追憶
空虚の子供
死んだ瞳が僕を見ていた。
何の事はない、鏡に映った自身のものだった。
白鳥先生から病気を通告されて、どれぐらいの時間が経ったのだろう。僕はもうそんなことも覚えていない。
どうやら僕は脳の記憶を司る器官に異常があるようだった。白鳥先生は両親に対して、難しい説明をしていたけど、幼い僕には何一つわからなかった。ただ一つ具体的な事象として、僕は記憶を一日以上保持することができないという残酷な現実だけがそこにあった。
はじめはそんなことを信じられなかった。だけど、何度も何度も繰り返されるやりとりに違和感を覚えた周囲の人々は、僕を不気味な目で見るようになった。友達と呼べるような人もいつしか僕から離れていった。そのおかげで僕は自分が普通でないことに気付いたんだ。
何度繰り返しても停滞した現実。世界の中で僕の時間だけが、出口のないトンネルをぐるぐると回っていた。みんなが太陽に照らされて空に向かって伸びる中、僕だけが日陰で萎れていった。
いつしか僕は他人と口を利かなくなってしまった。自分だけが取り残された世界の全てを憎んだからだ。
このまま死ぬまで一生、僕に陽が当たることはない、そう思っていた。
彼女と初めて出会ったのは、僕が八歳になる頃だった。
僕が入院していた病院には、患者が院内に閉じこもりきりにならないように、病院の近くに患者用の庭園が設置されていた。そこは緑に囲まれ、通路の脇には色とりどりの美しい花が植えられていた。中央には、石畳の円形広場があり、広場の周囲を取り囲むように水の通路が敷かれていた。そこからはいつも噴水のように水が湧き上がっている。患者たちの中でそこはガーデンと呼ばれていた。
ある日、院内の薬のこもった匂いに当てられて、外の空気を求めるためガーデンのベンチで休んでいたときだった。
「ねぇ、きみ、わたしといっしょにあそばない?」
声の主はベンチの正面に立つ小さな女の子だった。
ガーデンに入れるのは患者と病院関係者のみだ。目の前にいる女の子も例に漏れず、どこか悪いものを感じさせるうっすらと青い患者服を着ていた。一目見て目立った外傷はなさそうだが、彼女もここにいるということはきっとどこかが悪いのだろう。
女の子の問いかけに答えるのも億劫で僕は黙っていた。だが、女の子はそこを動こうとはしない。
先に音をあげたのは僕だった。
「ぼくはいいよ」
「どうして?」
「どうしてって、ぼくは」
僕の記憶は一日しか持たない。そんな状態で人と遊んだところで、翌日には綺麗さっぱり忘れているのだ。その瞬間が楽しくても、相手は次第に僕のことを気味悪がり、離れていく。そんな無為なことをなぜしなければならないのか。
だが、言いかけて僕は止めた。
その頃の僕は、一定の常識は理解できる状態にあり、自分の病気のことを知らない人に話すものではないと認識していたからだ。
「とにかく、ぼくはいいよ」
自分のために。相手のために。僕はその誘いを断った。
女の子は残念そうに肩を落としながら、遠くへ去っていった。その背中から僕はなぜか目が離せなかった。
もう二度と会うこともない、そう思っていた。
だが、そんな僕の感想とは裏腹に女の子は翌日も同じ時間にあらわれた。そして、同じように僕を遊びに誘い、同じように僕に断られた。
何日もそんなデジャブのような日々を送っていた。僕にとっては、毎日がその女の子との初対面になるけれど。
そんなやりとりが続いたある日、女の子はとうとう怒りをあらわにした。
「もう! 毎日さそってるのにどうしていつもあそんでくれないの?」
僕が君の顔を見るのは今日がはじめてなのに、そう思った。
でも、女の子が本気で怒っているということは、きっと昨日までの僕はその子の誘いを断ったのだろう。
昨日までの僕は、今日の僕の知らない僕で。
今日までの僕は、明日の僕の知らない僕だ。
女の子の言葉は、そのことをどうしようもなく痛感させた。
僕はいつも通り断ったけど、その日は女の子も引く気がないようで、ベンチに座っている僕の手を強引に引いた。
「もう! いいからあそぶの!」
僕は勢いに負け、その手に引っ張られるようにして立ち上がる。
やはり、乗り気にはなれなかった。だけど、女の子の怒りが今日一日遊ぶことによって、明日からの僕に向かないならそれもいいかもしれない。
そう思って、僕はその日だけ遊ぶことを決めた。
「なにをするの?」
「うーん、わたしはうんどーしちゃダメっていわれるから、かくれんぼとかはどう?」
「二人で?」
「二人で」
かくれんぼとはもっと大勢でするものだと思っていた僕は首を傾げたが、女の子は当たり前のように言い張るので、そういうものかと納得した。
ガーデンは、それなりの広さと種々様々な植物があったため、子供が隠れる場所ぐらいはあちこちにある。
「わかった、でも一回だけだからね」
「やった! じゃあまずはわたしがかくれるね。じゅーびょー数えてて」
女の子はそう言い残すと嬉しそうに踵を返し、走り去っていった。
運動がダメと言われているといっていたにも関わらず、その足取りは弾むようだった。
女の子は一体何がそんなに楽しいのだろう。
ボーッと考えていると、女の子は早く目を瞑って、と遠くから怒っていた。
僕は目を閉じて心の中で十秒数えて、女の子を探し始めた。
広場の中央にいた僕は、まずは噴水のように立ち上る水の壁の後ろをくまなく探した。そこには誰も隠れていなかったので、僕は広場を出て、ベンチの裏や木の陰を探した。
