愛憎の兄妹

 その姿を見て、僕はやっぱり幻覚を見ているのだと思った。

 だって、千鶴は二週間前に殺されている。

 しかも、こんな牢獄の中にいるはずがない。

 だけど、僕の手に触れたその温かな感触がそれを現実のものだと認識させた。

 流れるような黒髪が、僕の頬を掠める。


「千鶴、なの……? どうして生きて」

「何言ってんの。それより、早くここから出るよ」


 千鶴は僕の言葉を無視して、どこから手に入れたのかわからない鍵を右手の錠にはめ込んだ。鍵は奥まで入り、僕を拘束していたその金属はあっさりと地面に落ちた。金属の高い音が牢屋の中に響き渡る。

 千鶴は僕の右手を引っ張った。

 依然、頭の中では疑問が渦巻いていたが、現実に意識が戻る。


「ちょ、ちょっと待った。生徒会長……、桃井さんも拘束されているんだ」


 隣にはまだ意識の戻らないままの桃井さんが錠に繋がれている。

 その側へと駆け寄り、改めて全身を確認する。どうやら目立った外傷はなさそうだ。桃井さんの肩をゆすり、呼びかけると、ゆっくりと瞼を開いた。


「んん。あれ、ヒロ君に……あなたは、アイドルの桜木千鶴さん!? え、どうして、どうなって」


 自分の手首にはめられている錠と閉じ込められている檻を見て混乱している様子の桃井さんだったが、とりあえず無事なようだ。

 千鶴が手に持っていた鍵を取り出して、僕のときと同じように桃井さんに科せられた錠を外す。


「桃井さん、僕たちはあの仮面の集団に捕まったんです。でも、千鶴が助けに来てくれて。とにかくここを出ましょう」

「よくわからないけど、とにかく逃げるってことね」


 自由を取り戻したところで、僕たちは千鶴を先頭に開けられた檻の扉から通路へと出た。

 檻をでても照明はなく、小窓から差す月明かりだけが頼りだ。奥の方は、その明かりすら届かず、真っ暗で何も見えない。一度行ったら戻れないような不気味な通路に僕は身震いする。

 千鶴は「こっち」と言い、通路を先導した。虫の音だけが聞こえる中、通路を進む僕たちの足音はやけに大きく響いた。見張りがいればすぐに飛んできそうなものだが、周囲を警戒しても人の気配はない。

 いくつかの通路と扉の先、僕たちはついに建物の外へとでた。

 月明かりに照らされ、思わず目を細める。建物の周囲は鬱蒼と茂る木々に囲まれていた。植物由来の青々とした香りが鼻孔をつく。

 ここは一体どのあたりなのだろうか。

 疑問は湧き出たが、僕たちは一旦建物から離れ、近くの木陰へと素早く移動した。

 息が整ったところで千鶴が呟いた。周囲に人の気配はない。


「とりあえず大丈夫かな」

「千鶴、どうしてこんなところに……。というか、何で僕たちが捕まってることを知ってたの」

「聞きたいのは私だよ。ようやくこっちまでの交通機関が回復したから、帰ってきて避難所に行ったら、変な修道服を着た人にヒロはここにいる、って言われるし。来てみたら檻に閉じ込められてるし」


 千鶴によれば、ミサイルの落下の影響のため、この街への交通機関は一時的に麻痺していたらしい。そのため、千鶴は今日まで東京からこっちまで帰ってこれなかったそうだ。そして、ようやく帰ってきたと思えば、避難所に僕たちの姿はなく、この場所を教えられた、と。

 だが、ますます状況がわからない。

 僕たちをわざわざ捕らえたのに見張りも置かないなんて秀一は何を考えているのだろう。それに千鶴にこの場所を教えたのが、秀一の信者だとしたら、せっかく捕まえた僕たちを逃しているだけじゃないか。

 様々な疑問が僕の頭を駆け抜ける。だが、この状況で一番優先すべきことを思い出す。


「そうだ。アリス。金髪の小さな女の子はここにいなかった?」

「金髪の女の子? いくつか部屋を見たけど、ここにいたのは、ヒロと桃井さん? だけだよ」


 アリスはまだ捕まっていなかったようだ。であれば、アリスは今も逃げている最中なのだろうか。

 僕の言葉に桃井さんが怪訝そうに首を傾げた。


「アリスって、エリーちゃんのこと? 私とエリーちゃんが墓地から逃げた後、私たちの後をすぐ二人組が追ってきてね。私はエリーちゃんだけでもと思って、二人組の足止めをして、エリーちゃんを逃がしたの」

