episode8 さよならの日にうってつけのクリームソーダあんみつ風

第9話

「ありがとうございました」

 レジで客を見送った昼下がりに、壁に掛けたカレンダーを見つめた果澄は、深呼吸する。九月初旬の土曜日をむかえた今日が、きっと『その日』になることを予感していた。カレンダーから視線を外して、無人の店内で食器を片付け始めると、厨房の翠子から「果澄、あとで手伝ってもらってもいい?」と声が掛かった。

「どうしたの?」

り戸棚の上段から、パウンドケーキの型を取ってくれる? 左奥にあるから」

「分かった」

 厨房に入った果澄は、洗い物をシンクに置いてから、吊り戸棚を開けた。下段にはコーヒーカップが整然と並んでいて、上段には調理器具が収納されている。背伸びをすれば上段の物を取れそうだが、念のため翠子が休憩用に使っている椅子を引っ張ってくると、翠子は「ありがとう、助かるよ」と言って微笑んだ。

「普段のメニューでは使わないから、高い所に入れてたけど、これからは仕舞しまう場所を考えなきゃね」

 翠子のワンピースとエプロンを押し上げるふくらみは、再会を果たした二か月前から、着実に大きくなっている。靴を脱いで椅子に上がった果澄は「そうは言っても、収納スペースはかぎられてるでしょ」と応じながら、銀色の長方形の型を探し当てて、こちらを見上げていた翠子に手渡した。

「物の出し入れくらい、私を気軽に呼んでくれたら、何度でもやるわよ。……自己判断で、勝手に危ないことをしないでよね」

「やっぱり果澄は、頼りになるね」

 はなやいだ笑みを向けられた果澄は、返答にきゅうして目が泳いだ。その拍子に、調理台に置かれた透明な小瓶こびんに気づく。中身は、じくと種を取り除いたサクランボだろうか。ワインレッド色にかがやく液体に、一パック分ほどかっている。

「これ、前から冷蔵庫に入れてた瓶だよね。ジャム?」

「ううん、サクランボのキルシュけ。キルシュは、サクランボを発酵はっこうさせて蒸留じょうりゅうしたフルーツのブランデーだよ。最近は、果澄と二人の経営体制に慣れてきたし、隙間すきま時間で新メニューを研究したいなーと思って、ついに冷蔵庫から出したんだ」

 得意満面の翠子は、小瓶をかかげた。ブランデーがたぷんとれて、縁日えんにちのりんごあめを集めたような果実たちも、コロコロと赤い海を泳ぎ出す。カウンター席のペンダントライトの光に照らされたサクランボは美しく、つい果澄は見入ってしまった。

「キルシュ漬けって、食べたことないかも。いつから漬けてたの?」

「果澄が、引っ越しで忙しそうにしてた時期。漬けてから二週間くらいで食べ頃になるけど、開封しなければ一年は保存できるよ。まあ、サクランボのしゅんはとっくに過ぎてるから、今年は仕入れができないけどね。新作を編み出せても、メニューに加えるのは来年だなぁ」

「もう来年のことを考えてるの?」

「楽しい予定は、多ければ多いほどいいからね。まずはケーキに入れて焼こうかなって考えてるけど、実はまだ悩んでるんだ。キルシュ漬けは少しだけだから、ケーキで使い切っちゃうのはもったいなくて。ヨーグルトに混ぜても美味しいだろうなぁ」

 翠子は、パウンドケーキの型を眺めながら、うきうきと楽しそうに語っている。天職てんしょく従事じゅうじしている充実感が、笑みの眩しさにみがきを掛けているのだろうか。そう漠然ばくぜんと考えながら、椅子を厨房のすみに戻していると、おもむろに翠子が「果澄の名前って、果物くだものの『果』の字だよね」と訊ねてきたから、果澄は「そうよ」と返事をした。

 果実のように瑞々みずみずしく、んだ感性の子に育つように――そんな願いで名付けられたという話を、学生の頃に母から聞いた。透明感を極めるあまり、融通が利かなくなった己を言い当てているような名前だと、大人になるにつれて自嘲じちょう気味に思ったものだ。

