第28話

 出掛ける前に二階へ上がり、居住スペースに入った所にあるチェストから、喫茶店と裏口の鍵を拝借はいしゃくした。喫茶店を閉めた際に、果澄が『夕飯は、私が作る。お店のカレーが残ってるけど、おかゆとかのほうがいいでしょ?』と提案すると、翠子は『一緒に食べてくれるの?』と嬉しそうに答えてから、鍵の置き場所を教えてくれた。

 ――『でも、あたしが寝てる間、果澄に時間を潰させたら、悪いから……家の裏口と喫茶店の鍵、持っていっていいよ。ちょっと買い物に行きたいとか、いったん家に帰りたいとかで、出掛けたかったら使ってね』

 厚意こういは有難かったが、使うことはないと思っていた鍵を――こんな形で用いることになるなんて、あのときは想像もできなかった。

 小海こうみと肩を並べて、喫茶店から離れるように茜空の下を歩く間、気まずい雰囲気を覚悟していたが、予想は意外にも裏切られた。果澄に歩調を合わせた小海は、先ほど見せた悲哀など始めからなかったような表情で、飄々ひょうひょうと話し掛けてきた。

「果澄さんは、翠子の中学生時代の友人ですよね」

「ええ、そうですけど……」

 正確には、あの頃はただのクラスメイトで、友人とは到底呼べない間柄だった。ばつが悪くなった果澄の胸中を知ってか知らずか、小海は優美に微笑んでいる。

「僕にも古い友人はいますが、大人になってからは互いの仕事が忙しくなったり、相手が遠方に引っ越したりして、滅多に会えていません。果澄さんの話を翠子から聞くたびに、希少きしょうな関係だと思っていました」

「希少……? 別に、そうは思いませんけど……私も、中学生時代の同級生と、一緒に働くことになるなんて、あの頃は思いもしませんでしたから、そういう意味では、希少な選択をしたのかもしれません。でも、自分で選んで決めたことですから」

「翠子のそばにいることを、ですか?」

「……そうです」

「果澄さんは、素敵な方ですね。翠子のそばにいてくれて、よかった」

 そう吐息をつくように言った小海は、端正たんせいな顔に上品な笑みをのせている。――小海清貴きよたかという人が、何を考えているのか分からない。だが、それは当たり前のことだと果澄は思う。果澄と小海は、翠子という共通の知人を間に挟んだだけの、他人同士に過ぎないのだから。

 特に目的地を定めていないつもりだったが、やがて駅にたどり着いたとき、小海が人通りの多い場所を選んでくれたのだと、賑やかな往来を歩きながら、果澄は気づいた。小海に「あの店にしましょう」と導かれた場所も、駅に隣接している商業ビルの一階に位置する広いカフェで、大きな窓ガラスからは店内の様子が一望できた。

「はい」と答えた果澄は、もしかしたら、と理解する。開放的な場所を選んでくれたのは、他人同士が二人きりで話すことについて、気を使ってくれただけではないかもしれない。――小海が翠子と別れた理由は、小海の不倫によるものだ。だから、果澄に配慮して、人目のある場所を選んだのだと思うのは、考え過ぎではない気がする。達也たつやに裏切られたときの悲しさは、すっかり過去の傷痕になったと見做みなしていたのに、生乾きの瘡蓋かさぶたがされたような痛みを、ほんの少しだけ思い出した。

 小海についていく形でカフェに入ると、駅前を見渡せる窓際の席に案内された。広々とした店内は、小型のペンダントライトが鈴なりにぶら下がっていて、壁にるされた観葉植物の緑も鮮やかだ。席は『波打ち際』の倍の数があり、ノートパソコンと向き合っている男性もいたが、雑談に花を咲かせている女子大生風の集まりや、パンケーキの写真をスマホで撮っているカップルたちの姿が目立つ。そういえば、己の職場以外の喫茶店に、ずいぶん長いあいだ行っていない。店のカラーは、経営者によって変わるという視点は、翠子との再会によって得られたのだと、漠然ばくぜんと思った。

「僕は、コーヒーで。果澄さんは?」

 対面の小海に声を掛けられて、我に返った。開いたメニューを差し出す小海は、先ほど果澄を怒らせたことなんて忘れたような顔で微笑している。「あ……ごめんなさい」と謝りながら、故郷の『大衆食堂たまき』でも、なかなか注文を決められなかったことを振り返り、己の優柔不断なところが嫌になった。

 テーブルに広げたメニューと睨めっこしていると、小海も一緒に眺め始めた。顔を上げた果澄は、ふと気づく。小海の視線が、メニューの一点で固定されていた。果澄に見られていることに気づいた小海が、「ああ」と言って苦笑する。

「ここのアフォガートを、翠子が気に入っていたんですよ」

「翠子と……ここに、来たことがあるんですね」

「ええ。バニラとチョコレート、二種類のアイスクリームに、熱いエスプレッソの苦みが合っていて、僕も好きでした」

 小海は、エスプレッソの苦みを思わせるような、淡い笑い方をした。――二人にとっての思い出の料理は、あの日のカツサンドの他にもあったのだ。当たり前だ、と再び思う。一度は愛をちかい合って、夫婦になった仲なのだから。果澄は、視線をテーブルの隅あたりに彷徨さまよわせた。

「……そんな、切なそうな目で言われても、困ります。私は、翠子の味方なので」

「そうですよね。果澄さんなら、そう答えると思っていました」

「わ、私のことを大して知らないのに、どうしてそんなことが言えるんですか?」

「友人のために涙を流せる、心の美しい人だということは、短い時間でも分かりましたから」

 さらりとした口調で、とんでもないことを言われた気がする。ペースを狂わされた果澄は、小海を振り向いて「だから、そういうことを言われると、もっと困るんですけど」と反論したが、余裕の微笑と向き合う羽目はめになってしまい、いよいよ困惑してしまった。果澄が対峙たいじしている相手は、天性の人たらしかもしれない。心の中で白旗をげて、そばを通った店員を呼び止める。

「アフォガートを一つ、お願いします。小海さんは、どうなさいますか?」

 コーヒーにすると聞いていたが、果澄はメニューを小海に向けた。なんとなく、注文が変わるような気がしていた。小海は、少しだけ目をみはってから、自罰的な微笑を再び作り、「僕も、同じものを」と答えた。

 ――どうしてだろう。去っていく店員を見送りながら、果澄は思う。こんなふうに誰かの心の機微きびに敏感で、他者への気遣いもおこたらない人間が、なぜ翠子を裏切ったのだろう。スマートな立ち居振る舞いも相まって、かつて翠子が語った『波打ち際』のモーニングのことも、当時は何も思わなかったのに、今さらの疑問をふと抱く。目の前にいる落ち着いた物腰の大人なら、『波打ち際』ではモーニングが上手くいかない可能性に、気づいていても不思議ではない気がした。

 すると、まるで心を読んだかのように、小海が「このお店は、モーニングも美味しいんですよ」と言ったから、果澄はギクリと肩をはずませた。小海が、毒気どくけを抜かれた顔をした。けむに巻かれていた素の顔が、初めて垣間見えた気がした。

「もしかして、翠子から何か聞いていますか」

「あ、えっと……」

「いいんですよ。お気遣いいただかなくても平気です。僕が失敗したのは、事実ですから」

 テーブルの上で両手を組み合わせた小海は、長い指に視線を落とした。

「個人的な話になりますが、僕には歳の近い兄がいるんです。優秀な人で、両親の期待を常に背負っていました」

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