい加減にしてくださいよ」
「ちょっと! またって何よ、この駄メイド!」
スカーレットがハンナに飛び掛かろうとするが、ルイーゼによって拳骨を落とされる。
「くわぁー!」
「
「痛いです……何故わたくしまで」
三人娘が頭を押さえて蹲る。
拳骨を落としたルイーゼは、何事もなかったかのように冷静に紫色の巨人を観察する。
「ふむ。あれは…どことなくイーゴティズム伯爵家の長男に見えませんか?」
頭を押さえた三人娘が、どれどれ、と涙目で観察し始める。
「イーゴティズム伯爵家の長男…? どことなく面影が残っているようないないような…」
「確か名前は…ナルシサスだったと思います」
「あぁー! ご主人様に水をぶっかけて、お偉いさんから説教を受けた馬鹿ですか」
紫色の巨人が天に向かって怒りの咆哮を上げる。
「ガァァァアアアアアアアアアアア!」
空気の振動で周囲の物が吹き飛ばされ、建物が軋んでいく。
灰色の女性は屋根からスゥっと飛び降りると、ふわりと地面に着地した。
紫色の巨人に対峙して、冷静に観察し続ける。
「下賤ナ平民メェェエエエエエエ! シネェェエエエエエエエエ!」
「なるほど。堕ちたんじゃなくて、堕とされたのね」
迫りくる巨大な拳を軽やかに躱しながら、灰色の乙女は悲しそうに微笑む。
灰色の女性がどこかの方向を見つめた。灰色の瞳が遠くの何かを捉える。
そして、手から灰色の光を放った。
「はぁ…逃げられたわね」
灰色の女性はため息をつき、絶え間なく襲ってくる紫色の巨人を見据えた。
常人では目で捉えられないくらいの速度で巨人が襲ってくる。
灰色の女性が巨人の懐に飛び込んで、軽くお腹を触った。
それだけで背後へと吹き飛んでいく巨人の身体。
黒い靄の暴風を纏いながら起き上がる紫色の巨人。
更に憎悪と殺意が増していく。
「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス」
メキメキと音を立てながら、再び身体が巨大化していく。
巨大化のために巨人の動きが止まった。
その隙を灰色の女性は見逃さない。
「一度堕ちたら、もう元には戻れない。楽になりなさい」
灰色の女性は両手に片手剣を創造した。
全てが灰色に染まった二本の鋭利な剣。
鈍い灰色の光を帯び、圧倒的な威圧感を放出している。
威圧に圧倒された巨人の動きが止まった。
灰色の乙女は女王のような冷たい威厳と覇気を纏うと、タンッと踊るように地面を蹴った。
目にも止まらぬ速さで移動し、次の瞬間には、紫色の巨人の背後に移動している。
「”
一瞬遅れて、ザンッという音が響く。
三メートルを余裕で超えていた巨人の身体が、一瞬で斬り刻まれ、灰塵となって風に乗ってゆっくりと消えていく。
灰も塵も消えてなくなったのを確認して、灰色の乙女は二振りの剣を消失させた。
それと同時に、灰色だった世界に色が戻る。
今まで灰色だった世界に急に鮮やかな色が戻り、とても眩しく感じる。
威厳と覇気を消失させた灰色の乙女は、あっ、と何かに気づく。
その様子を見たリリアーナたちは警戒する。
まだ敵が潜んでいると思ったのだ。
しかし、灰色の乙女は、屋根の上にいる彼女たちを見上げて、悪戯っぽく微笑んだ。
「この身体に限界が来ちゃったみたい。倒れるから後はお願いね」
「「「「はっ?」」」」
突然のことで困惑する彼女たちの目の前で、灰色の女性の瞳が閉じた。
それと同時に、灰色の髪が短くなり、洋服や肌に色が戻る。
憑依していた女性が消失し、ハイドランジアの身体が元に戻った。
身体からガクッと力が抜け、そのまま顔から地面へと倒れるハイドランジア。
意識を失っている様子で、倒れたハイドランジアはピクリとも動かない。
倒れた時に顔をぶつけて怪我をしたのだろう。
顔面の付近から血が流れ出し、血だまりを作っていく。
それに気づいたリリアーナ、スカーレット、ハンナ、ルイーゼの四人は、慌ててハイドランジアを介抱し始めるのだった。
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