「ということは、まだ捕まってないんですね。どっちに行ったかわかりますか?」

「墓地から北のほうへ向かったはずだよ」


 桃井さんはアリスという名前に首を傾げたが、今はそれを説明している余裕はない。

 アリスは墓地から北に向かったらしい。

 土地勘のないアリスが向かう場所はどこだ。

 知らない場所に行くのは、迷う危険性や僕たちとの合流の可能性から考えにくい。

 となれば、アリスが知っている場所に向かうはずだが……。

 墓地から北。街の地図を必死に思い浮かべる。

 その先にあるのは、小さな川と老舗の商店街。さらにその先には……。

 僕の頭にある場所が思い浮かんだ。

 それは秀一の家で見つけたアルバムに写っていたお寺。

 アリスは以前日本に来たときにその寺に行ったことがあると言っていた。

 アリスが逃げた方向、アリスが知っている土地から考えれば、この寺である可能性は十分あるはずだ。


「ごめん、二人とも。詳しく説明してる時間はないけど、僕は秀一を追わなくちゃいけない。二人は避難所に戻っていてほしい」


 僕の言葉に千鶴はぽかんとした顔を浮かべた。事情を全く説明していないのだ。そんな反応になるのもしかたない。

 だが、それでも今は一刻も早くアリスを見つけ出さなければならない。

 千鶴は小さくため息をついた。


「わかった。それがヒロにとって大事なことなら、しょうがない。でも、ヒロ一人じゃ行かせられないから、私も行く。いいね?」

「いいね、って……」

「そんなふらふらの体で、一人で行くのをほっとけるわけないでしょ」


 行き先には、何が待っているかわからない。再び神の子の信者たちと遭遇するかもしれないのだ。

 そんな反論を口にしようとしたが、千鶴の目を見て、僕はその言葉を飲み込んだ。千鶴の目はどこまでもまっすぐに僕を見つめていて、それを説得できる気がしなかったからだ。


「わかった。じゃあ千鶴はいっしょに行こう。桃井さんは、どうしますか」

「私は……、まだ体が重くて動かない。悔しいけど、二人の足を引っ張っるのは嫌だから、避難所に戻ろうと思う」

「一人で戻れますか。ダメなら千鶴に付き添ってもらって」

「大丈夫。少し休めば、避難所に戻るぐらいは一人でできるよ。それより、秀一君の、大バカの目を覚ましてきてあげて」


 木にもたれかかったままの桃井さんは全身がだるそうだ。おそらく拘束されたときのショックがまだ抜けきっていないのだろう。

 そんな状態でも、桃井さんは笑顔で親指を立てた。痛みを堪えて笑っているようにもみえたが、最後に桃井さんが付け加えた言葉はきっと本心から出たものだろう。だったら、桃井さんのためにも僕は秀一を止めなければならない。


「わかりました。必ず秀一の目を覚ましてきます。行こう、千鶴」


 話がまとまったところで、僕たちは歩き始めた。

 千鶴によれば、この監獄は僕たちが連れてこられるまでいた墓地からそう遠くない位置だった。

 目的地である寺は僕たちの位置からおおよそ北に一時間ほどの場所に位置する。しかし、それは一度僕たちが拘束されている山から公道に出て、進んだ場合の時間だ。安全を重視するなら一度公道に出るべきだが、今は一刻を争う。秀一が僕の目の前から消えてから、どれほど時間が経ったかもわからない。

 僕たちは獣道を通って、寺までの最短距離を目指すことにした。

 月の方角を目印に僕たちは森の中を突き進む。木々に囲まれた道と言えぬような道だけあって、進むたびに無数の生傷が新たについていく。だが、その痛みすら今は感じない。僕たちはただひたすらに、草をかき分け、坂を登り、道無き道を突き進んだ。

 深い木々を抜けると、目的地である寺の正門が悠然とそびえ立っていた。

 どうやらこの寺はミサイルの影響はほとんど受けていないようで、赤く染め上げられた立派な門が僕たちを待ち構えていた。普段なら観光客で賑わう寺だが、今は人一人見当たらない。あたりは不自然なほどに静かだった。だけど、だからこそ僕はここに二人がいることを直感した。

