成熟の精神
八月一日。
事件が発生してから、暦が変わっていた。
照りつける太陽は眩しく、アスファルトに反射する熱はじりじりと大気を焦がしてくる。一月前まで、記録的な大雨が続いていたとは思えないような天候だ。
水野との話し合いの翌日、僕と秀一は隣町の高校を訪れていた。中に入ることはできないので、僕たちは高校の正面に位置する喫茶店から校門への出入りをチェックしていた。
夏休みに入ったため、校門への出入りは主に部活動の生徒のみで、その数は少ない。たまに現れる制服姿の学生を見ては、緊張が走り、すぐに落胆するを繰り返していた。
結局、この日一ノ瀬があらわれることはなかった。
翌日、そしてそのまた翌日も朝から晩まで張り込みを続けたが結果は同じだった。
八月四日。
高校への張り込みを初めて四日目。
一向に現れない目標に僕たちの疲労も高まっていた。初日こそ口数多く話し合っていた僕たちも、四日目にもなるとぼーっと窓の外を眺めている時間が多くなった。
今日も人通りの少ない正門を見て、僕はつぶやく。
「全然来ないね」
「だな」
「もしかして、一ノ瀬はこの学校じゃないのかな」
「ここは中高一貫でほとんどそのままエスカレーター方式で上がる生徒ばっかりだから、いると思うんだけどな。部活、辞めちまったのかな」
秀一は正門よりもどこか遠くを見つめるように言い放った。
僕はふと秀一と一ノ瀬の関係が気になった。前に秀一は、一ノ瀬と練習試合をしたことがあるといった。だけどよく考えてみれば、小学校の頃の、まして同じチームでもない人間の進学先なんて知っているものだろうか。
ふと気になっていることを口に出そうと、「そういえば」と切り出したときだった。
「おい、ヒロ! あれ、一ノ瀬じゃないか?」
秀一は校門に向かってくる生徒を指差して、僕に確認を促した。
つられて同じ方向を見ると、そこには確かに活発そうなツンとした頭の男子生徒がいた。遠目ではあるが、間違いない。写真に写っていた人物と全く同じだ。
秀一は「行くぞ!」と言って、すぐに準備していた会計を済ませ、店の外へと駆け出した。僕も同じく腰を上げようとしたとき、自分の鼓動が早くなっていることに気がついた。鼓動だけではない、全身が小刻みに震え、まるで歩き出すのを拒んでいるようだ。
僕は一ノ瀬に会うことを恐怖しているのだろうか。また『気持ち悪い』と言われることを恐れているのだろうか。
頭を大きく振りかぶり、棒のようになってしまった僕の足を無理やり動かす。
水野にも言われたはずだ、千鶴のことをよろしく、と。ここで立ち止まっている暇はない。
胸にあるだけの勇気を振り絞って、体を走らせた。
「おい! そこの生徒! ちょっと待ってくれ!」
ちょうど校門を跨ごうとしている生徒の足が止まり、その人物はこちらを振り返る。それはまさに僕たちが探し求めていた人物だった。
男子生徒は不審そうに僕たちの顔を順番に眺めた。
「何だよ、お前ら……。って、そっちにいるのは月見か?」
「よう、久しぶりだな。一ノ瀬」
どうやら一ノ瀬は僕の顔を見てもピンと来ず、秀一の方に反応を示したようだ。
「……何の用だ?」
「お前に聞きたいことがあってな。お前、桜木千鶴のことは知っているよな」
その名前が出た途端、一ノ瀬の顔つきが変わった。大きく見開かれた目は、驚愕と混乱を映し出している。
その異常な様子に僕と秀一の緊張感も高まる。
「お前が桜木のライブが終わった後に、あいつに『話したいことがある』って熱心に訴えかけていたことは知ってる。俺たちはお前が桜木と何を話したかったのかについて、聞きたい」
「何でお前がそんなことを」
「悪いが、情報の出所は教えられない。それより、さっきの質問だ」
「それは……」
バツが悪そうな表情を浮かべる一ノ瀬。
秀一の追求の視線から逃れるように、ふと一ノ瀬の視線が僕を捉える。
僕は昔の思い出したくない記憶が蘇りそうになり、視線を外しかけたが、何とかそれを正面から受け止めた。
