疑惑の視線

 八月五日。

 薄暗い照明が部屋の中を不確かに照らしている。あたりは無機質な灰色の壁で囲まれており、中央にテーブルと椅子が設置されているだけでその他には何もない。

 『取調室』。ここに来る前に部屋に掲げてあったプレートの文字だ。

 どうして僕はこんな所にいるのか。

 事態は一時間ほど前に遡る。

 僕と秀一、詩織は事件の調査を行うため、いつも通り教室へと集まっていた。昨日先生にこれ以上首を突っ込むなと釘をさされたばかりだったが、特段気に止めることもなく、議論を行っていた。

 そんなときだ。

 教室に向かって、廊下を踏み鳴らす足音が教室まで届いてきた。僕は昨日のことを思い出し、先生がまた僕たちを止めに来たのだろうと思った。後から考えれば足音は複数聞こえ、先生にしては不自然だったのだが、このときはそこまで考えが及ばなかった。

 何かを言われる前に先手を取ろうと「先生、また――」と扉を開けた。

 だが、その言葉が最後まで紡がれることはない。

 扉の前に立っていたのは、警官服に身を包んだ佐々木刑事だった。

 学校という場所に不釣り合いなその格好に呆然とする僕。そんな僕を佐々木刑事は何も言わず、ただ険しい表情で見つめていた。

 お互い無言で見つめ合い生まれる静寂。先にそれを破ったのは僕だ。


「佐々木刑事、どうしたんですか? 警官服なんかで……。もしかして事件に進展があったんですか?」


 佐々木刑事は何か言いづらそうにしつつも、意を決したように息を大きく吸い込むと、僕に向かって初めて会ったときと同じように警察手帳を開いた。ただし、その意味は前とは全く異なるものだった。


「八坂ひろ君。君に桜木千鶴殺害の事件の重要参考人として、署まで同行を願いたい」


 自分でも気付かないうちに戸惑いの声が漏れていた。

 佐々木刑事は今、何て言った……? 事件の重要参考人?

 重要参考人とは、事件に深く関与する人物、あるいは事件の目撃者や関係者などを指す。単に後者として僕を重要参考人と呼んでいるのかもしれないが、それにしては目の前の警官たちの表情はあまりにも真剣味が溢れている。

 僕が頭を整理する中、秀一がこちらに近づいて話を割った。


「佐々木刑事、同行というのは任意同行という意味ですか? だったらここで断ることも」

「月見君、君の言う通りだ。だが、八坂君の立場のためにも、ここで断ることを僕はお勧めしない」


 佐々木刑事の真っ直ぐな視線から少なくとも嘘を言っているようには思えない。

 視界の端に心配そうに事態を見つめる詩織を捉えた。

 いまいち事態を飲み込めていないが、こういうときは尻込みをしていてもしかたない、と僕の経験が告げるのだった。

 秀一がまだ何かを言おうとしたが、僕はその前に教室から足を踏み出し、扉を力強く閉めた。

 そして学校を出た今、僕は取調室にいる。


「で、僕が呼び出された理由は何ですか。佐々木刑事」

「うーん。そうだな、何から話せばいいか……」


 僕と佐々木刑事はさっきから同じようなやり取りをしていた。なぜか僕が質問をして、佐々木刑事がそれをはぐらかすような応酬だ。これでは、どちらが警察官なのかわかりもしない。

 そんなやり取りを見かね、佐々木刑事が座る後ろの壁にもたれかかっていたベテラン風の警官が「おい」と小声で合図をした。

 佐々木刑事は、その叱責に「わかりました」と小さく後ろを振り向く。そして居住まいを正し、僕へと向き合った。


「そうだね。まずは、事件当日、八坂君がどこで何をしていたか話してもらっていいかい? あ、ちなみにここでの発言は調書に記録させてもらう。だから決して虚偽の報告はしないように。ただし、不都合なことがあるならば、君には黙秘する権利が」

「おい、余計なことを言うな」


 佐々木刑事の言葉を最後まで言わせないように、熟練風の警官が遮った。佐々木刑事は不満そうにしつつも、それ以上口を開くことはなかった。

 しかし、何だこの質問は。僕が疑われているということだろうか。だが、僕にやましいことは一切ない。当然、虚偽の報告なんてするわけない。

 僕は事件当日の記憶を振り返り、整理する。


「事件当日は、昼間はずっと秀一とゲームセンターで遊んでいたはずです。それから七時頃に家に帰って、九時頃には疲れて布団に着きました」


 七月七日。α世界で千鶴と一周年記念のデートをした日。そして、僕がこの世界に戻ってきた日。午後九時頃までのこの世界での記憶はないが、幸いにもその日は秀一と一日遊んでいたらしい。そして、帰ってきた僕はすぐに布団へと着いた。これは覚えている。あの日は妙に疲れていたから、すぐに眠ってしまったのだった。