 正門をくぐり、寺の一番の観光スポットである展望台へとたどり着く。

 木製でできたその展望台は、標高の高い場所に位置しており、眼下には美しい木々が広がっている。秋は紅葉で紅く色づいているが、今はまだ青々しい緑の木々が立ち並んでいる。夜間ということもあって、木々には光の装飾が施されている。

 展望台の先に広がる緑に輝いた木々。

 そしてそのさらに遠くに広がるのは、未だ続く火災で燃え続ける赤に輝いた街。

 それはとてもこの世のものとは思えない光景だった。

 その展望台の中央で、光に照らされた二人のシルエットが向かい合っていた。一人は僕と同じぐらいの身長で、もう一人は僕の腰ぐらいにしか満たない身長だ。

 背の低い人物の髪は輝くような金髪で、光に映されたその姿は映画のワンシーンのようだ。

 その少女に向けて男は右手を突き出している。その手に握られているものは、この場にはそぐわない無粋な鉄の塊、拳銃だ。

 僕は駆けながら「秀一!」と叫んでいた。

 僕と千鶴の足音に気付いた秀一が拳銃を下ろすことなく、顔だけをこちらに向ける。


「ヒロ、それに桜木も来たか。思ってたよりも早いな」


 秀一の指はすでに引き金へとかかっている。その銃口はアリスの頭を捉えていた。

 二人の間に立とうと一歩踏み出す。


「動くな! ……ヒロ。そこで黙って見てろ」


 その気迫に押され、僕は足を動かすことができなくなっていた。これ以上、一歩でも踏み出せば、秀一はその鉛玉をアリスの額へと放つかもしれない。その鬼気迫る表情に、僕はただ二人を見ていることしかできない。

 だがこんな状況の中にあって、背の低い少女は背中を張り、真っ直ぐと自分に銃口を突きつける相手に向かい合っていた。


「お兄ちゃん……、どうして、パパとママをころしたの」


 アリスの美しい金髪が風にたなびく。その髪の隙間から見えた頬には、輝く雫がこぼれ落ちている。

 その言葉にも秀一はただ黙ったまま、銃を突きつけるだけだ。


「まえにあたしが日本にきたとき、お兄ちゃんここをあんないしてくれたよね。見たこともないキレイなこのけしきのことずっとおぼえてる。神さまへのおさいせんのやりかたをおしえてくれたことも、おみくじを引いていっしょに結んだことも、ぜんぶ覚えてる」


 頬から伝う涙をぬぐいながら、アリスは必死に胸の内をさらけ出していた。アリスにとって秀一と来たこの寺での出来事は、きっと日本で一番思い出に残っているのだろう。

 声に涙をにじませながら、アリスは必死に叫んだ。


「あたしはお兄ちゃんのことがだいすきだったのに! どうして……」

「必要だったからだ。母さんが安らかに眠れるように。お前の両親は生きていてはいけない存在だった」

「わかんないよ。お兄ちゃんがなにをいってるのか、わかんない」

「お前には理解できないかもしれない。だけど、母さんのために」

「あたしも生きてちゃいけないの……?」

「……あぁ」


 引き金にかけていた指に力が込められる。

 今度こそ僕は走り出していた。秀一とアリスの間へ割り込むように。

 アリスが流す涙を、そんなアリスに対して引き金を引こうとしている秀一を、これ以上見ていることはできなかった。

 アリスをかばうように限界を超えて手を伸ばす。開いた手がちょうどアリスの頭の前にかざされる。

 瞬間、耳を裂くような発砲音が響いた。

 同時に僕の右腕が吹き飛ばされる。

 何が起こったのかを確認しようと視線を移す。その先では、僕の右腕の前腕部分を銃弾が貫いていた。その跡から赤黒い液体が流れ落ちる。心臓のドクドクという鼓動がうるさいぐらいに大きくなる。遅れて激痛が全身を駆け巡る。声にならないうめき声が漏れた。

