1.はじめに

 本研究は、日本の中高年男性に顕著な人間不全症候群(Humanic Deficiency Syndrome、以下HDS)患者への半構造化インタビュー(1)によって得られた質的データを分析し、その治療方法の確立に資することを目的とするものである。

 人間不全症候群とは、2030年頃から日本の中高年を中心に発生した精神疾患である。対人場面において極度の不安や不信を抱えており、感情や思考を表現したり、言葉によって意思疎通を図ったりすることに困難のある状態を指す。HDS患者はセロトニンの分泌異常が確認されているが、現段階において投薬による対症療法しかなく、根本的な治療方法は確立されていない。従前の研究でも、症状緩和のための医薬品開発(2)、心療内科における治療成績(3)などが報告されてきたものの、HDSの治療方法をめぐる状況に動きはない。

 そのような凪いだ状況においても心療内科医として治療を続けてきた左村は、HDSの原因についてある示唆的な報告を行った。HDSが新しいテクノロジーへの不適応によるのではないかというのである。

 2025年に開発された対人接触介入装置(Interpersonal Interface Injection Device、以下i3D)によって、人間のコミュニケーションは劇的に円滑化した。自然言語研究やAI心理学研究の成果から2028年に実用化されたi3Dは、コミュニケーションに伴う言語的・身体的な多義性・曖昧性を克服し、人類共通のグランドデザインの構築に成功することになる。その結果、現在ではコミュニケーションに伴う齟齬や軋轢は大幅に減少している(4)。左村は、HDSに罹った人物を「2010年代に完全普及したスマートフォンによって駆逐された悲しい自宅電話」だと形容し、その解決のためには「テクノロジーへの信頼を取り戻すための、メンタル・スキル・トレーニング」(5)が必要だと主張する。つまり、これまでの薬物療法的・心療内科的アプローチのみでは限界があり、認知行動療法に基づく研究の必要性が示唆されているのである。

 にもかかわらず、そのような知見は管見の限り見当たらず、左村の先進的な臨床研究のみである。しかも、左村のトレーニングプログラムはあくまでもi3D世代の視点から構築されており、改善の余地があるように思われる。たとえば、i3Dのトレーニング項目の1つとして「笑顔は有効の印であると体感する」とあるが、その「体得」のための方法論はない。端的にそう感じるようカウンセラーによって諭されるのみであり、当事者の困難は検討されていない。左村の比喩を借りれば、自宅電話にアプリケーションをインストールしろと要求するに等しい行為なのではないだろうか。

 したがって本論文では、HDS当事者の視点を反映するべく、インタビュー調査を行い、必要とされているトレーニングプログラムの開発のための質的データの取得を目指す。結論めいたことを述べるとすれば、コミュニケーションの基盤であるi3Dへの信頼確保のための着脱練習およびHDS患者同士による互助組織の重要性が明らかになるだろう。

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