 僕の証言が机の上の紙に書き記されていく。

 その後も一日の動きを詳細に聞かれ、それを紙に記すの繰り返し。

 本題が見えてこない僕は少し苛立っていた。

 その苛立ちを見抜かれたのか、調書に記入していた佐々木刑事の手がふと止まる。それからじっと僕の顔を見つめ、小さく息を吐いた。


「すまない。率直に行こう。君の事件当日の行動を聞いたのは他でもない。君に、桜木千鶴殺害の容疑がかかっている」


 頭の中が真っ白になっていた。

 薄々学校で同行を求められた時点で、その可能性は考えていた。

 だけど心のどこかで、事件の真相を追っている自分が、誰よりも彼女のことを想っている自分が疑われるなんてことは否定しつづけていた。

 それを正面から言われ、ようやく僕はここに呼ばれた意味を理解した。

 僕が否定の言葉を口にする前に、佐々木刑事は一枚の写真を取り出して、机の上へと置いた。そこには一本の刃物が写っている。


「これは犯行に使われた凶器のナイフだ。ナイフには、犯人と思われる指紋がついていた。その照合にずいぶん時間がかかったけど、ようやくある人物の指紋と一致したんだ」


 佐々木刑事の視線が写真から僕の方へと移される。その視線と同じように嫌な予感が腹の底から這い上がってきた。


「まさか」

「そう、八坂君。君の指紋だ」


 佐々木刑事はきっぱりと言い捨てた。

 その宣言に、ますます僕の頭の中は混乱する。

 凶器となったナイフに僕の指紋がついている? そんな、バカな。あり得ない。

 だって。


「待ってください。僕はその写真のナイフに見覚えなんて一切ありません。当然、僕が触れたこともありません」

「なら、どうして凶器のナイフに君の指紋がついている?」

「それは……わかりません。でも、何かの間違いです」


 そんなの分かるわけがない。見たこともないナイフに僕の指紋がついている理由なんて。

 断固として否定する僕に、佐々木刑事は少しだけ悲しげな瞳を僕に向けた。

 だが、それも一瞬。

 すぐに胸のポケットから小さな手帳を取り出し、パラパラとめくった。


「なら、少し話を変えようか。捜査本部が周辺住民に聞き込みを続けている中で事件当日、現場から立ち去る不審者の目撃情報があったことは知ってるかい?」

「……ニュースで見たぐらいですが」

「暗がりで目撃者の情報が曖昧だったこと、また事実であればセンシティブな問題であることから、これまで公表はしてこなかったが」


 佐々木刑事は言葉を切り、僕を見つめた。


「不審者は学生ぐらいの若い男だと報告されている」


 言外に佐々木刑事が告げていることはすぐ理解できた。

 現場から逃げたのは君じゃないのか、という詰問だ。

 僕が何も言い出せずに黙って座っていると、畳み掛けるように佐々木刑事は言う。


「桜木さんが死後手に固く持っていたアクセサリー。君は以前自分があげたものだと言ったね。あれは、……犯人が君であることを伝えようと、彼女が必死に握っていたんじゃないか」


 ありえない。

 さっきから何を言っているんだろう、この人は。

 ありえない、ありえない、ありえない。

 凶器に指紋がついていた? 立ち去ったのが学生だった? 千鶴にあげたアクセサリーが僕を犯人だと示唆している?


「そんなの……ありえない。だって僕が千鶴を殺した記憶なんか……」

「そうだね。僕も八坂君が嘘を言っているようには見えない」


 これまで僕を疑い続けてきた佐々木刑事の突然の擁護の言葉。

 僕は縋るように顔を上げる。

 だが、それは決して僕を信じての言葉なんかではなかった。


「ところで、君の主治医に聞いたんだが、君は小学校まで重度の記憶障害を患っていたらしいね」

「何を……?」

「聞いたところによれば、君はその日あった出来事を一日分しか記憶を保持できない。さらに精神的に大きな負荷を受けたとき、君はその記憶を消失してしまう傾向があるそうじゃないか。実際、君は入院していた頃に揉めた相手のことを忘れていたそうだね」