 目の前のアリスと後ろの千鶴から同時に叫び声が上がった。

 千鶴がすぐに駆け寄ってきて、服を破り、銃弾に貫かれた部分を強く締め付けた。痛みで、出血で、意識が飛びそうだった。

 アリスは緊張の糸が切れたのか、それとも僕の腕から溢れ出る血のせいか、意識を失ってそのまま床へと倒れた。

 頭の中はまともな思考ができない。

 だが、それでも秀一に言わずにはいられなかった。

 秀一は膝を崩してうずくまる僕とそれに寄り添う千鶴を、表情を変えることなく、見下ろしている。


「秀一! 自分が何をしてるのか、わかっているのか」

「あぁ、俺はアリスを殺さないといけない」

「ふざけるな! 例えどんなことがあっても、こんな小さな女の子に銃を向けることだけは、絶対に間違ってる。秀一も、最初からわかってたはずだ」

「何を……」


 秀一は言葉の意味が理解できないと言わんばかりに呆然とした表情を浮かべる。

 不規則に波打つ血の鳴動が僕の全身の力を奪っていく。呼吸が自然と荒くなり、段々と意識が遠のきそうになる。だが、ここで崩れるわけにはいかない。

 痛みが全身を駆け巡る。それでも僕の思考は止まらない。

 千鶴に僕たちが捕らえられていた場所を教えたのは、十中八九秀一の信者だろう。さらに、あの場所には見張りが一人もいなかった。いくら何でも人を捕らえておくには不自然だ。つまり、最初から秀一は僕たちをあそこから逃がす気だった。


「秀一は僕たちがここにアリスを助けることがわかっていながら、僕たちを牢屋から出した。つまり、君は僕たちに止められることを望んでいた」

「それはお前の勘違いだ。俺はアリスを殺してから、お前に過去日記を返すつもりだった。だから牢屋から逃がした。ただお前たちが俺の予想よりも早く、ここにたどり着いた。それだけだ」


 秀一は僕の言葉を否定するが、それはまるで自分に言い聞かせているようだ。僕は確かに秀一の瞳が揺らいでいるのを見た。


「例えそうだったとしても、君は二度もアリスを殺せなかったじゃないか」

「……俺がいつ、こいつを殺せなかったっていうんだ」

「一度目は料亭さ。君は牢屋で料亭に家族を呼び出したと言った。つまり一月前、料亭での事件のとき、アリスはその場にいたはずだ。君はそこで自分の父親とその癒着相手であるミハエルを殺し、さらにアリスの母親を殺した。だけど本当ならそこでアリスも殺せたはずだ。秀一は言ったよね。料亭は君を信奉する者で固めたって。そんな状況でアリス一人がその場から逃げることなんてできないだろ。……君はそのときアリスを殺せたにも関わらず、わざと見逃した」

「黙れ」

「二度目は今だ。今、君が放った弾丸は僕の右腕に命中した。でも、もし君がアリスの頭を撃ち抜くつもりだったら、僕の手のひらに命中していたはずだ。君は、最初から当てるつもりなんてなかった」

「黙れ! 俺はこいつを殺そうとした! こいつを殺さないと、母さんの魂はいつまで経っても報われない!」


 声を荒げる秀一からは葛藤が見えた。

 はじめて見せる秀一の心からの叫びに、僕はそれが秀一の本心であることを疑わなかった。

 きっと秀一は今も迷っている。自分の母親の無念を晴らすことと幼いアリスに銃を向ける愚かさとのその狭間で。

 そのとき、僕はふといつかの屋上での問答を思い出した。

 夕焼けの中、文化祭が終わった後の屋上で秀一は問うてきたのだった。

 あのとき答えられなかった答えを、今なら出せる。そんな気がした。


「ねぇ、秀一。選ぶってどういうことだと思う」

「何を突然。……選ぶってのは」

「捨てること、じゃないと思うんだ」


 秀一の表情に明らかな驚愕が走った。

 以前秀一は言った。選ぶこととは捨てることだと。その覚悟をすることだと。

 だけど、そうじゃないんだ。


「お前、どうしてそれを……。そうか、別の世界の、俺か」

「うん。別の世界の君に同じことを訊かれたとき、僕は何も答えられなかったんだ。だけど、今は違う。僕は、選ぶことは、守ることだと思う。自分で選んだものに最後まで寄り添って、その想いを貫き通すこと。それが選ぶことなんだと思う。それは秀一が言った、無数の選択肢を捨てることとは違う。僕たちはいくつでも、守るものを選ぶことができるんだ」