 数日前の晩夏ばんかを振り返ると、母の言葉の苦みがよみがえる。毎年おぼん休みには、実家の両親に顔を見せていたが、今年は婚約破棄の件で気まずいので、つい帰省きせいけていた。逃げずに帰ればよかったと今なら思うが、翠子から先月に『お盆も出勤できる?』と打診だしんも受けていたので、どのみち帰らなかったかもしれない。そのときの翠子の声は、普段の明るさが少しかげっていて、わずかながら気掛かりだった。

 そんな回想をち切るように、翠子が無邪気な笑みで「果澄は、果物の中で何が一番好き?」と訊いてきたので、きょかれた果澄は、小声で答えた。

「……サクランボ」

「わ、最高のタイミングじゃん。新作候補は、なおさら気合を入れて作らなきゃね」

「い、いいわよ。気を使わなくても」

 こういうとき、素直に『楽しみにしてる』と言えない自分は、つくづく可愛げがないと思う。だが、翠子はニッと笑って「楽しみにしててね」と先回りするように言ったから、心拍数と体温が上がった果澄は、シンクの食器をことさらに急いで洗っていった。

 すると、からん、からん、とベルが鳴り、顔を上げた果澄は、瞠目どうもくした。覚悟していたよりも遙かに凪いだ心のままに、木製扉を開けた人物に向けて、笑みを作る。

「いらっしゃいませ。達也」

「よお、果澄。会いたかったよ」

「うん。私も」

「えっ?」

 調子よさそうに笑っていた達也は、呆気あっけに取られた顔をした。翠子が、果澄の隣に歩を進めて「代わるよ」とさりげなく言ったから、果澄は小さく頷くと、食器の片付けの続きを店主に任せて、厨房を出た。

「達也。今日もこれからお昼ごはんなら、私と一緒に食べよう」

 達也は、戸惑いを深めた顔になる。七月の破局はきょく以降、果澄は達也を突き放してきたのだから、当然の反応だ。「仕事はいいのか?」と訊かれたので、果澄は「うん。次に達也が来るときには、少し時間が欲しいって、翠子に話を通してるから」と答えると、達也を窓際のテーブル席へみちびいた。

「私、バターチキンカレーにする。達也は?」

「えっと……じゃあ、俺も同じで」

「分かった。ちょっと待ってて」

 果澄は、オーダーを書きめた伝票でんぴょうを、翠子の元へ持っていく。果澄のわがままをこころよく受け入れてくれた翠子は、すでにカレー鍋をガステーブルで温め始めていて、伝票を一瞥いちべつして首肯しゅこうした。果澄とは、目を合わせない。口角こうかくやわらかく上げた表情は、感情の濃淡のうたんがフラットで、存在そのものを空気にけ込ませているようだった。喫茶店で過ごす者が、そのときに必要としている態度を熟知じゅくちしている翠子は、まさしく『波打ち際』の店主だった。同級生に厨房を任せた果澄は、バックヤードでエプロンを外してから店内に戻り、テーブル席のソファに座って、正面の達也と向き合った。

 達也は、まだ困惑と驚きがないまぜになった目をしていたが、やがて無邪気な喜色きしょくを顔に浮かべて「果澄から声を掛けてくれて、すげぇ嬉しいよ」と言った。店内に射し込む日差しが、達也の茶髪を照らしている。窓ガラスをへだてた往来おうらいからは、九月に入った今もせみの鳴き声が聞こえるので、まだ夏が続いているような心地ここちになる。達也の婚約者だった頃の乙井おとい果澄に、引き戻されていく気分になる。

 だが、翠子の腹の子どもが成長するように、時間は着実に流れている。激動の二か月を過ごすうちに、今まで達也に言えなかった本心を伝える勇気が、いつの間にか育っていた。果澄は、すうと息を吸い込んで、ついに本題を切り出した。