女の子を探す途中に僕は久しぶりに他人の顔というものを見た。
そのことに僕は少し驚いていた。
なぜなら、毎日僕は病院や庭園で多くの人を見ているはずなのに、誰一人としてその顔を見ていなかったからだ。
その理由はすぐにわかった。僕がいつも下を向いていたからだ。
今のように誰かを探すでもない限り、僕はずっと下を向いていた。そこにあるのは地面だけで、人の顔など写っているはずもない。
久しぶりに見る他人の顔に僕はなぜだか嫌な思いはしなかった。
そうして探していると、女の子が庭園の隅の木の陰で座っているところを発見した。女の子は見つかったというのに、満面の笑みを浮かべていて、僕にはそれが眩しかった。
結果的にかくれんぼは、見つける側と隠れる側を交代して三回ずつ行った。
はじめは一回だけのつもりだったのに、女の子があまりにも楽しそうに遊んでいたせいだ。
「あー、たのしかった」
遊びはじめたときはまだ眩しかった太陽も、かくれんぼが終わる頃にはすっかり暮れ、あたり一面をオレンジ色に照らしていた。
拳一つ分距離を開けたところに、女の子が座りながら嬉しそうにいった。
「わたし、少しまえまでずっとけんさで、やっと外に出られたんだ。でも、すぐに一人じゃヒマだなーって、なっちゃって。だから、きみがいてくれてたのしかった」
女の子の満足そうな顔は夕焼けに照らされて、心なしか赤く染まっていた。
「そうだ、きみはさいしょ、なんであそびたくなかったの? あそんでるときのきみは、とてもたのしそうだったのに」
無邪気にそんなことを聞いてくる女の子に僕は戸惑った。
知らない人にむやみに病気のことは話さない方がいい。
だけど、その女の子はもう”知らない人”じゃない。
「わすれちゃうから」
「え?」
「ぼくはわすれちゃうんだ。今日きみとあそんだことも、明日にはきれいさっぱりわすれちゃう。だから、たのしくてもかなしいんだ」
「よくわかんないんだけど、明日までずっとおきてれば?」
「そんなに長くおきてられないよ」
勇気を出した僕の告白に、女の子の返答はどこかズレていて。だからこそ深刻になっていた僕は少し笑ってしまった。
そしてまた、自分が笑ったことに驚いてしまった。
前に笑ったのなんていつが最後なんだろう。そんなことも僕には思い出せない。
「あ! バカにしたでしょ!」
「してないよ」
言葉では否定しつつも、女の子の言葉がおかしくて僕は笑ったままだった。
女の子は少し不満そうに顔をムッとしていたが、そのうちつられて笑顔になっていた。
あたりを見回すと、ガーデンにいた人たちも疎らになり、残った人たちもみんな病院に帰ろうとしているところだった。
僕もそろそろ帰らなければならない。立ち上がろうとしたときに、ぐいと袖を掴まれた。
「そうだ! 日記! 日記をかけばいいんじゃない?」
「日記?」
「そう、日記。その日なにがあったかをかくの。そうしたらわすれても、なにをしたかわかるじゃない?」
「そうかもしれないけど」
日記、一度は考えたこともあったが、結局そのときは始めなかった。
理由はもう覚えていない。多分面倒だったから、とかじゃないかな。
「どうしようかな」
「どうしようかな、じゃなくてかくの! わたし、もうしばらくこのびょういんにいるから、明日あそぶときにおぼえてないとふべんでしょ?」
「まあ、きみがいるあいだぐらいなら」
僕にとっては毎日同じ遊びをしても、それは初めての遊びになるけれど、他の人にとってはそうではない。だから、何をしたか書いておけば同じ遊びばっかりは避けられる。
そこまで考えたときに、僕は自分の考えに少し驚いた。
僕は、明日もこの女の子と遊ぶつもりなのだろうか。
僕は同年代の子と遊んだことがほとんどなかった。小学校に入学してすぐに記憶に障害が出はじめた僕は、他の同級生たちと遊ぶことはなかった。入院してからも、両親以外で話すのはリハビリで話す先生と看護師さんぐらいだ。
それが当たり前だと思い、何の疑問も抱いてこなかったのに、今日僕はたまたま”普通の人”の”普通”を知ってしまったのだ。
何に対してのものかもわからない悔しさを感じた僕は、女の子にそれをぶつける。
「明日もあそぶの?」
「あたりまえじゃない。だって、いっしょにあそんだほうがたのしいでしょ?」
だけど、僕の密かな反抗心は女の子の無邪気さに簡単に砕かれた。
そしてそんな展開を、僕は心のどこかで喜んでいた。
「まずはわたしの名前をかいておいてね。わたしの名前は桜木千鶴。桜の木に千の鶴ね。きみの名前は?」
「八坂ひろ。八つの坂にひらがなのひろ」
「ひろ、ね。わかった。よろしくね、ひろ」
そう言って差し出してきた手を僕は握り返すか迷った。
そうして迷っているうちに女の子が勝手に僕の手を握っていた。
僕は久しぶりに触れた人の温もりに、なぜだか心が落ち着くようだった。一方で、僕はそれを明日には忘れているんだろうと思うと、胸がチクリと痛んだ。
その日、病院に帰る途中で女の子は売店に寄ると、戻ってくるときには小さなノートを持っていた。それを僕に渡すと「寝る前に必ず日記をつけること」と言い残して、その日は別れた。
病室に帰った僕は女の子の名前とガーデンでかくれんぼしたことだけを書いた。
女の子が入院している間だけ、そう思って僕は日記を閉じた。
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