一ノ瀬は僕の顔を何度か見て、驚いたように指差した。
「まさか、お前、八坂……か? いや、でもあいつはもっと暗そうなやつで……」
何やら一人で考え事を始める一ノ瀬。何度も確認するようにまじまじと僕の顔を見つめる。
僕は意を決して、過去との対峙を決意する。
「久しぶりだね、一ノ瀬。僕は八坂……、八坂ひろだ」
名前を告げた僕を、今度こそ信じられないものを見たといった様子で一ノ瀬が驚く。口元からは、誰に聞かせるでもなく「そんなバカな……」といったつぶやきが聞こえる。
一ノ瀬の動揺が落ち着くまで向かい合っていた僕たち。
秀一がしびれを切らして、再び詰め寄ろうとしたときだった。
突然、一ノ瀬が勢いよく頭を下げた。
「悪かった!!」
そのあまりの勢いと発せられた声の大きさに、周囲の通行人が何事かとこちらに注目した。
僕も秀一も唐突な展開に理解が追いつかず、ただ黙って僕たちの前に下げられた頭を見ていた。
するともう一度、さっきと同じように「悪かった!!」と一ノ瀬が叫んだ。
その姿に、ようやく止まっていた僕たちの時間が動き出す。
「ちょ、ちょっと待て。お前、急にどうしたんだよ」
「月見、さっき聞いたよな。桜木と何を話そうとしてたかって。その一つは、八坂の居場所を聞くことだった」
「僕?」
一ノ瀬がわざわざ千鶴のライブに行って、聞き出そうとしていたのが僕の居場所?
混乱する僕に一ノ瀬は問いかけてくる。
「八坂、覚えてるか。小学校の頃に入院してた病院で俺がお前と桜木が作っていた千羽鶴をこっそり盗んで捨てちまってたこと」
切り出された意外な話題に、胸がチクリと痛む。
「小学校の頃の僕の記憶は不安定で、ちゃんと覚えてるって言ったら嘘になる。だけど……」
あのとき言われた言葉を。あのとき味わった胸の痛みを。
僕はつい最近、少しだけ思い出すことができた。
一ノ瀬は後悔したような表情を浮かべる。
「そうか……。覚えてないかもしれないが、俺はそのことをずっと謝りたかった。あのとき俺はお前のこと『気持ち悪い』って言っちまってさ。子供だったんだ。あの頃の俺は普通とは違うやつをどうしても認められなくて、あんなことを言っちまった。お前が望んで病気になったわけでもないのによ。だから、なんだ。許してもらえるとは思わねぇけど」
真剣な懺悔の言葉を述べる一ノ瀬に、ようやく僕は一ノ瀬が何のために僕を探していたのかを理解した。
「悪かった、本当に」
再び深く下げられた頭。
その真っ直ぐな謝罪に、僕は自分でも意外なほどに一ノ瀬に対する負の感情がないことに気がついた。もともと一ノ瀬が言った言葉は僕の心を深く傷つけはしたものの、僕は一ノ瀬を恨んではいなかった。ただただ悲しく、一ノ瀬のことを遠ざけようとしてしまっていただけだ。
その一ノ瀬がわざわざ十年近くも前のことを、こうして真剣に謝っている。表情を見れば、一ノ瀬がずっと自分の言葉を後悔し、苦しんできたのがわかった。それだけで、僕の心は十分に晴れていた。
思えばずっと、僕が本質的に臆病だったのは、僕の深層心理の中に一ノ瀬の言葉が突き刺さっていたからなのかもしれない。
だけど、今ようやく本当の意味で僕はその呪縛から解放された。
少しだけ、自分の体が軽くなったように感じる。
僕は「いいよ」と一ノ瀬に向かって手を差し出した。
その手を見た一ノ瀬は悩みながらも、顔を上げ、力強く握り返してくる。
僕と一ノ瀬の視線が交差した。そこに過去の遺恨はもうない。そうして、僕たちは負の清算を行なったのだった。
しばらくそうした後、ようやく普段の調子を取り戻したのだろう、一ノ瀬が少しだけ表情を緩めて僕たちに訊いた。
「それにしても、月見と八坂が何でいっしょにいるんだ?」
「今更かよ。俺とヒロは中学から同じ学校なんだよ。だから、ヒロの居場所なんてわざわざ桜木に聞かなくても俺に聞けばよかったのに」
「自分の骨を折ったやつに聞けると思うか? いや、あれも俺が無茶なプレイをしたから悪いんだが」
「はは、それもそうだ」