「……詭弁だ。お前の言っていることは俺の言っていることと同じだよ。結局お前も守るもの以外を捨てているじゃないか」

「違うよ。秀一ははじめから選んだもの以外を切り捨てることを前提としている。でも、僕は例え選ばなかったものでも、守ることはできると信じている」


 これが、あの日の僕が出せなかった答えだ。

 秀一の言う通り、ある意味僕と秀一の言っていることは同じなのかもしれない。ただ、どちらの目線に立って主張しているかの違いだけしかないのかもしれない。でも、そこには明確な違いがある。

 秀一は、選ぶという言葉を諦観の意味で使う。

 僕は、選ぶという言葉を希望の意味で使う。

 どうせ同じ意味なら、希望を見出す方がずっといい。


「秀一は、お母さんの無念を晴らしたいという気持ちとアリスを撃ちたくないという気持ちで心が反発している。それは、秀一がどちらか一方しか選べないと思い込んでいるからだ。けれど、どちらも守る方法だって、きっとあるよ」

「そんな方法あるわけ……」

「あるさ」


 僕は確信を持って答える。


「前に秀一は言った。天才の俺がいれば、全部上手くいくって。なら、今回も上手くやれるさ」

「はは。なんだそれ。結局は自分で考えろってことかよ」

「そうかもね。でも、もし見つからなくても、僕も答えが出るまでいっしょに悩み続ける」

「……馬鹿だなお前」


 秀一はそう言って笑うと、迷ったように自分の右手を見つめ――。

 拳銃を床に落とした。

 憑き物が落ちたような秀一の表情を見て、ようやくいつもの秀一が帰ってきたことを確信した。

 その一幕を、千鶴は息を呑みながら見つめている。

 たどり着いてからずっと流れ続けていた緊張の空気が緩む。

 秀一は僕の右腕から溢れる血を見つめ、過去日記を”開いたまま”取り出した。


「俺が改変した過去はすべて消しておいた。あとはこいつを閉じれば、お前はもとの世界に帰れるはずだ」

「やっぱり最初からそのつもりだったんだね」


 秀一は僕をこの世界に閉じ込めておく気などなかったのだ。むしろ最初から、僕をもとの世界に返すつもりだった。

 日記を手に持ったまま、秀一は複雑な表情を浮かべた。


「だけど、いいのか。俺も予想していなかったが、この世界ではなぜか桜木が生きている。お前がもとの世界に戻れば、また桜木は殺された状態に戻るだろう。お前は元々桜木を救うために日記を使ったんだろ?」

「え、私?」


 唐突に名前を出された千鶴が困惑している。唐突に自分が殺されるとかそんな話をされたら無理もない。

 確かに僕は彼女のために何でもする覚悟を決めた。けれどそれは、他人を犠牲にしてもいいという免罪符ではない。過去日記をそんな風に扱うことを僕は、いや、僕以上に彼女が許さないだろう。


「大丈夫。全部救ってみせる」

「ヒロらしいな。お前はやっぱりヒーローだよ。……向こうの俺に伝えておいてくれ、『大バカ野郎』って」


 秀一が日記を渡すために一歩踏み出したそのときだった。

 弛緩しきった場に一発の銃声音が鳴り響く。

 同時に、目の前に立っていたはずの秀一が崩れ落ちた。

 その手からは日記がこぼれ落ち、僕と秀一の中間に着地した。

 何が起こったのか、わからなかった。秀一は既に銃を捨てている。この場で銃を持つものなどもういないはずなのだ。だが、現に銃弾は放たれ、秀一はその凶弾を浴び、倒れた。

 その銃声のもとに目を向けると、正門の方角から、軍服に身を包んだ数人の男たちが僕たちを取り囲むように走ってくる。男たちは配置につくと、予断なく銃口を僕たちに突きつけてきた。

 僕が倒れた秀一に駆け寄ろうと、足をピクリと動かしただけで、銃口が僕の方を捉えてくる。その洗練された動きは、まさに軍隊のそれだった。

 中央に立つリーダー風の男が隊員に指示を出す。


「アリス様の身の安全が最優先だ。ミハエル・ウォーカー氏殺害の最重要参考人物である月島秀一は捕らえよ。近くにいる学生にも共犯の疑いがある。これも同様に捕らえよ」


 その号令とともに、銃を構えたまま軍服の男たちがジリジリとにじみ寄って来る。

 僕は必死に状況の理解に努める。

 指示を出した男の言う学生というのは僕たちのことだろう。アリスを保護しにきたということは、この軍隊は前に正蔵さんが言っていたA国の調査団というやつなのだろうか。

 さっきまで秀一がアリスに銃口を向けていたこともあってか、軍服の男たちは殺気立っている。もしかしたら、僕たちまでアリスを狙っていると勘違いされているのかもしれない。

