表裏の偶像

 七月三十一日。

 店内にはコーヒーの香りが立ち込めていた。聞いたことのあるクラシックが、ピアノでアレンジされて響き渡っている。隠れ家のようなそのカフェの中には、客は僕たちだけしかいない。これから話す内容を考えれば、好都合だ。

 僕と秀一、詩織は三人がけのソファに、正面の人物に向かい合うように座った。


「わざわざ私を東京から呼びつけるなんて、君も中々大物だねー」


 明るい調子で言ったのは、目の前のソファに深く腰掛ける水野亜紀だ。言葉とは裏腹に水野は楽しそうに笑った。その整った顔立ちと引き締まった体、そして人を魅了するような笑顔からはやはりどこか千鶴を思わせる。

 不思議とこの水野という人物とは、有名人だとかの距離感がない。アイドルとしてそれが正解なのかどうかはわからないが、接しやすい人物であることは間違いない。そう言った空気を作ることに長けているのだろう。

 そんなことを考えながら、水野の方をじっくりと眺めていると、彼女は両手で体を抱きかかえた。


「そんなにじっくり見つめられると、さすがに照れちゃうな」

「ご、ごめん」


 そのからかいに僕が正面から視線を外すと、隣からもなぜだか妙な圧力を感じた。秀一はニヤニヤと笑っており、詩織は不服そうに頬を膨らませている。何だかとてもいたたまれない。

 折を見計らって、秀一が切り出した。


「さて、本題に入るか。今日俺たちが水野に聞きたいことは、桜木のことだ」

「ま、そうだよね。いいよ。三人のことはちづるんから聞いてる。私に答えられることなら何でも」

「話が早くて助かる。まず聞きたいのは、桜木が事件当日、東京を離れることを知っていた人物が水野以外にいたかどうか、だ。グループのメンバーやマネージャーも含めてな」


 秀一が重要な情報へと切り込む。

 水野は手元に置いてあったカップの中を覗き込んだ。カップに移った自分の顔を見て、当時の記憶を思い出しているようだ。


「私の知ってる限り、私以外にいないね。ちづるんが東京から帰ることを聞いたのは私だけだし、私は誰にも言ってない。マネージャーもオフの細かい予定までは把握してないはずだよ」

「なるほど。ちなみに水野さんは事件当日はどこにいたの?」

「私は事件があった日は寮で同じグループのメンバーとパーティがあったから夜はずっとそこにいたよ。七夕だったからね」


 そう言いながら水野はスマホを操作し、その画面を見せつけてくる。写真には、テレビで見たことのある少女たちが装飾された室内で楽しそうに歓談している姿が写っていた。部屋の隅には笹が設置されており、その枝に色とりどりの短冊がかけられている。

 事件当日の千鶴の行動を知っていたのは、詩織と水野の二人。詩織は当然犯人でないにしても、水野にもきちんとしたアリバイが存在した。僕はひとまず安心する。

 水野は手元に置いてあったコーヒーにミルクを落とし、それをゆっくりとかき混ぜる。


「なら、二つ目だ。桜木が東京に行ってから一年、俺たちはあいつの交友関係をほとんど知らない。桜木のことを強く恨んでいた人物に心当たりはあるか?」

「さっきと同じ。ノーね」

「千鶴は一年でセンターになったんだよね。こういうのは何だけど、例えば同じグループのメンバーから嫉妬されたりとかは?」

「はは、嫉妬ならいくらでもあるよ。現に私だってちづるんに嫉妬したことあるもの。でも、あんな事件を起こすようなメンバーはいないって断言できる。ライバルとして嫉妬することはあっても、それ以上にちづるんは私たちみんなの仲間だった」

 

 白い模様を創り出していたミルクは、すっかりと漆黒のコーヒーの中へと溶けてしまっていた。

 水野の力強い言葉に僕たちは言葉を返すことができなかった。

 水野の言っていることはあくまで彼女の主観に基づいたもので、そこに客観的な根拠があるものではない。にも関わらず、僕たちが何も言えなかったのは、きっと水野が千鶴のことを語るときの目が僕たちと同じものだったからだろう。そんな水野の言葉を否定することは、僕たちと千鶴の関係を否定してしまうような気がする。