「達也が『波打ち際』に通うのは、私のため?」

 達也にとっては、意外な質問だったのだろう。少しの間を開けてから、頷いた。

「そうだよ」

 果澄は、少し落胆らくたんする。だが、達也は「でも」と続けた。

「最初は、果澄のためだけに来てたけどさ、今は果澄のためだけじゃないんだ。このお店、居心地がいいんだよ」

 達也の笑みは伸びやかで、果澄と付き合っていた頃に感じたような、嘘と言い訳の気配は見当たらない。八月初旬に、慣れない接客業務に苦労していた果澄のために、クロックムッシュを作ってくれた店主の声が、ふわりと脳裏にひびき渡った。

 ――『居心地のいい場所を、これからも二人で作っていこうね』

 進みたい道を歩めた実感が、果澄を自然と微笑ませた。これで、未練みれんはなくなった。

「その言葉を聞けて、よかった」

「果澄……俺のことを、許してくれるのか? それじゃあ、俺たちは」

 ぱっと目を輝かせた達也に対して、果澄はかぶりを振った。激昂げっこうなどしなくても、己の意思を他者に伝える力を、果澄はちゃんと持っている。翠子がホットココアを作った日のことを振り返りながら、正式に言わなければ後悔する台詞せりふを、声に乗せた。

「お客さんとしてなら、歓迎かんげいする。いつでも来て。でも、もう私とやり直せるとは思わないで」

「果澄」

「私が、達也のことを許して、また付き合うようになったら。きっと達也は、私にきるよ。達也って、そういう人でしょ」

 達也が、目を見開いた。それから、付き合っていたときには一度も見せなかった苦笑の顔で、いつも飲んでいるコーヒーのような苦みがけた声を、吐き出した。

「今の言葉が、一番こたえたよ」

 厨房から、足音が聞こえてきた。テーブルの隣に立った翠子が、「お待たせいたしました。バターチキンカレーです」とげて、二人分の昼食を配膳はいぜんする。立ち上がった果澄が「ありがとう」と言って手伝うと、達也も我に返った様子で、立ち去っていく身重みおもの店主に頭を下げた。それから、料理を見下ろして「あ」と声をらした。

あねさんのカレー、ニンジンが星形なんだな」

「それ、当たりだよ。お鍋の中に、少しだけしか入ってないの」

「へえ……」

 達也は、ニンジンの星をしげしげと見つめて、微笑んだ。『当たり』の星が燦然さんぜんと輝くカレー皿を、着席した果澄のほうへ押し出してくる。

「果澄にやるよ。皿を交換しよう」

「せっかくの当たりなのに、達也が食べればいいじゃない」

「いいんだって。二人だけで食事をするのは、最後だろ? 果澄に言われたことは、結構ショックだったけど、目が覚めた気分になったから、その礼だよ」

 普段通りの口調で『最後』だと告げられても、もう胸は痛まなかった。そんな内面の変化に驚いている間に、達也はカレー皿を果澄のものと交換した。

「いただきます。姐さんの料理は、やっぱり上手いな」

 湯気が立ち上るカレーを食べた達也は、頬をゆるめた。そして、目元も優しく緩めると「果澄、変わったよな」と穏やかに告げた。

「別れたときは、俺に本気で怒ってたけど、付き合ってたときは、もっと感情をおさえてたっていうか……まあ、そうさせたのは俺なんだろうけどさ、腹の中で思ってることを、全部は言わなかっただろ? でも、今は違うじゃん。怒ってるとき以外も、俺に本音を全部言うようになったよな」

幻滅げんめつした?」

「いや」

 達也は、明るく笑った。秋のおとずれがせまる空のような、あるいは翠子が果澄のために作ってくれたライムジュースのような、さわやかな笑い方だった。

「前よりも、いい女になったよ」


     *


 からん、からん、とベルを鳴らして『波打ち際』を出た果澄は、扉に掛けた『OPEN』の札を裏返うらがえして『CLOSED』にした。ふっと見上げた夜空の彼方かなたは、まだ鴇色ときいろに染まっていて、ほんのりと夕焼けの名残なごりがある。一番星をながめてから、スタンド看板かんばんを店内に引き入れた。

