命の輪
マチルダの思考は次第に人間のものから遠ざかっていった。マチルダは考えることをやめると、身を翻して、素早く森の奥へと戻っていった。
――場面が変わった。今度はマチルダは――既に自分がマチルダであるという認識はなかった――暗い空の下にいた。暗いといっても夜ではない。昼間ではあるが、厚い雲が空を覆っているのだ。
寒い世界だった。雪がうすく地面に降り積もっている。同じように、ネズミに似た姿をしたマチルダは、白く大きく、固い物質の上にいた。それは巨大な生き物の骨だった。しかしマチルダはそれを知らない。これがかつて生き物で、この地上を我が物顔に歩いていたことを知らない。
マチルダが思うことは、何かを食べるとこと、眠ること、敵から逃げること、生殖をすること、くらいだった。今も食べ物を探していたのだ。暗い世界も、マチルダには怖くはない。生まれたときからそうだったのだから。歩き回るのをやめて、マチルダは白い骨の上で、ふと、空を見上げる。その鼻先に、雪のかけらが落ちてきた。マチルダの鼻先で雪は溶ける。空からは次々と雪片が落ちてくる。
そこでマチルダは目を覚ました。
――――
目を覚ましたマチルダはぼんやりと辺りを見回した。小さくて貧しい部屋だった。固い長椅子の上に寝ていることに、マチルダは気付いた。起き上がり、注意深く周りを見る。とてもよく知っているところだということに、すぐに気付いた。
実家の台所なのだ。家族で食事をとるテーブルが見える。古いいびつな木の椅子が見える。かちかちと時を刻む見慣れた時計。今すぐにでも扉が開いて、家族の誰かがやってきて明るい声をかけてきそうだった。
室内は薄暗く、夜なのか昼なのかよくわからなかった。どうして私はこんなところにいるのだろう、とマチルダは思った。思い出そうとする。何があって――そう、夢を見ていたんだわ。不思議な夢だった。私はネズミみたいな生き物になって――ちょっと待って、私は――私は、何者?
ここの家に暮らすものだということは分かった。ここは私の家。でも――私はここをしばらく離れていたような気がする。今は私はここに住んではいない。ということは、今はどこに住んでいるのだろう。私は……誰?
マチルダは立ち上がった。この家は――子だくさんで、すごく賑やかだったはずだ。家が小さいからいつもきゅうきゅうと人がいた。なのに、今は物音ひとつしない。どういうことだろう。みんな、どこに行ってしまったの? マチルダは歩き出した。
そのまま真っすぐ、裏口の扉へと向かう。扉を開けると、裏庭の光景が目に飛び込んできた。そうだ。この裏庭。懐かしい。小さな庭。私はここをよく知っているのだ。幼い頃よく遊んだ。
霧のような、細かい雨が降っていた。マチルダは庭へと出ていく。庭の隅には、ねじれた小さな木
があった。そこに、木の下に、ネズミような生き物が一匹、ぽつねんと存在していた。マチルダはそちらに近づいてく。
生き物の傍らには小さな水たまりがある。生き物が水たまりに近づく。その中に入って、そして、全身が消えてしまった。ただの水たまりなのに、そんなことがあるだろうか。マチルダははっとして駆け寄った。水たまりの側に膝をつき、中を覗き込む。その瞬間――マチルダの身体も水たまりの中に入っていた。
――中は深い。深くてとても広いのだ。海の中みたい、とマチルダは思った。けれども息は苦しく
ない。マチルダの身体はゆっくりと落ちていく。
柔らかな光が溢れていた。生き物たちの姿が見える。犬や牛のような見知った生き物。鳥たち。小
さなトカゲに緑のカエル。鱗をひらめかす魚たち。
それらがみな、マチルダと同じように落ちていた。このままだとどうなるのかしら、とあまり緊迫感もなくマチルダは思った。海の底につくの? 底には何があるのかしら。
生き物の姿が少しずつ変わっていく。それはマチルダには見慣れない姿になっていく。トカゲと鳥のどちらにも似た生き物が目の前を横切っていく。私、あれを見たことがあるわ。どこかで――でもどこだったが、思い出せない。
生き物たちはさらに変化し、さらに風変りな姿になっていった。もはや生物と言っていいのかもわからない。それはぶよぶよとした半透明の塊に見える。そういったものたちがマチルダと一緒に落ちていく。あれは――あれも命。私がそうであるように。奇妙なものたちを見てマチルダは思った。あれは私。でも私ではない。ここにあるのは全て私で、けれども全て私ではない。
その中の一つに、マチルダは何かを見た。よく見知ったものの姿だった。マチルダの身体に衝撃が走る。知っている。あの姿を私は知っている。あれはお嬢様だ。コーデリアお嬢様!
記憶が、すさまじい勢いでマチルダの脳内に構築されていく。そうだ、私はマチルダ。クロフォード家のメイドなのだ。お嬢様付きのメイド。コーデリアお嬢様のメイド。お嬢様の元へ帰らなくては。私は――。お嬢様!
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