第27話

 裏口の扉を振り返ると、窓にまった磨りガラスに、長身のシルエットがうっすらと見える。果澄が、躊躇ためらいつつもパネルを操作して、「はい」と返事をすれば、映像の小海こうみも驚き顔になった。『果澄さん、ですか』と問われたので、果澄は「はい。えっと……」と答えながら、二階を見上げた。居住スペースからは、物音一つしなかった。口ごもった末に、意を決して言った。

「……今、行きます」

 靴を履いた果澄は、裏口の扉を開けて、硬い表情の小海と対面した。薄手の上着に袖を通した小海の背後には、夕空を泳ぐ雲が明るく照り輝いていて、まだ営業中の時間帯に喫茶店を閉めたのだという現実を、まざまざと果澄に突きつける。神妙な表情で立つ小海は、丁寧に頭を下げてきた。

「突然押しかけて、すみません。実は、今日の閉店後に、ここで翠子と会う予定だったんです。こないだの話の続きをさせてほしいと、僕からお願いしていました。でも、さっき翠子から、今日は会えなくなったと連絡があって……それ以降、連絡が取れなくなったので、様子が気になって来てみたら、まだ閉店時間じゃないのに、お店が閉まっていて……翠子に、何かあったんですか」

 小海は、疲弊した果澄の様子から、ただならぬ気配を察したようだ。静かな狼狽ろうばいが伝わる顔は、真剣に翠子の身を案じているように見えた。――こんな顔をさせた責任の一端は、翠子の不調のきざしに気づいていたのに、大丈夫だと過信かしんした果澄にある。背筋を伸ばした果澄は、もう声が震えないように腐心ふしんしながら、今日の出来事を説明した。

「翠子は、仕事中に具合が悪くなったんです。だから、早めにお店を閉めて、今は二階で眠っています。本人は、いつものことだって言ってましたけど……私、気が動転して、翠子のお母さんに電話しちゃったんです。翠子のお母さんも、翠子の言葉を信じているようでしたけど、近いうちに来てくださるそうです」

「そうですか。……ひとまず、よかった。大事なくて。果澄さんが、翠子についていてくださって、本当によかったです」

 小海の表情の強張りが、言葉通りの安堵を示すように、ほんの少しだけ和らいだ。温もりを感じる笑みを見たとたんに、緊張の糸が切れてしまった。ぽろっと零れた涙が頬をすべり、果澄は自分でもびっくりした。小海も、ハッとした顔をしている。

「あ……嘘……ごめんなさい……」

 恥ずかしさで頬を熱くしながら、指で目元をこすっていると、目の前にハンカチが差し出された。持ち主を見上げれば、少し困ったように微笑む小海と、目が合った。果澄は、躊躇ためらいつつも「ありがとうございます」と囁いて、ハンカチを受け取って目元に当てた。秋風にそよぐ街路樹が、心地いい葉音を鳴らしている。緩やかに流れた沈黙が、乱れていた心を落ち着かせて、入れ替わりで気まずさが湧いてきた。

 ――まだ二回しか会っていない相手なのに、思いがけず涙を見せてしまった。穴があったら入りたい気持ちで「ハンカチ、洗ってお返しします」と伝えると、小海が「果澄さん」と改まった口調で呼んできた。

「もしよければ、今日のことをもっと教えてもらえませんか。翠子に負担が掛かっているのは、僕の責任でもあるから。ちゃんと知っておきたいんです」

「あの……ごめんなさい。小海さんが『波打ち際』に入ることを、翠子が認めたわけではありませんから。私の一存で、お店に入れるわけにはいかないんです。立ち話も何ですから、場所を変えさせてください」

 わずかな罪悪感には目をつむり、心を鬼にして返事をした。ひどい態度だと、我ながら思う。だが、翠子が寝込んだ原因を作ったのは、今日の判断を誤った果澄だけではないわけで――腹立たしさを感じたことを、隠す気力もなければ、義理もなかった。

 小海は、傷ついた顔を見せるかと思いきや、儚げな笑みを返してきた。どこか自罰的で、過去をしのんでいるような眼差しは、夫婦の思い出のカツサンドを食べたときに、翠子が果澄に見せた眼差しと、ハッとするほど質が似ていた。

「仰る通りだと思います。ぜひ僕からも、そうさせてください」

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