まだ見ぬ世界

「あなた、絵が好き?」


 コーデリアの問いにマチルダはたちまち答えていた。


「はい」


 本当は、好きでも嫌いでもない。というより、今までの人生であまり絵というものに関心を持ったことがない。けれども、せっかくコーデリアと楽しく共有できそうな事柄があるのに、これを逃すのはよろしくない。そういう気持ちでマチルダは「はい」と言ったのだ。


 コーデリアがますます笑顔になり、目には喜びの色が見えた。


「そうなの? うちにはたくさん絵があって――あなたにも見せてあげたい。いえ、屋敷内に飾られているものはもう見たでしょうけど。でもそうね、私が描いてるような、こういう絵が好きなら、ちょっとこれから図書室に行かない?」

「はい」


 マチルダは答え、大人しくコーデリアの後についていった。コーデリアは階段を下り、ホールを通って、クロフォード家の図書室のドアを開けた。


 図書室にはマチルダは既に来たことがある。壁をぐるりと取り囲む本の数々に、圧倒される思いになった。マチルダの貧しい家にはほとんど本がなかったからだ。そうして今でも自分にはあまり縁がないと思われる場所だった。厚い絨毯を踏んで、柔らかなクッションのソファの間を通って、コーデリアは部屋の奥へと進んでいく。マチルダも静かにその後に続いた。


 本棚から、コーデリアが一冊の本を取り出した。豪華な装丁が施された、大きな本だった。それを机に置いて、がっしりとした表紙を開く。美しい鳥の絵が、マチルダの目に飛び込んできた。


「これは田園に暮らす鳥を描いた本で……」


 コーデリアが説明し、ページをめくっていく。茂みからそっと身体をのぞかせるまだら模様が美しい鳥、水辺で羽を休める白と黒の鳥、枝にとまる小鳥はオレンジの胸が鮮やかだ。コーデリアが一羽一羽の鳥の説明をしていく。穏やかなコーデリアの声と静謐な絵に、マチルダは夢中になった。


 最後まで見終わったところで、再びコーデリアが本棚に向かっていく。それからしばらくの間、二人は様々な動物や植物を描いた本を一緒に読んだ。そこに描かれたものたちは、馴染みのものもあれば、遠い異国の地の、見慣れぬ獣や草花たちもあった。煌びやかな羽を広げた蝶、極彩色の羽の鳥、黄色い目をしたトラ……。マチルダは遥かかなたの土地のことを思った。まだ行ったことのない国、出会ったことのない人々、想像もしたこもないような生き物たち――マチルダは、自分がとても小さな世界に住んでいて、この世のことをほとんど知らないのだということを思った。


「こんな生き物が本当にいるんですね」


 感心して、マチルダはコーデリアに言った。コーデリアは頷いた。


「そう。不思議ね。私――思うの。もしもこういったものを、自分の目で実際に見ることができたらなあ、って」

「ああ、それは素敵ですね」


 マチルダも見てみたかった。知らない場所に行って、不思議なものを、新しいものを、今までの暮らしの中にはなかったものを、見てみたくなったのだ。




――――




 この日以来、マチルダはコーデリアのスケッチにお供することとなった。画材一式を持ってコーデリアとマチルダは絵を描きに出かける。といっても主に描くのはコーデリアだ。木陰に座って、目の前の花などを手慣れた様子で写生していく。


「あなたも描いてみれば」


 そう、コーデリアに言われたこともあった。そこでマチルダも促されるままに、鉛筆とスケッチブックを手に取った。しかし、絵などほとんど描いたこともないし、絵の勉強もしたことがないのだ。どうにも上手く描けなくて困ってしまったが、目の前にあるものを、改めてしっかりとよく見るのは、なかなか面白いことだった。


 ある時、コーデリアが虫を描きたいと言い出した。そこで、コーデリアとマチルダで虫捕り網と虫かごを持って外出することとなった。捕まえて家に持ち帰り、そこでじっくり観察しようということになったのだ。マチルダが薄々予想をしていたことではあったが、コーデリアは大変どんくさかった。虫捕り網を無意味に振り回しているコーデリアを見て、マチルダは自分が代わりにそれをやらずにはいられなかった。結果として数匹のバッタを捕まえ、二人は満足して屋敷に帰ったのだった。


 夜、バッタをスケッチした後、それらを逃がしに、マチルダは外に出た。夜といっても初夏のことだったので、まだ十分に明るかった。夕日の赤い色が残る、少し暗くなりかけた空の下を、マチルダは歩いた。そして、草原に行き、バッタたちを放してやった。


 帰り道、空の虫かごを下げて歩きながら、マチルダは満ち足りた、楽しい気持ちになっていた。さらに藍色が深まった空に、小さな星が一つ見える。その星を見ながら、マチルダは足取り軽く屋敷へと戻った。この家に仕えるのは悪いことではないと思えてきた。それどころか、自分はよい勤め先を引き当てて、これから何か愉快なことが待っているのではないかと、そんな気持ちになったのだった。

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