 閉店後の喫茶店は、しんと静まり返っている。BGMが消えたことで、日中には感じなかった孤独こどくを意識した。厨房で何やら作業をしている翠子は、手元がカウンターで隠れて見えないが、おおかた明日に備えて料理の仕込みをしているのだろう。戻ってきた果澄を振り返ると、晴れやかに笑った。

「お疲れさま。閉店間際まぎわはお客さんが多かったから、疲れたでしょ。掃除はあとにして、カウンター席で休んでて」

 休まなくても平気だと、普段の果澄なら強がったかもしれない。だが、今日は翠子の言葉に従った。カウンター席の中ほどに腰を下ろして、天板てんばん頬杖ほおづえをつく。

 すると――コトン、と視界のはしで音がした。頬杖をやめて顔を上げると、すぐそばにパフェグラスが置かれていた。以前は夜間やかんにショットバーをいとなんでいたという『波打ち際』のカウンター席で、ペンダントライトの光を浴びて輝くパフェグラスは、たたずまいがまるでカクテルだ。見つめた果澄は、息をむ。

「クリームソーダ? えっ、嘘……」

 透明なパフェグラスを満たすグリーンに、バニラアイスを丸く盛りつけている見た目は、果澄が知るクリームソーダにそっくりだ。しかし、ソーダ部分の緑色は、サイコロ状にカットされたゼリーの集まりで、炭酸が苦手な果澄のために、工夫くふうらしてくれたことは明らかだ。――それに。縁日のりんご飴のような果実たちが、鮮やかな色彩のゼリーの隙間すきまに、しげもなくたくさんしずんでいた。

「ドラマで、バーの場面がうつるときに観た『あちらのお客様からです』ってやつ、一回やってみたかったんだよね」

 翠子が、厨房から身を乗り出してきた。とっておきのサプライズが成功したと言わんばかりに、美貌に嬉しそうな笑みを浮かべている。

「新作候補、なかなかいい感じでしょ? ゼリーは、かき氷のシロップで着色した寒天ゼリーだから、名前は『クリームソーダあんみつ風』ってところかな? あ、黒蜜くろみつの代わりに、これを垂らしてね。バニラアイスにも絶対に合うから」

 厨房から手を伸ばした翠子は、ミルクピッチャーをカウンターに置いた。透明なガラスに注がれたワインレッド色を見つめた果澄は、精一杯の文句をしぼり出す。

「何が『あちらのお客様』よ。ここには、翠子しかいないじゃない」

「あたししかいないってことは、あたしがいるってことじゃん」

 打てば響くような返答が、孤独感をまたたく間に消していく。果澄は、顔をくしゃりと歪めて「意味分かんない」と悪態あくたいきつつも、自分のために作られたクリームソーダに、ミルクピッチャーのキルシュを垂らした。寒天ゼリーとバニラアイスをスプーンですくい、口に運ぶ。可愛さと大人っぽさをあわせ持った甘みを味わううちに、涙がぼろぼろと頬をつたった。芳醇ほうじゅんさが濃縮のうしゅくされたサクランボを咀嚼そしゃくしながら、今さら気づく。

 達也と別れた七月から、何度も怒ったり悲しんだりしてきたが――これまで果澄は、一度も泣いていなかった。

「なんで、こういうことをするのよ……貴重なサクランボのキルシュ漬けを、どうして一気に使っちゃうのよ」

「せっかくケーキの型を取ってくれたのに、ごめんね。でも、また来年に、次はいっぱいければいいじゃん。楽しい予定は、多ければ多いほどいいって言ったでしょ?」

 にじんだ視界で胸を張った翠子は、果澄の涙に言及げんきゅうしなかった。中学三年生の頃の果澄なら、大嫌いな翠子に涙を見られるなんて、死んでも嫌だと思ったはずだ。ホットココアを飲んだときだって、果澄はこぼれそうになる涙を、意地とプライドでおさえていた。

 それなのに、今は不思議と、涙を見られても嫌ではなかった。

 将来を約束した人と決別けつべつしても、果澄は一人ではないということを、当然のように伝えてくれた翠子のことを、果澄は今も『大嫌い』だろうか? 本当の気持ちが、とっくに変わっていることを、もう認めないわけにはいかなかった。

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