 僕はつい最近、和解することのできた一ノ瀬の顔を思い出した。

 確かに、僕の記憶は一日単位でリセットされ、とりわけショックの大きい出来事があったときはその傾向が強くあらわれた。だが、それはすべて過去の話だ。

 佐々木刑事は僕が今だに記憶障害を引きずっていると思っているのだろうか。そう考えられていることに、悲しみと怒りが一気に押し寄せてきた。

 そんな僕の胸中などお構い無しに目の前の刑事は続ける。


「君は、事件当日桜木さんと会っていた。何がきっかけかはわからないが、彼女と口論でもした際に君は衝動的に彼女を刺した。そして、そのショックから君は記憶を」

「違う!!」


 ついに堪え切れずに僕は立ち上がっていた。机を叩く衝撃音と後ろに倒れた椅子の衝突音が室内に反響する。部屋の中の空気が一変した。

 これまで冷静に取り調べを行なっていた二人の警官の目に、明らかに警戒の色が宿っていた。

 僕を冷静にさせたのは、後ろの警官が腰に手を当て何かを取り出そうとする仕草だった。それが何らかの武器であることは間違いなさそうだ。


「……すみません、取り乱しました」


 謝罪と同時に、倒れた椅子を立て直し、再びゆっくりと腰をかける。

 依然、警官たちの警戒は解かれていない。

 ここで冷静さを失ってはいけない。佐々木刑事たちの主張を論理的に打ち崩さねばならない。僕は自分に言い聞かせる。

 指紋のついた凶器。

 事件発生時に立ち去った学生らしき不審者。

 千鶴が握っていた僕のプレゼント。

 記憶障害。

 だが、いくら考えてもそれらを否定するだけの根拠を僕は持ち合わせていなかった。

 握った拳に冷たいものが滲む。警官たちは僕の方をただ無言で見つめている。このまま何も言わずにいれば、さっき佐々木刑事が言ったシナリオを認めるようなものだ。

 それだけは認められない。


「確かに、佐々木刑事の言う通り、僕は小学校の頃に記憶障害を患っていました。しかし、中学に入ってからはその症状は寛解しています。だからもし僕が千鶴を殺したとしたら、その記憶が消えるなんてことはないはずです」


 今できる精一杯の反論。

 しかし、その言葉を受けて後ろの警官が面倒くさそうに「それを証明できるものはないだろう」と口を開いた。

 無慈悲な言葉に、僕は言い返すことができなかった。

 僕の記憶が信じられないのは、僕自身がその身をもって一番理解していた。だからこそ、中学に入ってからも、僕は毎日欠かさず日記なんてつけていたのだろう。僕がこの世界に存在した証明として。

 僕が信じられないものを、他人が信じてくれるはずもなかった。

 ここで間違えると次はない。

 次の言葉が、僕の運命を左右する。そんな直感を覚えた。

 だが、何を言えばいい。

 どうあがいても、警官たちの主張を具体的な事実で否定することはできない。

 思考の渦の中に、ふとあの日の観覧車の中での千鶴の表情が浮かんだ。思い出の中の千鶴は僕のことを好きだと言ってくれた。こんな情けない僕のことを。

 だったら僕が返す言葉は一つだ。


「……それでも。それでも、僕は千鶴のことが大好きだ。だから――」


 誰に向けた訳でもない告白。当然誰の耳にも届くはずのない言葉。

 そう思っていた。

 突然、部屋の外から眩しいほどの光が差し込んだ。


「失礼する」


 その光の正体は、部屋の外から開けられた扉の向こう側の世界のものだった。

 僕と警官たちは同時にその姿に視線を奪われる。

 そこに立っていたのは、無骨な部屋にそぐわない品の漂った一人の男性だった。全身を艶やかな漆黒のスーツが包み、髪は一切の乱れなく後ろに流れている。多くの修羅場をくぐってきたような精悍な顔つきのその男性に僕は見覚えがあった。


「桜木市長。どうしてここに」


 その答えは、僕ではなく佐々木刑事が口にした。

 桜木市長と呼ばれた男は、部屋の全体を見回して、二人の刑事に視線をやり、最後に僕を見た。

 久しぶりに見たその人に僕は驚きが隠せない。

 桜木市長、すなわち千鶴の父親だ。千鶴の家に遊びに行ったときに、ほんの一、二度だけ顔を合わせたことがある。だが、そのときの桜木父は僕たちには目もくれず、ただ仕事に没頭しているようだった。僕と直接の関わりはほとんどない人物がなぜここにいるのか。

 二人の刑事も意外な人物の登場に、その衝撃が抜けきらないまま驚いたように目を見開いている。

 僕たちの動揺などは意に介さず、桜木父は眉ひとつ動かさず言った。


「なに。近くを通りかかったものだから、たまたまね」


 落ち着き払ったその冷静な声音に、ベテラン刑事の表情は怒りへと変わっていた。


「たまたまなわけないでしょう。ここは警察署の取調室。しかも、あなたの娘の事件に関する取調中だ。……桜木市長、これは重大な越権行為ですよ。いくらあなたと言えどもきちんとした説明もなしにこんなこと」