 どうするべきだ。

 ここはおとなしく捕まった方がいいだろうか。

 僕が抵抗の意思がないことを示すため、手を上げようとした。


「何してる、ヒロ! さっさと過去日記を閉じろ! ここで捕まったら二度と帰れないかもしれないぞ!」


 叫んだのは、秀一だった。

 秀一は咆哮と同時に体勢を立て直して、銃弾からかばうように僕らと軍人たちとの間に割って入った。秀一の体からこぼれた血が木製の床を濡らしていく。

 秀一の言う通りだ。少なくとも相手は、まだ犯人という確証を得ていないであろう秀一を撃ったのだ。その様子から見ても、明らかに僕たちを敵視していることはわかる。ここで大人しく捕まったとしても、解放されるとは限らない。下手をしたら一生拘束される、もしくは殺されると言うことも十分にある。

 今、動かなくちゃいけない。今なんだ。

 僕は日記まで駆け出していた。

 だが、僕が一歩踏み出したと同時、再び銃弾が秀一を貫いた。それも一発ではなく、複数だ。秀一は全身のいたるところから血を流し、今度こそ完全に倒れた。

 僕は日記に向かって手を伸ばす。


「撃て!」


 日記まであとわずか。そのわずかが、届かない。

 横目で見れば、軍人たちが再び銃をこちらに構え、引き金に指をかけている。

 死を、覚悟した。

 耳をつんざくような銃声音が響き渡る。

 だが、いつまで経ってもその銃弾が僕に届くことはない。

 銃弾の射線に一人の人物が僕をかばうように割って入ったからだ。


「千鶴……!」


 千鶴は両手を広げて、僕を銃弾から庇う。

 その体はみるみる赤く染まっていく。崩れゆく瞬間、千鶴が顔だけを振り向かせた。


「ヒロ……生き、て……」


 千鶴が稼いだ刹那、僕の指が日記の端に触れた。

 秀一が、千鶴が、倒れたその光景に胸が爆発しそうだった。

 だが、今は泣いている場合ではない。必ず、二人を助けるんだ。


「飛べえええ!」


 僕を捉えた銃口が光るのと同時、僕は日記を閉じきった。 

 その銃弾が、僕を貫くことはなかった。

 目の前が突然白で覆われる。

 何度も経験してきた世界を渡る感覚。

 体の感覚を取り戻したとき、僕はさっきまで立っていた寺の展望台にいた。

 右腕を見ると、秀一に撃たれたはずの跡が綺麗さっぱりなくなっている。銃弾の跡だけではない。倒れた電柱にえぐられた上腕部の傷も、綺麗さっぱりなくなっていた。

 どうやら、もとの世界に帰ってこれたようだ。

 赤い血に染まった秀一の、千鶴の姿がまぶたの裏に蘇る。心臓を直接鷲掴みにされているように胸が苦しい。

 呼吸を整え、月明かりに照らされたあたりを見回す。

 展望台には千鶴も、アリスも、軍人たちもいない。

 ただ一人だけが、僕を見ていた。


「秀一……」

「その顔、戻ってきたみたいだな」


 秀一はすべてを見透かしたように言った。

 僕は無意識のうちに拳を握っていた。痛いほどに握られた拳を携えたまま、秀一に向かって一歩踏み出す。

 秀一は表情を動かさないまま、僕の歩みを見つめていた。

 あと数歩の距離に近づいたところで、僕は一気に加速する。その勢いを乗せたまま、僕は秀一の顔に向かって拳を振り抜いた。

 秀一は避けることなく、その拳を受け入れた。秀一の体が後ろに勢いよく吹き飛び、床へと倒れこむ。


「向こうの秀一から『大バカ野郎』だってさ」

「……そうか」


 秀一は展望台の床に倒れこんだまま、ただ無言で夜空を眺め続けていた。

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