 店内に流れるBGMだけが僕たちを包む中、水野が思い出すように口を開いた。


「ただ、一つだけ気になることがあるの」


 そう呟いた水野は、さっきまでの楽しそうに語るときとは明らかに空気が違う。その真剣な水野の表情に僕たちは息を飲んで、彼女の言葉を待つ。


「半年ぐらい前からちづるんの熱心な……、というより少し変わったファンの人がいてね」

「変わったファン?」

「そう。最初は何度かライブの前の方で見かけるぐらいだったから熱心なファンなんだな、っていう程度だったの。でも二ヶ月ぐらい前、ライブが終わった後に私とちづるんがスタジオを出ようとしたときにその人が出待ちしててね」

「出待ち?」

「アイドルが会場から出てくるのを待ってる人のこと。マナー的にダメなんだけどね。で、警備員の人が注意したんだけど、抵抗が激しくて。結局、数人がかりで警備室に連れて行ったみたいなの」

「でもそれだけじゃ、ただの熱狂的なファンってだけじゃないか」

「そう。でもその後警備員からこっそり教えられたんだけどね。何でもその人は『俺は桜木千鶴と昔からの知り合いなんだ! 話をさせてくれ!』ってずっと叫んでたみたいなの。もちろん何かあったら危ないからまともに取り合わなかったけど」


 秀一は思考を整理するように呟いた。


「なるほどな。つまり、事件発生の一ヶ月前ぐらいから桜木と話す機会を伺ってたやつがいるってことか。確かに怪しいな」


 僕は水野の『千鶴と昔からの知り合い』という言葉が引っかかっていた。

 中学校に入ってからの千鶴はクラスの中心的な存在で友達も多かったはずだ。だけど、小学校の頃の千鶴は体が弱く、入退院を繰り返し、学校にもあまり仲の良い人はいないと言っていた。であれば、その知り合いとは一体誰なのか。

 僕らが一堂に頭を悩ませていると、水野は顔をこちらに近づけ、小声で「これから見せるのは、絶対に内緒にしてほしいんだけど」と囁く。

 これまで明け透けに話していた水野が、突然意味深な前置きをする。必然、僕たちにも緊張が走る。


「スタジオを出るとき、他に一緒にいた子がそのファンの男の写真を撮ってるの」


 声にならない驚きの音が漏れた。

 それも当然だ。もしかしたら、それは事件の犯人なのかもしれないのだから。これまで影も形もわからなかった犯人の候補があらわれ、その写真があるというのだ。

 逸る気持ちを抑えられず、僕は前かがみになり、水野が差し出してきたスマホ画面を凝視する。

 そこに写っていたのは、薄暗い中、イベント会場の出入り口付近と思われる場所で警備員に囲まれている一人の男の姿だった。男は僕たちと同じ年齢ぐらいの容貌で、活発そうな出で立ちである。警備員に何かを訴えかけている様子は、鬼気迫るものがある。


「ちづるんの昔からの友達のみんななら知ってるかもと思ったんだけど」


 水野がこちらに目線を配る。

 僕はその顔に見覚えがなかった。詩織も首を横に振る。ふと秀一を見ると、顎に手を当てて何かを考えていた。

 声をかけようとしたとき、秀一がポツリとある名前を口にした。


「一ノ瀬、ワタル……」


 名前を口にした秀一に水野と詩織が身を乗り出して食いつく。その人物の名前を知っていたことに驚いたのだろう。

 だが、僕は別の意味で驚愕していた。

 なぜなら、僕はその名前を知っていたから。

 もう一度、水野のスマホ画面に写っている男の姿を見る。

 その瞬間、頭に激痛が走った。

 頭の中で何かが弾けたような、そんな取り返しのつかない感覚を覚える。全身の毛が逆撫でるように一斉に鳥肌が立ち、体が震える。突然、呼吸がうまくできなくなり、自分が息を吸っているのか、吐いているのかさえわからない。

