第8話

 夜に喫茶店まで出向くのは、キッシュを作った日以来だろう。『CLOSED』の札が掛かった『波打ち際』の扉を開けた果澄を、翠子は温かくむかえてくれた。

「ありがとう、待ってたよ! お互いの家が近いと、集まりやすくていいよね」

 閉店後の店内は、厨房ちゅうぼうの電灯とカウンター席のペンダントライトだけがいていて、普段よりも大人びた雰囲気がただよっている。果澄からビニール袋を受け取った翠子は、ゴーヤーを見るなり歓声かんせいを上げた。「あたし、ゴーヤー好きなんだ」と言いながら、ゴーヤーを素早くシンクで水洗いして、両端の先を包丁で落とした。次に、縦向きに包丁を入れてから、淡い黄緑色のワタと種を、スプーンでふんわりとのぞいていく。手つきの優しさに相反して、手際は鮮やかで無駄むだがなかった。調理台には、布巾ふきんつつんで水切りをしていたと思しき木綿もめん豆腐があり、果澄の視線に気づいた翠子が「今日のまかないは、し豆腐の予定だったんだ」と言って、悪戯いたずらっぽい笑みを見せた。

「でも、最高のタイミングでゴーヤーをお裾分すそわけしてくれたから、この豆腐を使ったゴーヤーチャンプルーに変更するよ」

 話しながら翠子は、早くもゴーヤーを五ミリほどのはばに切っていて、小さな弓の形になった緑色をボウルに移し、塩と砂糖をみ込んでいる。我に返った果澄が、「手伝う」と話し掛けると、翠子は屈託くったくなく笑って「じゃあ、フライパンに胡麻油を引いて火に掛けて、豆腐を適当な大きさに千切ちぎって」と答えて、別のボウルに卵を割り落とした。

 手を洗った果澄が、指示通りに作業をこなしていくと、翠子が豆腐をフライパンに並べていった。ジュッと爽やかな音がぜて、狼煙のろしのような湯気ゆげが上がる。不揃ふぞろいな豆腐に焼き目がつけば、菜箸さいばしで皿に移してから、ゴーヤーのボウルにまった水分をシンクに捨てて、いよいよゴーヤーもいためていく。ふわっと夏の野原のはらのような青い香りが拡がって、緑色の繊月せんげつが透明感を帯び始める。つややかに焼けたゴーヤーも皿に移して、塩胡椒を振った豚肉にも火を通していけば、食欲をそそる野性味が、柔らかい匂いとからみ合った。食材を胡麻油で順番に焼くたびに、香りが段階を踏んで変わっていく。いつしか果澄は、目まぐるしい変化を夢中で追っていた。

「ここで、豆腐とゴーヤーをフライパンに戻して……あっ果澄、作り置きの味噌汁を二階から持ってきてるから、温めてくれる? ごはんは、炊飯器に残ってるよ」

 果澄に声を掛けた翠子は、具材に塩を振ってから、溶き卵を大胆だいたんに回し掛けて、夕立ゆうだちのようににぎやかな音をはじけさせた。白くけぶる湯気の向こうで、胡麻油をまとう豆腐とゴーヤーと豚肉が、黄色の海にかっている。しばしなぎの状態をたもってから、フライパンを振って海面を波立なみだたせる翠子は、妊婦にんぷだということを刹那せつな忘れるほど、普段に輪をかけて機敏きびんだった。

 果澄は、ごはんと味噌汁の準備をしながら、引き続き調理の様子を見守った。焼けた卵は、みぎわ貝殻かいがらのように多種多様な形になっていて、仕上げの醤油をびたゴーヤーチャンプルーは、雨上がりの世界のようにキラキラしていた。

「完成! 熱々のうちに食べよう!」

 楽しげに笑った翠子は、出来立てのゴーヤーチャンプルーを、二枚の皿に取り分けた。モダンな花柄のうつわは、喫茶店の食器ではなく、二階の鮎川あゆかわ家のものだろう。たとえまかないであっても、料理に合わせて器を選ぶ丁寧さに、果澄は静かに感銘かんめいを受けた。ごはんと味噌汁、ゴーヤーチャンプルーが並んだカウンター席は、洋風の喫茶店とはおもむきが異なり、しぼられた照明もあいまって、なんだか小料理屋にでも来た気分になる。

「喫茶店で和食を食べるのって、ちょっと不思議な感じがする」

「そう? まあ、和食のときは、二階で食べてたもんね」

 他愛ない話をしながら、二人でカウンター席に座り、「いただきます」と唱和しょうわする。ゴーヤーチャンプルーを食べた果澄は、つい頬を緩めた。胡麻油が香るゴーヤーと豚肉は、味わいがはなやかで力強いのに、豆腐と卵には上品な滋味深じみぶかさが宿っている。

「翠子って、こういう料理も上手なんだ」

「まあね。両親に仕込まれましたから」

 さらっと翠子が言ったから、果澄は首をひねった。翠子の両親も、料理上手なのだろうか。少し興味がいたが、今は静かに過ごしたい気分なので、特に詮索せんさくしなかった。すると、ゴーヤーにはしを伸ばしていた翠子が、上機嫌の顔でこちらを振り向いた。

晩夏ばんか相応ふさわしいメニューで、八月をめくくれそうで嬉しい。果澄のご家族に、お礼を伝えておいてね」

「うん……」

 ――八月が、もう終わる。果澄の人生が変わった七月初旬から、二か月がたとうとしているのだ。物憂ものうげな気分がぶり返していると、翠子がおもむろにまゆを下げた。

「そんなににがかった?」

「え?」

「苦いなぁ、って顔をしてたから。特別苦い部分に当たっちゃったのかな、と思って」

「……うん、そうみたい……」

 いためられたゴーヤーの苦みは、翠子の手で旨味うまみに変えられているにもかかわらず、今の果澄の気持ちに馴染なじみすぎて、困ってしまう。

 ――『あんたはいつもそうやって、肝心かんじんなことから逃げるんだから!』

 母との電話のやり取りが、鼓膜こまくにこびりついている。苦い後味を舌に感じながら、逃げてない、と心の中で呟いた果澄は、店内のカレンダーを振り返った。

 もうすぐ訪れる九月の間に、喫茶店の定休日のどこかで、故郷に帰ろう。そして、両親と向き合って、改めて婚約破棄の件と、果澄の新しい仕事の話をしよう。

 そのためにも――先に、済ませたいことがある。カレンダーから視線を外した果澄は、「翠子」と呼んで、少し緊張しつつも、はっきりと言った。

「達也が、次に喫茶店に来るときに、お願いしたいことがあるんだけど――」

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