「私は、そこの八坂君に用があったまでだ。少し借りていくよ」


 それだけ言うと、桜木父は部屋の中へと一歩足を踏み入れ、僕の方へと向かってきた。

 だが、その間にずっと壁にもたれかかっていた老齢の刑事が立ちはだかった。その表情はまさに鬼のような憤怒で溢れている。


「馬鹿な! そんなこと許されるはずが――」


 鬼気迫るその言葉は、桜木市長の蛇のような鋭い睨みにより、最後まで発せられることはなかった。そのまま桜木市長は立ちはだかる刑事の肩に手を当ててどかすと、僕に立つように指示した。

 僕は一瞬迷ったが、この機会を逃す手はない。

 桜木市長の指示に従い、そのまま後ろをついていく。

 取調室を一歩踏み出そうとしたところで、僕の肩が掴まれた。

 肩を掴んだ佐々木刑事は僕の耳元で他の人に聞こえないよう小さく呟いた。


「捜査本部は今焦っている。新人の僕が稼げるのはせいぜい二日だ。……だから、もし君が犯人でないなら、それまでに君が犯人でないことを証明してほしい」


 素早く言い終えると、すぐに僕の肩から手を離す。

 その言葉の真意を考える前に、僕は桜木市長に連れられ、警察署を後にした。

 警察署を出た僕は、いかにも高級そうな黒のセダンに乗せられていた。運転をしているのは桜木父だ。

 かれこれ無言で五分ほど車を走らせている。

 どこに走らせているのかは、僕は知らない。

 とりあえず、どうして取調室に来たのかを聞くべきだろうか。


「あの」

「こうなることを恐れて、君の担任に君たちが事件に関与するのを止めてもらったが、遅かったようだ」


 僕の質問を遮るように桜木父は呟いた。

 ハンドルに手を乗せ、視線はずっと正面を向いたままだ。


「担任って、昨日園田先生が事件に首を突っ込むなって、忠告してきたのは桜木の…… お父さんの指示だったんですか」


 桜木父は答えない。

 だが、僕の中で昨日の園田先生の曖昧な、どこか納得のいっていないような態度に得心した。園田先生は生徒に行動を促すときは、いつもその理由を明確にする人だ。だが、今回はその理由を桜木父から口止めされていたのだろう。


「それなら、僕が警察に疑われているってことは知ってるはず、ですよね。どうして僕を連れ出したんですか」


 まさか、警察ではなく自分で直接聞き出すつもりなのだろうか。いや、それなら警察が僕に目をつけていると分かった時点で、僕の身柄を抑えたほうがいい。わざわざ園田先生に回りくどい忠告をさせる必要もない。

 信号に引っかかり、桜木父が初めて僕とその鋭い視線を合わせた。


「君が、事件の疑いをかけられるような状態を見ていられなかったからだ」

「……すみません。ちょっとよく意味がわかりません」


 僕と桜木父の間にはほとんど接点がなかった。会話も挨拶程度だし、お互いの性格なんてほとんど知らない。そんな僕を、わざわざ市長が警察署に出向いてまで助けるのは違和感がある。

 僕の疑問に桜木市長は落ち着いた声音で答えた。


「娘が君のことを話していたからだ」

「千鶴が?」

「あぁ。一年前、娘がアイドルになるために東京に行くと言いだしたとき、私は猛反対した。最近のアイドルなんて、世間からただ持て囃されるために歌を歌い、踊りを踊る。そう思っていたから私は、貴重な学生時代をそんな無為なものに投げ打つなと娘に言った。だが、娘は『こんな私でも誰かの希望になれるなら、それを目指したい』とそう言ったのだ。あんな真っ直ぐな目を私に向けてきたのは、後にも先にもそれが初めてだった。そして、『そのことを教えてくれた人がいる』とも言っていた」

「まさか」

「そう、それが君だ。八坂君。娘は病院で出会った君のことをよく話した。病気でふさぎ込んでいた君に感謝されたことを、とても幸せに感じたとそう言っていた」


 感謝するのは僕の方で、千鶴じゃない。

 だけど、そんな言い回しは実に彼女らしかった。


「娘は君のことを信じている。私は娘のことを信じている。だた、それだけだ」


 桜木父はそれだけ言うと、そこからは家に着くまで何も語ってくれなかった。

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