夜空の三角
千鶴と初めて出会って数週間が経ったある日。
いつものように僕たちは病室で話していると、彼女は突然こんなことを言った。
「今日のよる、びょういんからぬけだすから、ひろもじゅんびしといてね」
「はぁ?」
いつも突拍子のないことを言う千鶴だったが、今回は特に意味がわからなかった。
「いや、よるは外出きんしだからでられないよ」
「それでも。とにかく今日じゃなきゃダメなの」
「どうして?」
「わたしが明日たいいんしちゃうから」
それは突然の宣告だった。
以前千鶴は何かの検査で入院していると言っていた。何となくずっといっしょにいるような気がしていたけれど、そんな訳はないのだ。
どんな時間にも終わりは来る。
僕は内心驚きと寂しさで溢れたけど、それを表に出すことはしなかった。
代わりに千鶴のわがままを聞くことにした。
「わかった、で、どこに行くの?」
「山」
「山!?」
「ここから歩いて二十分ぐらいのところに、おまつりにつかわれる山があるでしょ? そこに行くの」
「どうしてまた山なんかに……」
外出すると言っても、病院の向かい側にあるガーデンへ出るぐらいの距離を想像していた僕はまた驚かされた。夜の山、しかも子供二人で行くとなると流石にハードルが一気に高くなる。だが、千鶴は譲る気はないといった表情だった。
「それはよるのおたのしみ。じゃ、八時にびょういんのうらもんで待ち合わせね」
そう言って千鶴は足早に去っていった。
僕は反論するタイミングも逃して、結局行くしかないんだろうな、と半ば期待、半ば不安で胸が一杯になった。
窓の外では、夜の闇の中に無数の光が灯っていた。まるで光の絨毯のようなそれを眺めていると、気がつけば集合時間の十分前だった。
周囲の人の気配を確認して、私服に着替える。巡回の看護師に見つからないように、息を殺して病室を出た。受付の看護師の姿を盗み見ているとき、僕の心臓はうるさいくらい響いていたが、幸い誰にも気づかれることはなく、外までたどり着いた。
人気の少ない病院の裏門へとたどり着くと、そこには壁にもたれかかって待ちわびている千鶴の姿があった。
いつも患者服の僕たちが私服で外にいると、まるで普通の子供みたいだ、と思った。
時計を見ると、時刻は集合時間を五分過ぎていた。
「ひろ、おそい!」
「ごめん、みつからないようにきたら、おそくなっちゃった」
「いそいでいきましょ」
千鶴はそう言って壁から体重を離し、目的地へと歩を進める。
僕もその隣に並んで、一歩踏み出そうとしたときだった。
突如、後ろに人の気配を感じ、僕たちは同時に腕を掴まれた。
僕と千鶴は心臓が飛び出しそうになりながら、同時に後ろを振り返る。
そこには風で白衣をたなびかせるまだ若い医師の姿があった。
「白鳥先生……」
僕の担当医である白鳥先生が、僕たちの腕を掴んでいた。いつもは穏やかなその表情も、今は険しいものに見える。
僕は突然、自分の非行が明るみになってしまったことに、ひどく取り返しのつかない後悔が胸をよぎった。
先生は僕たちをじっくりと見つめながら、重々しく口を開いた。
「ひろ、千鶴ちゃん。こんな時間にどこに行くんだい? 子供がこんな時間に外を出歩くのは感心しないな」
諭すように先生は僕たちに視線の高さを合わせる。
僕も千鶴も何もいえずに、その視線から目を逸らしていた。
悪いことが明るみに出た時の居心地の悪さというのは、どうも形容しがたいものがあった。言い訳をすることも、さらに不誠実を積み重ねるようで、結局僕は何も言い出すことはできなかった。
だけど、僕とは対照的に千鶴は先生に向かって嘆願した。それはもう言い訳も何もない、ただただ心からの真っ直ぐな訴えだった。
「先生、おねがい! 今日じゃなきゃダメなの! すこしだけでいいから外出させてほしいの!」
「さっきも言ったけど、こんな時間に外を出歩くのは……」
「それでも、先生、おねがい!」
「まあ、落ち着くんだ」
先生はそう言うと必死な様子の千鶴を手で制した。
「子供だけで出歩くのは感心しない。だから、僕が君たちと一緒に行く。それでいいね?」
「え?」
「実は昼に君たちの会話を聞いてしまってね。こうなるだろうと思って、二人の親御さんには既に連絡して、許可をもらっておいたよ」
先生は歯を見せて僕たちに向かって悪戯っぽく笑った。
その姿に、さっきまでの緊張の糸が切れるように、肩の力が抜けるのを感じた。
「先生……ありがとう!」
「先生、さいしょから行くつもりだったならそう言ってよ」
「いやいや、僕はやっぱりこんな時間に外出するのは反対だよ。だけど、千鶴ちゃんは明日退院だからね。今日だけは特別さ。さ、あまり帰るのが遅くなってもいけない。早く行こうか」
街灯が僕たち三人の影を長く伸ばしていた。
僕たちは先生の言葉に従って、千鶴と僕を先頭に足早に目的地へと向かった。
当初の予定とは違ったけど、僕は先生がついて来てくれて内心ホッとしていた。それほど遠くないとはいえ、この暗さの中、二人だけで山に向かうというのは正直心細かった。そこに、大人が付いて来てくれるというのは、とても心強い。
二十分ほど歩いたところで、僕たちは山の麓へと到着した。山の標高はそれほど高いものでもなく、子供の足でも三十分ほど歩けば、頂上へとたどり着く。
千鶴は鞄から懐中電灯を取り出して、僕へと渡した。これで足元を照らせということだろう。整備された道があるので、足元を照らしながら進めば、特に困ることはない。
普段あまり運動しない僕は、山の中腹に差し掛かったところで既に息が切れかけていた。周りは暗い木々に覆われ、不気味な雰囲気が漂うその中で、余計体力を奪われていたのかもしれない。
同じことを思ったのだろうか、隣を歩いていた千鶴が、さっきよりも僕の近くを歩いていた。触れ合う手と手は不思議なもので、すぐ側にその温もりを感じるだけで、空っぽになりかけていた僕の元気は回復していた。
登り続けていると、ふと木々で覆われた視界が開けた。同時に、夜の冷たさを感じさせる一陣の風が僕たちの間を通り抜けた。
目の前には小さなベンチが設置してあり、正面の柵の向こうにはたくさんの光が灯っていた。それは、病院の窓から見た家々の光の絨毯と同じものだったけれど、その比にならないぐらい数多くの、そして小さな光が無数に灯っていた。
その光景に思わず息を飲む。
「うわぁ」
隣では千鶴も同じようにその光景を眺め、少し後ろからは白鳥先生も、満足そうにその景色を眺めていた。
「ちづるがみたかったのってこれ?」
「ううん、これもあるけど、もっとみたかったのはこっち」
そう言いながら千鶴は空に向かって指をさす。
そこには、眼下に広がる光の絨毯が反射したような美しい星々が広がっていた。さらに、星々はまるで一つの流れに沿うようにその形を作っていた。
「星の、川だ」
一本の川の流れに沿うように、星々が暗闇の中を流れていく。
普段空を見上げたときよりも、その光は鮮明に、ずっと身近なものに感じた。そのあまりの広大さに、自分という存在がとてもちっぽけなものに感じる。だけど、それは決して嫌な感覚ではなく、むしろ清々しさすら与えた。
満点の星空を見上げながら、千鶴は呟いた。
「今日、何の日か知ってる?」
「今日は七月七日だから……。あ、そうか、七夕」
「そう。だからどうしても今日きたかったの」
空を見上げながら僕たち三人は無言でじっと星々が放つ光を見つめていた。
その無数の星の中の一点を先生が指差した。
「今日は夏の大三角も特に綺麗に見える、良い日だよ」
「夏の大三角?」
「ひろは知らないのかい? ほら、無数の星の中で一際強い輝きを放つ三つの星があるだろう。その三つが織りなす三角形を指して、夏の大三角と呼ぶんだ」
先生に言われるがまま、夜空を見つめると、確かに三つの眩しい星が目に入った。
「あれがはくちょう座α星デネブ、あっちがわし座α星アルタイル、こっちがこと座α星ベガだね。七夕の伝説では、ベガは織姫、アルタイルは彦星に見立てられて、この七夕の日、一年に一回だけ会うことを許されているんだ」
「どうして、一年に一回だけなんですか?」
「織姫と彦星はもともと出会う前は二人ともすごく働き者だった。だけど、二人は出会ってからは恋に溺れ、本来の仕事を忘れてしまうんだ。そこで、見かねた天帝、つまり神様のことだね。天帝が二人を天の川で分かち、一年に一回だけ会うことを許した、と言われているね」
「へぇ、先生はやっぱり物知りですね」
「まぁ、僕は時代切っての天才外科医だからね。これぐらいは当然さ」
「先生、それ自分で言わなかったらカッコいいのに」
三人で笑い合いながら、緩やかに流れる星を見つめる。
天の川を挟んで向かい合う織姫と彦星。
彼らは一年に一度だけしか出会えないこの夜に何を語り合うのだろうか。
自分たちを隔てた天帝を呪うのだろうか。それとも、一分一秒も惜しんでお互いのことを想い合うのだろうか。その気持ちを理解することはできないけれど、僕はなぜかその広大な物語に引き込まれるのだった。
「織姫と彦星、まるで千鶴ちゃんとひろのようだね」
ぽつり、先生が漏らした。
その言葉の意味するところは、幼い僕にも何となく理解することができた。何て返したらいいのかわからず、ただただ自分の顔が赤くなっていくのを感じた。だが幸い、夜に紛れてその熱はバレていなかったようだ。
「先生、それだとわたしとひろが一年に一回しか会えないみたい」
千鶴は笑って返していた。
その余裕ある返しに、僕は自分だけが意識しているかと思って、さらに恥ずかしくなった。服の中に風を送り込むと、涼しい風が熱を冷ます。
僕はその熱を誤魔化すように言った。
「それなら先生がデネブですね。デネブはどんな星なんですか?」
「デネブはベガやアルタイルと比べて、質量や半径、光度が何十倍、何百倍もある超巨大な白色の恒星だね。デネブだけが太陽系からとても離れているせいで、僕たちの目には同じぐらいに見えるけどね。デネブは動物の尾を意味しているんだよ」
その説明を聞いて、僕は妙にしっくりくるものを感じた。
先生は僕たちの何倍も大きく見えて、何倍も賢く見えて、だけど距離の関係で僕たちの近くに見えるんだって。
そうして僕たちは雑談しながら、夜空を堪能していた。
けれど、楽しい時間にも終わりはくるものだ。気がつけば、帰る時間がもうすぐに迫っていた。
帰り際、千鶴が手を祈るように組んで言った。
「そうだ、七夕なんだからおねがいしていかなくちゃ」
「ここにたんざくはないけど」
「いいの。ここでねがうほうが、星がちかくてかないそうじゃない?」
言われてみると、物理的な距離でいえばこの場所は星に近いのかもしれない、と思ってしまった。よく考えれば、星から見たときの地上の標高なんて、それこそ誤差に過ぎないのだけれど。
ともあれ僕たちは星に少しでも近いところまで登ってきたのだ。
せっかくなら何かお願いしていくのも悪くない。
何をお願いしようか、と悩んでふと隣を見た。
「ちづるはなにをおねがいしたの?」
「またひろと星をみれますように、って」
「そんなの、星にねがわなくてもぼくがやくそくするよ」
「ホント? やった!」
無邪気に喜ぶその横顔に、一度通り過ぎた熱がまたぶり返すようだった。
「ひろはなにをねがうの?」
「ぼくは……まだかんがえてない」
言葉とは裏腹に、僕はもう願うことは決めていた。
『どうか、千鶴とずっといっしょにいれますように』
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