8. 命の輪

信じること

 最初は何が起こっているのか、リチャードにはわからなかった。けれどもすぐに、恐れがリチャードの胸を駆け上ってきた。村の噂を思い出したのだ。村人たちが目撃したという怪物の噂。あれは本当だったのではないか。現に今ここで、自分は、得体の知れぬ不思議な生き物を見ているではないか。


 生き物は素早く、闇の中へと消えた。その姿は、単に闇に紛れてしまったのか、それとも生き物そのものがなくなってしまったのか、リチャードには判断できなかった。クリフがさっと灯りを上げ、生き物が消えた方を照らした。けれどもそこには何もいなかった。


 二人は黙っていた。リチャードは動悸が早くなっているのを感じた。早くここから出なければ、と思った。早くここから――急いで出ないと――もっと恐ろしいものが――。けれども一方で理性が告げていた。落ち着くのだ。パニックになってはいけない。


「――そろそろ行きましょうか」


 クリフが言った。あの奇妙な生き物については触れたくないようだった。けれどもクリフも動揺しているだろうことは、その硬い表情から察しがついた。リチャードは衝動的に彼に語りかけていた。


「……村の噂をあなたも知っているでしょう? 怪物が出るというんです。魔女の呪いで……地に埋もれているもので、それを私たちが掘り返そうとしていると――……」

「迷信です」


 クリフがきっぱりと言った。けれどもリチャードはさらに言い募った。


「あの足跡は? あれはあなたも何なのかわからないと言った。きっと怪物が――さっき私たちが見たようなもの仲間が、あれよりもずっとずっと大きなものがつけたもので――」

「落ち着いてください」


 クリフがリチャードに近づいた。その腕に触れて、静かに言う。


「迷信に惑わされてはいけません。ここを出ましょう。日の光の下に出れば、ずっと頭がはっきりするはずです」


 リチャードは苦笑した。そうだろうか。けれどもここにいたくないことははっきりとしている。クリフは先程の怪物について何も言わない。ただの見間違いとでも思っているのだろうか。


「――……そうですね、早く出ましょう」


 リチャードが小さく言った。と、その時だった。


 何かが、空間を切るような音がした。リチャードの背後、そして上空の方からだった。そちらを見たクリフが顔を強張らせた。「危ない!」と一言言うと、リチャードを地面に伏せさせ、その上に自分が覆いかぶさった。羽ばたきのような音が聞こえ、大きな鳥のようなものが、二人の上をすれすれに飛んでいったことがなんとなくわかった。


 生き物の存在と羽の音は、すぐになくなった。クリフが身を起こし、リチャードもそれに続く。クリフは顔をしかめて自分の腕を気にしていた。リチャードもそちらを見た。顔をしかめている理由がすぐにわかった。服が破け、そこから血がにじんでいる。先程の、鳥か何かにやられたのだろう。


 リチャードはハンカチを出すと、それを包帯代わりにしてクリフの腕に巻きつけた。あまり上手い処置とは言えなかった。が、クリフは驚いた顔をして、お礼を言った。


「ありがとうございます。申し訳ありません。大した傷じゃないのに……」

「いえ。私をかばってくれましたから」


 リチャードは先程よりは落ち着いていた。また謎の生き物が出たのだ。けれども心はだいぶ平静を取り戻していた。クリフの怪我が、逆にリチャードの頭を冷やしたのだった。


 さっきの生き物は何なのだろうと思う。コウモリ――ではなかった。それよりももっと大きな何かだ。そして、これもまた煙のように消えてしまった――。リチャードは深く考えたくはなかった。ともかくまずやるべきことはここを出ることだ。それを最優先にしよう。


 その心を察したように、クリフが言った。


「さあ、休憩もとったことですし、出発しましょう」

「はい」


 クリフへの不信感は薄らいでいた。ひょっとしたらこの男は自分に対して敵意を持っているのではないかと思っていた。でも違った。彼の話を信じるならば、そうではなかった。そして自分は彼の話を信じたいと思う。


 クリフと目が合った。明るい青の瞳が、勇気づけるようにこちらを見ていた。心配しないで、私を信じてほしい、と言っているようだった。そしてリチャードは、大丈夫です、あなたを信じましょう、という気持ちを込めて、その瞳を見つめ返した。


 しかし次の瞬間、辺りが闇に包まれた。クリフの青い瞳も、クリフ自身も見えなくなった。リチャードは驚き、身を固くした。そして闇の中から、大きな頭が出てくるのを見たのだ。


 それは巨大な――トカゲに似た生き物の頭だった。辺りは真っ暗闇なのに、それだけははっきりと見ることができた。トカゲはリチャードを睨みつけると、大きな口を開けた。鋭い牙がいくつも並ぶ口だった。そしてその口から、地下空間を揺るがす咆哮が飛び出してきた。


 リチャードは恐怖に襲われた。それは本能的な、生物の根本的な部分からやってくるような恐怖だった。逃げなければならないと思う前に身体が動いていた。ふと、自分の腕に触れるものがあった。暗闇ではっきりわからないが、それは人の手で、クリフの手だと思った。クリフはリチャードの腕をつかみ、彼を助けるかのように、彼を安全な場所に導くかのように、引っ張った。

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