episode8 さよならの日にうってつけのクリームソーダあんみつ風
第9話
「ありがとうございました」
レジで客を見送った昼下がりに、壁に掛けたカレンダーを見つめた果澄は、深呼吸する。九月初旬の土曜日を
「どうしたの?」
「
「分かった」
厨房に入った果澄は、洗い物をシンクに置いてから、吊り戸棚を開けた。下段にはコーヒーカップが整然と並んでいて、上段には調理器具が収納されている。背伸びをすれば上段の物を取れそうだが、念のため翠子が休憩用に使っている椅子を引っ張ってくると、翠子は「ありがとう、助かるよ」と言って微笑んだ。
「普段のメニューでは使わないから、高い所に入れてたけど、これからは
翠子のワンピースとエプロンを押し上げる
「物の出し入れくらい、私を気軽に呼んでくれたら、何度でもやるわよ。……自己判断で、勝手に危ないことをしないでよね」
「やっぱり果澄は、頼りになるね」
「これ、前から冷蔵庫に入れてた瓶だよね。ジャム?」
「ううん、サクランボのキルシュ
得意満面の翠子は、小瓶を
「キルシュ漬けって、食べたことないかも。いつから漬けてたの?」
「果澄が、引っ越しで忙しそうにしてた時期。漬けてから二週間くらいで食べ頃になるけど、開封しなければ一年は保存できるよ。まあ、サクランボの
「もう来年のことを考えてるの?」
「楽しい予定は、多ければ多いほどいいからね。まずはケーキに入れて焼こうかなって考えてるけど、実はまだ悩んでるんだ。キルシュ漬けは少しだけだから、ケーキで使い切っちゃうのはもったいなくて。ヨーグルトに混ぜても美味しいだろうなぁ」
翠子は、パウンドケーキの型を眺めながら、うきうきと楽しそうに語っている。
果実のように
数日前の
そんな回想を
「……サクランボ」
「わ、最高のタイミングじゃん。新作候補は、なおさら気合を入れて作らなきゃね」
「い、いいわよ。気を使わなくても」
こういうとき、素直に『楽しみにしてる』と言えない自分は、つくづく可愛げがないと思う。だが、翠子はニッと笑って「楽しみにしててね」と先回りするように言ったから、心拍数と体温が上がった果澄は、シンクの食器をことさらに急いで洗っていった。
すると、からん、からん、とベルが鳴り、顔を上げた果澄は、
「いらっしゃいませ。達也」
「よお、果澄。会いたかったよ」
「うん。私も」
「えっ?」
調子よさそうに笑っていた達也は、
「達也。今日もこれからお昼ごはんなら、私と一緒に食べよう」
達也は、戸惑いを深めた顔になる。七月の
「私、バターチキンカレーにする。達也は?」
「えっと……じゃあ、俺も同じで」
「分かった。ちょっと待ってて」
果澄は、オーダーを書き
達也は、まだ困惑と驚きがないまぜになった目をしていたが、やがて無邪気な
だが、翠子の腹の子どもが成長するように、時間は着実に流れている。激動の二か月を過ごすうちに、今まで達也に言えなかった本心を伝える勇気が、いつの間にか育っていた。果澄は、すうと息を吸い込んで、ついに本題を切り出した。
「達也が『波打ち際』に通うのは、私のため?」
達也にとっては、意外な質問だったのだろう。少しの間を開けてから、頷いた。
「そうだよ」
果澄は、少し
「最初は、果澄のためだけに来てたけどさ、今は果澄のためだけじゃないんだ。このお店、居心地がいいんだよ」
達也の笑みは伸びやかで、果澄と付き合っていた頃に感じたような、嘘と言い訳の気配は見当たらない。八月初旬に、慣れない接客業務に苦労していた果澄のために、クロックムッシュを作ってくれた店主の声が、ふわりと脳裏に
――『居心地のいい場所を、これからも二人で作っていこうね』
進みたい道を歩めた実感が、果澄を自然と微笑ませた。これで、
「その言葉を聞けて、よかった」
「果澄……俺のことを、許してくれるのか? それじゃあ、俺たちは」
ぱっと目を輝かせた達也に対して、果澄は
「お客さんとしてなら、
「果澄」
「私が、達也のことを許して、また付き合うようになったら。きっと達也は、私に
達也が、目を見開いた。それから、付き合っていたときには一度も見せなかった苦笑の顔で、いつも飲んでいるコーヒーのような苦みが
「今の言葉が、一番
厨房から、足音が聞こえてきた。テーブルの隣に立った翠子が、「お待たせいたしました。バターチキンカレーです」と
「
「それ、当たりだよ。お鍋の中に、少しだけしか入ってないの」
「へえ……」
達也は、ニンジンの星をしげしげと見つめて、微笑んだ。『当たり』の星が
「果澄にやるよ。皿を交換しよう」
「せっかくの当たりなのに、達也が食べればいいじゃない」
「いいんだって。二人だけで食事をするのは、最後だろ? 果澄に言われたことは、結構ショックだったけど、目が覚めた気分になったから、その礼だよ」
普段通りの口調で『最後』だと告げられても、もう胸は痛まなかった。そんな内面の変化に驚いている間に、達也はカレー皿を果澄のものと交換した。
「いただきます。姐さんの料理は、やっぱり上手いな」
湯気が立ち上るカレーを食べた達也は、頬を
「別れたときは、俺に本気で怒ってたけど、付き合ってたときは、もっと感情を
「
「いや」
達也は、明るく笑った。秋の
「前よりも、いい女になったよ」
*
からん、からん、とベルを鳴らして『波打ち際』を出た果澄は、扉に掛けた『OPEN』の札を
閉店後の喫茶店は、しんと静まり返っている。BGMが消えたことで、日中には感じなかった
「お疲れさま。閉店
休まなくても平気だと、普段の果澄なら強がったかもしれない。だが、今日は翠子の言葉に従った。カウンター席の中ほどに腰を下ろして、
すると――コトン、と視界の
「クリームソーダ? えっ、嘘……」
透明なパフェグラスを満たすグリーンに、バニラアイスを丸く盛りつけている見た目は、果澄が知るクリームソーダにそっくりだ。しかし、ソーダ部分の緑色は、サイコロ状にカットされたゼリーの集まりで、炭酸が苦手な果澄のために、
「ドラマで、バーの場面が
翠子が、厨房から身を乗り出してきた。とっておきのサプライズが成功したと言わんばかりに、美貌に嬉しそうな笑みを浮かべている。
「新作候補、なかなかいい感じでしょ? ゼリーは、かき氷のシロップで着色した寒天ゼリーだから、名前は『クリームソーダあんみつ風』ってところかな? あ、
厨房から手を伸ばした翠子は、ミルクピッチャーをカウンターに置いた。透明なガラスに注がれたワインレッド色を見つめた果澄は、精一杯の文句を
「何が『あちらのお客様』よ。ここには、翠子しかいないじゃない」
「あたししかいないってことは、あたしがいるってことじゃん」
打てば響くような返答が、孤独感を
達也と別れた七月から、何度も怒ったり悲しんだりしてきたが――これまで果澄は、一度も泣いていなかった。
「なんで、こういうことをするのよ……貴重なサクランボのキルシュ漬けを、どうして一気に使っちゃうのよ」
「せっかくケーキの型を取ってくれたのに、ごめんね。でも、また来年に、次はいっぱい
それなのに、今は不思議と、涙を見られても嫌ではなかった。
将来を約束した人と
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