再び夢の中

「扉を開けてこんな世界に飛び込んだのだから、また、扉を開ければ元に戻ることができるでしょうか」


 明るい口調で、コーデリアが言った。シャーロットは笑って、


「そうですね。では、扉を探さなくては」


 そこまで言うと、シャーロットはふと、真面目な顔になった。そして硬い口調でコーデリアに謝った。


「申し訳ありません。私が図書室の扉を開けなければ。あのまま、お嬢様の部屋に戻っていれば、こんなことには……」

「いえ、いいんです。謝る必要はありません」


 コーデリアは慌てて言った。そして付け足す。「図書室の扉を開けることによってこんな事態になるとは、誰も予測できなかったことですから。ホーンさんのせいじゃありません」


「ありがとうございます」


 シャーロットはほっとしたように微笑んだ。


 コーデリアは気持ちがほぐれていくのを感じた。そうすると、次第に周りの物音が耳に入ってきた。風が梢を揺らす音。虫の飛ぶ音。小さくチリチリという音は何かの虫の鳴き声なのだろうか。短く、ギャッギャッという甲高い音も聞こえてきた。鳥の鳴き声のようだった。それから、遠くから、間延びした低い音。地を這うような、汽笛のような物悲し気な音。これも生き物の鳴き声だろうか。生き物だとすると、かなり大きなものだと思われた。あまり怖い生き物じゃなければいいけど……とコーデリアは不安に思った。


 その時、地面に落ちた枯れ葉か何かを踏む、小さな音が聞こえた。コーデリアは音のした方を見た。木の近くに、鳥のような二足歩行の生き物が立っていた。そしてこちらを見ていた。


 鳥にしては大きかった。今は少し身をかがめているが、真っすぐになると、コーデリアと変わらぬくらいの身長になるだろうか。頭から背中、長い尻尾にかけて、毛で覆われていた。が、翼はなかった。


 ブルーグレーの地に、黒い縞模様が入っているのだった。美しい生き物だといえた。けれどもコーデリアは不吉な予感を覚えた。生き物がまた一歩こちらに近づいてくる。下げた頭を少しずつ左右に動かし、大きな目でこちらを見ている。まるで値踏みしているかのようだ。コーデリアはその生き物の前足に、鋭い爪があるのを見た。


「逃げましょう」


 小さな声で、シャーロットが言った。コーデリアはもちろんその意見に賛成だった。どちらともなく立ち上がり、生き物に背を向ける。最初はゆっくりと場を立ち去ろうとする。けれども焦りがたちまち全身に広がっていく。


 背後で、生き物が動く音がした。シャーロットがコーデリアの手を引いて走り出した。コーデリアは夢中で走る。長いスカートが足に絡まって走りにくい。コルセットが息をするたびにきつく身体を締め付ける。つくづく、自分の服は全力疾走に向いてないのだと思った。


 コーデリアは木の根のようなものに躓いた。身体がかしぎ、転んでしまう。生き物に、食べられてしまう――と思った。が、次の瞬間、コーデリアの身体は不思議な変化をした。


 身体がみるみる透明になり、ネズミのような小さな生き物に変身したのだ。小さな生き物になったコーデリアは走る。転んだことなど忘れたかのようだった。シャーロットも同じく、コーデリアと似たような姿になっていた。


 小さな生き物――コーデリアだったそれ――は素早く木に登った。粗い肌の幹を駆け上る。考えていることは、ただ一つ、恐ろしい捕食者から逃げることだけだ。シャーロットだった生き物もいつの間にかいなくなっていた。


 小さな生き物は枝からそっと地上を見る。そこには獲物を見失った鳥のような生き物が、うろうろしているだけだった。




――――




 マチルダも、ネズミのような小さな生き物になっていたのだった。私、また夢を見ているわ、とマチルダは思った。少し前に見た夢と一緒。ネズミのような身体になって――シダの茂みでじっとしている。


 でもあの時とは違うことがあった。前の夢では昼間だったが、今は夕暮れなのだ。上手く色を認識することができないけれど(夢の中だからだろうか?)、けれども黄昏時なのだということがわかる。日が沈み、一日が終わろうとしている。しかし、マチルダにとってはこれが一日の始まりなのだ。何故だかそう思った。


 場所も違った。前の夢は森の中だったが、今は森の淵にいた。目の前には開けた大地がある。ここから先に行ってはいけない、とマチルダは思った。無防備になってしまう。ここから先は私の世界ではないのだ。


 遠くから、ずしんずしんという音が聞こえてきた。何かが移動する音だ。何かが、何かとてつもなく大きなものが、地を踏みしめてこちらにやってくる。その音が、腹ばいになっているマチルダの身体に響く。私はこの音が何か知っている、とマチルダは思った。見たことがある。前に。――でも、「前」っていつのこと? 私はいつどこで、それを見たの?


 マチルダは記憶を探るか、探れば探るほど、それは曖昧なものになっていく。マチルダ? その言葉の意味さえも遠いものになっていく。マチルダ? マチルダって誰? 誰? 誰って、どういう意味? 意味……意味とは何かしら、それは……。

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