第16話 堕落への誘い

 

 何人もの騎士が鋭い目つきで、ある部屋を警護している。外からの警戒ではなく、騎士は部屋の内側に意識を向けている。

 警護というより監視だ。

 騎士で囲まれた部屋に、一人の使用人が手に食事を持って近づいてきた。肉や野菜など栄養バランスの取れた豪華な食事だ。

 騎士たちが使用人の前に立ちふさがり、手に持った料理のお皿や食器を確認し始める。皿やスプーンやフォークは全て木製だ。

 凶器になりそうなものがないことを確認して、まずは騎士が部屋の扉を開ける。

 それと同時に、中から誰から襲い掛かってきた。騎士は簡単に襲ってきた人物を取り押さえる。


「は、離せ! 汚い手で俺を触るな! この下賤な者たちめ! この俺が誰かわかっているのか!?」


 暴れるのは十代半ばの少年だった。ナルシサス・イーゴティズム。それが彼の名前だ。

 入学した王立学園で、王女のリリアーナと公爵令嬢のスカーレットの前でハイドランジアに頭から水をかけたナルシサスは、多くの人の前で平民を薄汚い奴隷と言い放ち、国王や宰相など直々に叱られたのだ。罰として、伯爵家を継ぐことは出来なくなり、三カ月の自宅謹慎を命じられた。