秀一と一ノ瀬が笑い合う。
後から聞けば、どうやら一ノ瀬が入院するきっかけになったのは秀一がいるチームとの練習試合の中で、一ノ瀬がボールを無理に奪いに行こうとしたときに秀一がその脚を踏んだことが原因だったそうだ。
それ以来、秀一と一ノ瀬は仲が良いのか悪いのか、微妙な関係になったそうだ。
ひとしきり聞きたいことを聞き終え、僕たちが帰ろうとしたときに一ノ瀬が呟いた。
「本当は桜木にも謝りたかったんだけどな」
「千鶴とは話してないの?」
「あぁ、いくつか桜木が出るイベントには行ったけど結局本人とは話せなかった。それでもいつか桜木にも謝ろうって思ってたら、まさかあんなことになるとは思ってなくてよ。俺は部活の合宿中にあのニュースを見て、信じられなかった」
一ノ瀬が千鶴に会いたかった理由は二つ。
僕に対する謝罪と千鶴に対する謝罪だ。
だか結局、その片方が叶うことはなかった。
「月見、八坂。今度また事件があった場所に花を添えに行く。そのときにでもまたな」
一ノ瀬の言葉に僕たちは頷き返し、隣町を後にした。
「結局、ちーちゃんの事件の手がかりはなかったんだね」
「あぁ。良かったのか悪かったのか」
一ノ瀬との話し合いの後、僕たちはその足で学校へと戻ってきた。
学校では、僕たちの帰りを詩織が待っていた。詩織は僕たちの報告を聞いて、手がかりはなかったことにがっかりしていたようだ。
もともと犯人かもしれない、という予想も少なからずあったために、また振り出しに戻ってしまったことには僕も少なからず落胆していた。
「ヒロと秀一が調べてくれている間、私もクラスの人に聞いたりしたけど、やっぱりちーちゃんのことを恨んでる人なんていないんじゃないかなぁ」
これまで報道されてきたニュース、中学校、高校からの交友関係から見ても、千鶴を殺す動機となるほどの恨みを持った人間は結局一人も見つからなかった。ここまでくると、報道の通り、いっそ本当に通り魔の仕業なのかと思えてくる。
各々に頭を悩ませる仲、それぞれ勝手に独りごちていた。
「ちーちゃんに恨みを持ってる人がいないならちーちゃん以外の誰かを恨んでたとか? でも、うーん」
「桜木のことが好きすぎて、殺したとかな。なわけねーか」
見事に迷走する僕たち。
僕は一旦気分を変えようと教室の扉を開いたそのときだった。
目の前に、一人のスーツ姿の男性が無言のまま立っていた。
「うわ! びっくりした。先生じゃないですか。何でこんなところに突っ立ってるんですか?」
そこに立っていたのは僕たちの担任の園田先生。
もともと笑うことが少ない先生だが、今はいつにも増してその表情は険しかった。
無言のまま僕たちをじっと睨め付ける先生に耐えかねて、僕が「先生?」と再度呼びかけると、先生はその重い口を開いた。
「これ以上、桜木の事件に関わるな」
突然の言葉に「え?」という声が漏れていた。秀一も詩織もただ呆然とその様子を眺めている。
時間が止まったように固まった僕たちを置いて、先生は勝手に廊下の向こうへと歩いて行ってしまった。
取り残された僕たちは、ようやく我に帰り、口を開いた。
「今の何?」
「さぁ。でも先生、何か様子が変じゃなかった?」
詩織が言うように、先生の様子には確かにどこか違和感を感じた。
その違和感の正体を探ると、一つ思い当たることがあった。先生はいつも理論的で、生徒に何かを促すときはその理由を述べるのだ。だけど、今は僕たちにただ命令するだけでその理由も述べなかった。きっとそれが違和感の正体だろう。
先生がわざわざ事件に関わることを止めに来た理由はわからない。いくら考えてもその答えは出なさそうだ。
僕と同じ思考に至ったのであろう秀一が「ま、あんまり気にしすぎないようにしようぜ」と言って、その日の会議はお開きとなった。
だけど、僕はこのとき、先生の忠告を甘く考えていた。
翌日、僕は警察へと連行された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます