無垢の傷跡
僕が日記をつけた翌日、女の子は病室に約束通りやってきた。僕の記憶はいつもどおり、一日でリセットされ、はじめはそれが誰だかわからなかった。日記を見て、ようやく前日に一緒に遊んだ女の子だということを理解したけれど、その実感は一切なかった。僕が毎日その女の子と初対面のように接すると、女の子は少し不服そうにしていたものの、決して僕と遊ばないという選択肢はとらなかった。
そんな日々が一月ほど続いた頃。
いつものように目を覚ますと、病室の一番目立つところに、子どもの手によって書かれた紙が貼ってあった。そこには『おきたらまず日記をみること!』と勢いの良い文字が書かれている。枕元の机に置いてあった日記を手にすると、ある女の子との思い出が記されていた。
そのときだった。僕の頭の中にその女の子の顔がうっすらと思い浮かんだのだ。さらに顔だけではなく、女の子と遊んだときの光景がぼんやりと靄がかかったようにではあるが思い出せた。
そのことに僕はひどく衝撃を覚えた。
毎日記憶がリセットされてしまう僕が入院してからかろうじて記憶に残ったのは、数年単位で接してきた白鳥先生と看護師だけだった。
だが今僕はたった一月しか、一緒に過ごしていない女の子のことをうっすらではあるが脳が記憶しようとしていた。
それが女の子の持つ力なのか日記の力なのかはわからない。だけど、僕の中で何かが動く、そんな予感がした。
ある雨の日、僕が病室のベッドから窓の外を眺めているときだった。
いつものように女の子は僕の病室までやってきて、遊びに誘おうとしていた。だが、窓の外を見て、小さくため息をついた。
「こんなあめだと外には出られないね」
「そうだね」
僕たちが遊ぶのは、外出を許可されているガーデンの中だけだ。だが、さすがに吹きさらしの場所で遊ぶわけにもいかない。女の子は、ベッドの隣のパイプ椅子に腰を下ろし、退屈そうに足をぷらぷらさせるのだった。
「は~、なにかたのしいことないかな。って、それなに?」
ゆらゆらと揺れる足がピタリと止めた女の子はベッドのすぐ側の机の上に視線を集めた。つられて僕もその先を見ると、そこには色とりどりな紙の束が重ねて置いてあった。
「あぁ、おりがみだよ。かんごしさんがあまったからくれたみたいなんだ。ぼくはなにも作れないんだけどね」
「ふぅん。……なら、自由につかっていいの?」
「いいけど。なにをつくるつもり?」
「ふふん。まあ、みてて」
女の子は得意そうに鼻を鳴らすと、オレンジ色の折り紙を一枚手に取り、手慣れた手つきでそれを折っていった。最初の方こそ、折っているところを見ていた僕だが、途中からはついていけなくなった。それはさながら魔法のように、たった一枚の正方形の紙が命ある者の形へと変貌していった。
「できた!」
女の子はそういうと、完成したものを机の上に置いた。
二枚の翼を大きく広げたその生き物は、所狭しと言わんばかりに机の上で羽ばたきを見せていた。
「つる、だよね。すごいね」
「えへへ、そうでしょ?」
完成したのは鶴だった。オレンジ色の美しい鶴は、どうして机に立っているのかわからないほどに均整のとれたバランス感覚の持ち主だ。
僕は素直に感心して、少しの間、その鶴をじっと眺めていた。
「でも、どうしてつるを折ったの?」
「ひろは、千羽づるって知ってる?」
「きいたことはあるような」
「千羽づるは名前のとおり、千羽のつるをおりがみでつくるんだ。千羽づるにはね、幸せへのおいのりとか、びょーきがなおるようにとかっておねがいがこめられてるんだって。だから、にゅういんしてるひろにはぴったりでしょ?」
「でもつるをおったところでぼくのびょうきはなおらないと思うけど」
僕は至って真面目に鶴と僕の病気との相関を考えたが、そこには何の因果関係もなさそうだった。理路整然と導き出したその結論に、しかし目の前の女の子は不服そうに頬を膨らませた。
「もう! いきなりひていからはいらない! しんじるものはすくわれる、ってわたしのお母さんも言ってたよ」
「でも」
「でもじゃない! とにかく今日からあめの日はつるをおって、千羽つくるんだからね」
「え、二人で千羽?」
「二人で」
うっすらとした知識だが、千羽鶴はもっと大人数で作るものではないだろうか。二人で千羽を作ろうとすると、単純に考えても一人当たり五百羽は折らないといけない。とてもじゃないが気の遠くなる話しだ。だが、僕の否定の言葉よりも先に女の子は僕に折り紙を一枚手渡しして、鶴の折り方を教えてきた。
結局僕はいつものように抗えず、そのまま鶴を折る作業へと没頭していくのだった。十羽ぐらいを折ったところで、手が疲れてしまって、その日は千羽鶴づくりはお開きとなった。僕が十羽を折るうちに、女の子は僕の倍近く鶴を折っていて、殺風景だった机の上には、色とりどりの鶴の大群が並べられていた。
僕はその光景を見て、少し感動していた。入院してから二年近く、僕の生活は基本的にベッドの上で寝ているか、ガーデンを散歩しているか、といったものだった。当然、その中で僕が生み出したものは一つもない。
僕はいつも人に迷惑をかけてばかりだった。だけど、目の前にいる鶴の大群は、僕が初めて作ったものだ。こんな僕でも、こんなにも美しい鶴を作れるのかと思うと、僕は妙な感動を覚えていた。そして、改めて平然と隣に座る女の子のことをすごいと思った。だって、何年も動かなかった僕の心を、こんなに簡単に動かしてしまうのだから。
小さな感動を隠して、その日は解散となった。
それから何度目かの雨の日、いつもと違うことが起こった。
「あれ、つるの数へってない?」
いつものように病室に来た女の子は机の上に並べられた鶴の大群を見て、不思議そうに首を捻った。
「そう? ぼくにはわからないけど」
残念ながら僕の日記には、女の子と鶴を折ったことは書いてあっても、何羽折ったかまでは書かれていなかった。当然、僕に何羽折ったかを知るすべはない。
「ううん、やっぱりおかしいと思うんだけど」
女の子は納得がいかないという風に鶴のことを眺めていたが、やがて諦めていつものように鶴を折り始めるのだった。
だが、その次の雨の日も同じことが起こった。女の子は鶴の数が足りない、というのだ。
「やっぱりおかしい! だって、このまえおった金色のつるがいないもん! ひろ、かくしたりしてないよね?」
「そんなこと、ぼくがするわけないよ」
「だよね。だとしたら……。ちょっとわたし、さがしてくる!」
「あ、ちょっと」
止める間もなく、女の子は病室から出て行った。その勢いに押されて、僕はその後ろ姿を眺めるだけだった。
机の上に目をやると、そこには百を超える鶴たちが所狭しと並んでいた。色とりどりのその鶴の中に、女の子が言っていた金色の鶴は確かにいなかった。だけど、そもそも僕にはその金色の鶴を折った記憶がない、そう思ったときだった。僕の頭の中にとある映像が流れた。
「金色のつるはかがやいてて、なんかかっこいいよね」
僕の知らないその映像の中で、女の子は確かに僕の隣で金色の鶴を折っていた。
これは、前の雨の日の記憶なんだろうか。
僕は自分が、自分の知らないものに変身してしまうような奇妙な感覚を覚えた。だけど、それは決して居心地の悪いものではなく、むしろ高揚感に包まれるような進化の類と言っても良いものだった。
「まさか、ぼくはまえの日のことをおぼえてる……?」
その喜びを誰かに伝えたいと思ったときに、僕の頭の中に浮かんだのは一人の女の子だった。
だが、その当人は病室を出て行ってからしばらく経ったというのに、未だに戻る気配はなかった。高揚した心も時間が経つにつれ、落ち着きを取り戻し、一転それは不安へとすげ替わっていた。
妙な胸騒ぎを覚えつつ、僕は病室を出て女の子を探しに行くことにした。
近くの病室から手当たり次第に中を覗くのを繰り返すこと三回、僕はいつも見ている女の子の後ろ姿を捉えた。ホッとしてその後ろ姿に声をかけようとしたところで、僕の体はその怒鳴り声に固まってしまった。
「なんでこんなことしたのよ!」
それは僕が聞いたことのない、女の子の怒気を孕んだ声だった。
戸惑いながら病室の中を見ると、そこには女の子と見たこともない同年代ぐらいの男子がいた。女の子は明らかに男子に敵意を向けていた。
その正体を探るため、部屋の中を盗み見ると、すぐに原因はわかった。男子のベッドの隣のゴミ箱の中に破られた鶴が大量に捨てられていたのだった。その中には、金色の鶴が蛍光灯の光をもの悲しげに反射していた。
女の子が怒る原因は明白だった。
最近ずっと言っていた、鶴の数が合わないことの原因はこの男子が僕たちの折った鶴を盗んで、捨てていたからに違いない。僕たちの苦労の結晶が無残に破り捨てられているのを見て、僕の心は傷んだ。
そして同時に疑問が湧いた。なぜ顔も知らない男子から、こんな真似をされなくてはならないのか。その答えは、目の前のやりとりの中にあった。
「オレ、一ヶ月前に入院したときにヒマだったから八坂に声をかけたんだよ。ヒマだからあそばないか、って。でも、アイツすぐことわったんだ。オレもその日は別にいいや、って思って次の日も声をかけたんだよ。そしたら、『ダレ?』って言われたんだ。ムカつくだろ?」
「それは、ひろがびょーきのせいでおぼえられないから……」
「それは先生に聞いたよ。でも、そんなの気持ちわりぃんだよ」
男子が何気なく放った一言に、僕は足元から崩れ落ちそうになった。
存在を気取られないようになんとか堪えたものの、心臓は張り裂けそうなぐらいにうるさく響いていた。
それは僕が小学校に入学してすぐに言われた言葉だった。
周りのクラスメイトたちが自己紹介して、毎日遊ぶのに、僕だけはいつまで経っても名前すら覚えられなかった。最初は不思議そうに僕といっしょにいたクラスメイトたちも、いつまで経っても変わらない僕に、終ぞ離れて行ったのだった。
そのとき言われた、一言。気持ち悪い。
ここ最近の僕は浮かれていたのかもしれない。
女の子があまりに自然に僕に接してくれるから、僕はまるで僕が普通の人間なのだと錯覚してしまっていたのだった。だけど、他の人から見ると僕はやっぱり異常で、気持ち悪いのだ。そんな簡単なことも忘れてしまうほどに、僕の目は曇ってしまっていた。
暗澹とした気持ちが心を支配していく。
僕はその場を離れて、病室に戻ろうとした。
だが、その後ろから驚くほど優しい声が響いた。
「ひろは気持ちわるくなんかないよ」
それは、どこに向かって放たれたかもわからない女の子の言葉だった。
「たしかにひろは昨日のこともおぼえててくれないけど、日記にかいたことはちゃんと知っててくれる。ひろはわたしが毎日たのしめるようにあそんだないようもちゃんとかいて、しぜんにふるまおうとしてくれてる。そんなやさしいひろが、気持ちわるくなんてあるはずない」
体はピタリと硬直したままだった。呼吸すらも忘れて、まるで石像のように僕は病室の前の廊下で固まっていた。
確かに僕は女の子がいる間はできる限り、毎日の遊んだ内容は詳しく書いて、女の子に違和感を持たれないように振舞っていた。だが、そんな僕の演技は簡単に見透かされてしまっていたようだ。
僕は瞳に熱いものが込み上げるのを感じた。
「だから、こんなことするのはぜったいゆるせない!」
穏やかだった声音が再び鋭いものへと変化する。
振り返ると、病室の中では女の子が男子に向かって一歩踏み込んだところだった。
反射的に、僕は駆け出していた。女の子の手が男子に向かって振り下ろされる直前で、何とかその後ろから体を引き止めることに成功する。
女の子は驚いたように僕の顔を見た。
「ひろ!? ちょ、ちょっと、はなして! こいつがわたしたちのつるを……」
「おちついて、ちづる」
僕は腕の中で暴れる小さな体を押さえたまま、初めてその名前を口にした。
僕はきっと、今まで意識的にその名前を口にするのを避けていたんだ。それは名前を口にすることで、その人を自分の中で特別な人として認めてしまうことが怖かったからだと思う。そうして、特別な人と認めてしまったら、忘れたときにきっと辛いから。
でも、今はそれよりももっと怖いことがある。
名前を呼ばれて、面食らったように女の子の動きはピタリと止まっていた。
だが、一瞬の静寂のうち、すぐに言葉を取り戻していた。
「こいつがわたしたちのつるをぬすんで、すててたんだよ! こんなのゆるせるわけないじゃん! だってあれはひろのおみまいのものなのに」
「いいんだ」
「でも……」
「ほんとにいいんだ。今やっとわかったんだ。ぼくのそばにはずっと千羽づるがいてくれたってことに」
「え?」
そうだ。
幸福への祈願、快復へのまじない、希望の象徴。
僕にとっての千羽鶴は、まさに桜木千鶴という女の子そのものだった。
「ありがとう、ちづる」
突然告げられる感謝の言葉に女の子は困惑した様子だったが、やがて納得したのか、振り上げていた手を下ろし、怒りを納めたようだった。
そのすぐ後に騒ぎを駆けつけた看護師によって、僕たち三人はお説教を食らうことになるのだった。だけど、僕にはその言葉はほとんど入ってこなかった。
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