 一応、国王から叱られたことで謝罪はした。しかし、心の中に根付いた選民思想はなかなか消えない。逆に余計に酷くなっていた。

 ナルシサスは少し頬がこけ、髪は振り乱し、瞳は血走ってギョロッと見開いている。

 彼は力づくで取り押さえる騎士を振り払った。


「ナルシサス様、お食事でございます」


 使用人が持ってきた食事をテーブルに置こうとする。


「きゃあっ!」


 食事が使用人の身体にかかった。ナルシサスが食事が乗ったトレーごと蹴り飛ばしたのだ。


「もっと豪華な食事を持ってこい! 俺が食べるんだぞ! 王都で一番の料理人に作らせろ!」

「し、しかし……」

「あぁん? 俺の言うことが聞けないのか!? 伯爵家の息子だぞ!」


 ナルシサスが使用人を力いっぱい蹴りつけようとする。しかし、騎士たちに封じられる。


「お静まりを」

「さ、触るな! 俺に触るな! 俺が汚れるだろうが!」

「我々はあなたのお父上から直々に命令されています。何かあったら取り押さえろと」

「知るか! 無能な父上よりも俺の命令を聞け! 離せと言っているだろうが!」


 更に暴れるナルシサスを騎士たちは平然と取り押さえる。

 ナルシサスは魔法を発動させたり、精霊を召喚しようとするが、魔力が霧散してしまう。


「無駄です。魔封じをしています」


 ナルシサスの首には魔封じの首輪がされていた。この首輪が魔法に関する行動を制限しているのだ。

 魔力が使えない人間と、日々鍛え身体強化の魔法も使える騎士たちとの力量の差は歴然だ。

 騎士たちが仕方なくナルシサスの身体を縛り上げる。


「離せ! これを解け! 解けって言ってるだろうが!」


 喚き散らすナルシサスを部屋の中に置き去りにし、騎士と使用人が出て行く。全員が失望や悲しみ、憐みの表情を浮かべ、そのことがナルシサスの逆鱗に触れる。

 彼らは昔から伯爵家に仕え、ナルシサスを小さなころから知っていたのだ。昔は素直な良い子であり、善き貴族になると思っていたのだが、今の現状を見て失望を隠せない。


「そんな顔で俺を見るなぁあああああああああああ!」


 バタンッと静かに扉が閉まり、部屋の中に数人の騎士だけが残る。

 ナルシサスは喚き散らし暴れるが、縛られて身動きが取れない。

 部屋の中は物がほとんどない。ナルシサスが暴れて壊し、物を放り投げて癇癪をぶつけたのだ。危険だということで、伯爵が撤去を決めた。

 壁は穴が開いたり凹んだりボロボロだ。

 ナルシサスがフゥーフゥーと息を荒げ、血走った瞳で騎士たちを睨みつける。

 しばらくして、大人しくなったナルシサス。でも、敵意は消えない。

 その時、静かにドアが開いた。


「何者!?」


 騎士たちは剣を抜く。

 入ってきたのはメガネをかけた若い男性だった。三十歳前後の小綺麗な身なりの男性。

 今にも襲い掛かりそうな騎士たちにニッコリと微笑みかけた。


「私は伯爵閣下に依頼された薬師ですよ」

「そうでしたか」

「失礼しました」


 騎士たちが剣を鞘に戻す。不自然な程すぐに警戒を緩めた。


「普段通りにしてください」

「わかりました」


 騎士たちの瞳はぼんやりと焦点が合っていない。まるで、精神を支配されたみたいだ。

 入ってきた男性が敵意をむき出すナルシサスに微笑みながら近づいていく。


「初めまして、ナルシサス・イーゴティズム様」

「誰だ貴様は!」

「ただの薬師ですよ」


 薬師の男性はナルシサスの敵意を軽く受け流す。


「そう睨まないでください。私も高貴な血筋を受け継ぐものですよ」

「そ、そうか。それはすまなかった」


 ナルシサスは素直に謝る。

 おっ、と薬師の男性が少し驚く。傲慢な彼が謝るとは思っていなかったのだ。


「それで? 何のようだ?」

「ええ。単刀直入に言いましょう。力が欲しくないですか?」


 男性はニヤリと笑う。どこか狂気めいた背筋がゾクリとする笑みだ。


「ナルシサス様は薄汚い平民に水をかけたのですよね? その平民が王女と公爵令嬢のお気に入りで、国王からもお叱りを受けた。違いますか?」

「何故知っている?」

「貴族には伝手というものがあるのですよ」


 男性がメガネをクイっと上げた。口は鋭く吊り上がったままだ。


「選ばれた血筋である貴方はそのままでいいのですか? 今頃、その薄汚い平民や、それに誑かされた王女や公爵令嬢は、貴方のことを笑っているかもしれません。本当なら、貴方が王女や公爵令嬢の隣にいるはずでした。それを平民なんかが割り込んだのですよ? 悔しくありませんか? 憎くありませんか? 殺したいとは思いませんか?」


 男性の言葉がナルシサスの心の中に染み込んでいく。彼の言葉を聞くたびに、邪魔をしたハイドランジアやリリアーナとスカーレットに怒りや恨みや殺意を抱いていく。いや、元から抱いていたが、更に憎悪が増幅されていく。


「………俺は何も悪くない」


 ナルシサスは暗い瞳で呟いた。男性の瞳に歓喜が浮かぶ。


「そうです! 貴方は何も悪くないのです! 貴族として、選ばれた血筋として、当然のことをしただけです! なのに貴方はここに縛られて閉じ込められている。おかしくはありませんか?」

「………あぁ、おかしすぎる! 何もかもがおかしい! 俺は悪くない! 俺は正しいことをしたんだ! 薄汚い平民を甚振って何が悪い! 俺は選ばれた者なんだ! 俺は正しいんだ!」

「そうです。貴方は選ばれし者です。おかしいのは貴方の周り、平民を擁護する者たちではありませんか?」

「そうだ!」


 血走った瞳でナルシサスが叫ぶ。彼の瞳の奥はどんよりとした悪意で暗く淀んでいる。

 薬師の男性が囁いた。


「貴方はどうしたいですか?」


 彼の言葉がナルシサスの脳や心にゆっくりと浸透していく。洗脳されていく。


「………俺の正しさを証明する」

「どうやって?」

「………間違っている奴らを排除する」

「排除? 具体的には?」

「………殺してやる。こんな目に合わせた奴らを殺して、見返してやる! 俺は選ばれし者だ! 俺はすべて正しいんだ!」

「全ての元凶である薄汚い平民と王女と公爵令嬢のことはどうしますか?」

「………もちろん殺す! いや、あのゴミの前でリリアーナとスカーレットを犯すのもいいかもしれないな! あのゴミは泣き叫ぶだろうか? ゴミを殺したらあの女たちはどうなるだろうな? 絶望か? それとも俺を選んで自ら腰を振るか? あぁ…楽しみだ!」


 ナルシサスが狂気を孕んだ笑みを浮かべる。瞳は悪意でどす黒く染まっている。

 その様子を眺めながら、男性は満足気に頷いている。


「ですが、今の貴方には力がありませんよね?」


 男性が事実を突き付ける。

 ナルシサスは傲慢に命じる。


「力をよこせ!」

「ふふふ。いいでしょう。思う存分貴方の力を振るってください」


 男性が懐から紫色の錠剤を取り出す。

 そして、ナルシサスの口の中に放り込んだ。

 紫色の錠剤を飲み込んだナルシサスの身体から、ねっとりとした黒い靄が溢れ出す。


「おぉ……おぉ! 力が! 力が湧き上がってくる! すごいぞ!」

「流石は選ばれし者です。では、私はこれで失礼します。後は選ばれし者のお好きなように」


 メガネをかけた男性は自然な動作で部屋の中から出て行く。部屋から出る瞬間、ナルシサスのことを実験動物のように一瞥し、巻き込まれないうちに退散した。

 部屋の中のナルシサスは身体の奥から湧き上がる力に歓喜する。


「これは…これで俺は何でもできる! あぁ…俺をここに閉じ込めた奴らが憎い! 父上も母上も下賤な騎士たちも全てが憎イ!」


 ナルシサスの肌に紫色のシミが浮かんだ。そのシミは徐々に広がり体中を紫色に染めあげていく。

 彼の身体を縛っていた紐が弾け飛んだ。彼の増大する力に耐えられなかったのだ。

 部屋の中の騎士は焦点の合わない瞳でただ立ちすくんでいる。


「あぁ…国王がニクイ……オレが悪いだと? 俺は悪くない! 貴族以外は全員奴隷ダ! オレは高貴な血筋なんダ」


 ナルシサスの身体が禍々しい紫色に染まった。身体をねっとりとした黒い靄が覆っている。あらゆる憎悪や殺意を濃縮したような靄だ。


「アノ平民が憎い! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い! 絶対に殺してやる! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺ス殺す殺す殺ス殺すコロす殺すコロス殺ス殺す殺す殺スコロすコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!」


 首にはめられていた魔封じの首輪が、彼の増大した魔力に耐えられず吹き飛んだ。

 ナルシサスは黒い靄を纏い、肌は紫色に変色した。身体は筋肉がつき、背丈も伸びて二メートルを余裕で超えている。瞳はあらゆる憎悪が宿ってどす黒く濁っている。

 解き放たれたナルシサスは、湧き上がる力を無制限に解放した。


「コロシテヤル! GHAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」


 怒りと殺意の咆哮と共に、彼の身体から漆黒の暴風が噴き出した。

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