星の約束

終局の幕開

「今日の診察はこれぐらいにしておこうか」


 床まで伸びた白衣に身を包んだ白鳥先生が、手元のカルテを隣に立つ看護師に手渡した。

 先生とは僕がはじめて病院に訪れた頃からの十年近くの付き合いとなる。若々しさにあふれた好青年風の容貌も、顔には皺が入り、純白の白衣も所々がほつれ、黒ずんでいた。


「熱も治ったからもう大丈夫そうだね。明日には退院できるよ」

「ありがとうございます」

「私としては、ひろが入院するのなんて久しぶりだからもう少しいてもらってもいいんだけどね」

「もう一週間も寝ちゃったので、そろそろ動かないと。……それにやらないといけないこともあるので」


 先生は冗談めかして昔を懐かしむように笑った。

 秀一が創った世界から帰ってきた僕は、その翌日自宅で高熱を出して病院へ搬送された。四十度を超えるかつてない高熱に体が言うことを聞かず、僕はそのまま入院することとなった。翌日からも熱は一向に引かず、結局動けるようになったのは、入院してから五日ほど経った頃だ。

 もとの世界に帰ってきて、一刻も早く千鶴を救いたかった僕にとって、この日々はもどかしいものだった。

 ようやく体を動かすことのできるようになった僕は、今日白鳥先生から呼び出された。

 先生とは、記憶障害の事後経過観察という名目で月に一度、病院を訪れて、診察を受けることになっている。僕が入院したことを聞いた先生が、それを兼ねて様子を見るために、この面会を準備してくれたのだった。

 一通り診察を終えたところ、特に記憶の方は問題がなさそうということで、先生は安心した様子を見せた。

 その後もいくつか雑談をしている中、ふと先生の机の上に無造作に置かれた新聞が目に入った。その表には、未だ進展のない千鶴の事件の記事が端の方に小さく掲載されていた。僕の心臓がキリキリと痛む。


「ところで先生、千鶴……、いえ桜木さんのことですが」

「あぁ、痛ましい事件だったね」

「先生は、彼女のことを覚えていますか?」

「もちろんだとも。千鶴ちゃんがここに入院していたのは一ヶ月程度だったが、彼女はとても目立っていたからね。君と千鶴ちゃんが病室を抜け出して遊びにいったのには手を焼かされたものだよ。……三人で星を見に行ったことは、今でも鮮明に覚えているよ」


 先生は温かい眼差しで、どこか遠くを見つめるような表情を浮かべる。きっと、当時のことを思い出していたのだろう。

 だが、その優しい顔に一筋の影が差す。


「事件はここからそう遠くない場所で起こったようだね。私はその日夜勤でここにいたからね。その場にいたらと思うと……やるせないものさ」

「先生が悪いわけじゃないです。悪いのは、犯人ですから」

「……そうだね。彼女がこれから輝くはずだった未来を理不尽に奪われてしまったと思うと、とても悲しいよ」

「僕も同じ気持ちです」


 先生の眼にあの事件はどう映っているのだろうか。

 これまで、秀一と詩織と三人で事件のことを考えてきたが、僕たち以外の観点から事件を眺めたことはなかった。もしかしたら、何か有益な情報が得られるかもしれない。そう思い僕は口を開いていた。


「先生から見て、あの事件はどう映りますか」

「どう、とは」

「例えば犯人がどのような人物か、とか」


 机の上に置いてあった新聞紙を右手でなぞりながら、先生は少し考え込むようなそぶりを見せた。


「そうだね。私は犯罪心理学者でもないし、ましてや探偵でもない。だから詳しいことはわからないけれど、もしかしたら犯人は世間で言われているような通り魔ではなく、千鶴ちゃんの知人の中にいたのかもしれないね」

「どうしてそう思われますか」

「千鶴ちゃんの体には複数の刺し傷が確認されたと記事で見た。通り魔というのは、一般的に社会に強い恨みを持っていたりして、人の集まりやすいところを狙う傾向があるからね。だけど今回の事件では、人通りの少ない夜道、そして千鶴ちゃん個人に対する恨みを持っていたように見える。だから、私は犯人は千鶴ちゃんの顔見知りなんじゃないかと思うんだ」


 なるほど、と僕は相槌を打った。

 報道されていないものなので、先生は知らないだろうけど、僕は千鶴が刺された現場写真を一度目にしている。それを見る限り、確かに面識のないものが行う犯行にしては、あまりにもその殺意は常軌を逸したものだった。

 だとすれば、やはり千鶴に何らかの恨みを持った存在がいるのか。

 思考の沼にハマりそうになっていると、先生は真剣な表情を浮かべて、僕の顔を覗き込んだ。


「ひろ、まさかとは思うが、君は犯人を探そうとしているんじゃないだろうね」


 どきりと心臓が脈打つのを感じた。

 僕が犯人の正体を暴こうとしていることが伝わったら、きっと先生はそれを止めるだろうと思い、咄嗟に否定の言葉を口にする。

 だが上擦ったその声からは、僕の見え透いた嘘はすぐに見抜かれてしまったようだ。先生は深くため息をついた。


「慎重に行動すること、安易に危険な場所に飛び込まないこと」

「え?」


 身構えていた僕は、思わず困惑の声が漏れる。


「先生、止めないんですか……?」

「二人のことは小さい頃から見てきたからね。君が千鶴ちゃんのことをどう思っているかも、少しは理解しているつもりだ。君にとって、千鶴ちゃんはとても大切な、特別な存在だった、いや今もそうだろう」

「はい」

「だったら僕が無理に止めても、君は言うことを聞かないだろうからね。どうせ聞いてくれないなら、せめてもの助言を、と思ったまでだよ」


 強張った表情を解き、先生は穏やかな表情を浮かべた。

 本当に何から何まで見透かされているようで、恥ずかしさの反面、心地よさを感じていた。

 思えば小さい頃、一番時間を共に過ごしたのは先生だった。

 両親は僕の入院費を工面するため、共働きで朝から夜まで働きづめだった。必然、僕が両親と会える時間は仕事が終わった後のごくわずかな時間だけになる。

 ずっと一人でいた僕に声をかけてくれたのが先生だ。先生は僕を見るといつも近寄ってきて、明るく挨拶をしてくれた。僕が挨拶を返さなくても、先生は毎日僕に挨拶をしてきた。僕がはじめて挨拶を返した日の先生の驚いた顔と子供のように喜んでいたその姿は今でも忘れない。

 先生は僕が落ち込んでいると、いつも「私が君を必ず治す」と口にしていた。最初は信じていなかったその言葉も、繰り返されるうちに不思議と魔力が宿ったように、信じられるようになっていた。

 あの頃からずっと、先生は僕にとって最も心強い味方なのだ。


「ありがとうございます、先生」

「なに、私は君の主治医だからね。困ってることがあるなら何だってするさ。気付いたことがあったら連絡するよ」

「はい、よろしくお願いします」


 そうして、先生との面会は終了した。

 ようやく明日には退院だ。

 これで千鶴を助けに行ける。退院日である明日が待ち遠しく感じながら、病室での最後の一晩を過ごした。

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