 何だこれ。

 初めての感覚に動揺し、隣で何か心配そうに叫ぶ詩織の声も耳に届かない。

 突然、白い病室の中で幼い男女が口論している場面が頭に思い浮かんだ。


『気持ちわりぃんだよ』


 頭の中にその言葉が流れた。

 そうだ。

 僕は知っている。

 あれは僕と千鶴が病院で折っていた千羽鶴を捨てた男の子だ。

 記憶にはないが、日記の中に確かに記録している。

 その名前は、一ノ瀬ワタル。

 それを思い出した途端、体の震えが止まった。呼吸も、今は上手くできる。動揺が収まった。

 詩織が心配そうに僕の体を支える。


「ヒロ、大丈夫?」

「うん、ごめん。もう大丈夫だから。……それより、秀一は一ノ瀬のことを知ってるの?」

「あぁ。隣の小学校のサッカー部にいたやつだ。何度か練習試合もしたことがあるから間違いない」

「今、どこにいるかわかる?」

「中学で隣町に行ってから見たことはないな。けど、確かあいつが行った中学は中高一貫だったから、今はその高校にいるかもな」


 水野は考えるようにスマホに目を落とし、僕たちに向き直った。その顔には暗い影が差している。


「そう……。率直に聞きたいんだけど、こいつが犯人の可能性はある?」


 一ノ瀬が犯人、あり得るのだろうか。

 僕はうろ覚えだった記憶を呼び起こす。あの事件のとき、一ノ瀬と千鶴は病室で激しい口論になっていたはずだ。千羽鶴を捨てられた千鶴が一ノ瀬に激しく詰め寄り、一ノ瀬はそれに反抗するようにわめいていた。

 それが動機になるかというと、わからない。

 秀一も同じ意見のようだ。


「何ともだな。あいつは衝動的に動くところはあったが、だから事件を起こすかって言われるとな」


 秀一の返答に「そうよね」と水野は再び頭を抱える。秀一も同じように何かを考えたまま動かない。

 僕たちの間を再び無言の時間が支配する。


「会いに行こう」


 僕は無自覚のまま声に出していた。三人の視線が僕に突き刺さる。


「会いに行って、直接聞くんだ。そうしないと、きっと前に進めない」


 三人は何も言わずに僕を見つめていた。だが、静寂を破るように秀一が僕の肩をポンと叩いた。


「だな。それが一番手っ取り早い。会いに行こうぜ」

「でも、もしかしたらその人が犯人の可能性もあるんだよね。大丈夫かな……」

「大丈夫さ。俺はあいつにサッカーで一度も負けたことがないからな」

「サッカー関係ある……?」


 詩織の心配も秀一はニッと笑って一蹴した。


「あいつは多分隣町の高校にいるはずだ。今もサッカーをやってれば、学校に練習に来るはずだ。俺とヒロでその校門を見張る、いいな?」

「私も行く」

「詩織はダメだ。あんまり人数が多いと見張りが目立つからな。それに、何かあったときのことを考えて、な」


 不服そうにこちらを見る詩織だったが、こればかりは秀一の主張が正しい。考えたくはないけど、万が一、何かがあったときに詩織に危険は及ばせたくない。結局、詩織には別の調査を行ってもらうということで落ち着いた。

 話がまとまった頃合いに、僕たちは会計を済ませ、喫茶店を出た。店の前で僕たち三人は水野に向かって今日のお礼を言う。


「今日はありがとう。水野さんのおかげで、一歩前に進めそうだ」

「ううん。私は何もしてない。本当に、ただ」


 言葉を切った瞬間、僕の体に小さな体重が預けられた。

 倒れかかってきた水野の体を咄嗟に止めようと手を伸ばそうとしたとき、彼女が小さく呟いた。


「ちづるんのこと、よろしくね」


 僕よりも少しだけ背の低い彼女の表情は、髪に隠れて見ることはできない。

 だけど、僕は確かに見たのだ。彼女の頬に伝う雫を。透明なその物体は、太陽の光に照らされて眩しく輝いていた。

 そうだった。

 千鶴のことを想っているのは何も僕らだけじゃないのだ。

 千鶴は学校のみんなと、そしてアイドルになってからは仲間と、そしてファンに勇気を与えてきた。彼女のことを大切に想っているの僕たち三人だけじゃない。

 そんな当たり前のことに、だけど僕の胸には確かに勇気が溢れていた。 

 「必ず」短い言葉だったが、水野に、そして自分に対して僕は呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る