絶望の囚人

 墓石の前では桃井さんが手を挙げて、立ち尽くしていた。

 その表情は今にも倒れそうなほど緊張で強張っている。

 墓石の裏で埋められていた封筒を開けるところだった僕とエリーも、手を挙げ、桃井さんの横に並ぶように指示される。

 武装した仮面の四人は少し距離を開けたところでこちらを油断なく観察している。

 ……何なんだこの状況は。

 この世界に来て、ミサイルが落ちたとか、街が焼け野原になったとか、既に僕の理解を超える状況がいくつも発生していた。

 だが、今それ以上に僕の理解を超えた、そして僕たちにとって危機的な状況が訪れている。

 一体何が目的なんだ。

 そう考えたところで、僕は右手に持っている封筒に目をやった。

 連中がわざわざこんな墓地まで来たということは、これが目的だろうか。

 だとしたら、僕はせめて巻き込んでしまった二人だけでも逃さなければならない。

 仮面の一人が胸のポケットからスマホを取り出す。


「ターゲットを見つけました。……はい。生かして連れ帰ります」


 電話をかけた人物は落ち着いた女性の声であり、よく見ると、胸に銀のネックレスが輝いた。

 僕はそれに見覚えがある。つい最近、体育館で神の子の後ろを歩いていた修道女のような女性がつけていたものと同じだ。

 僕は手を挙げたまま、連中に聞こえないように桃井さんへ囁いた。


「僕が合図をしたらエリーといっしょに逃げてください」


 桃井さんは僕の方に目だけを向けて制止してきたが、僕はそれを無視した。

 大人しく捕まってもロクなことにはならない。僕の直感がそう叫んでいた。

 僕の意思を汲み取ってくれたのか、桃井さんは覚悟を決めたように息を吐いた。


「お前ら、抵抗せずにこのまま……」

「今だ!」


 叫ぶと同時、僕は正面の二人組へと突進した。

 強引に二人の服を掴んで押し倒すことに成功する。

 倒された二人は抵抗しようともがいたが、全身の体重をかけて何とかこれを地面に押さえつけた。

 僕が仮面の二人組と地面に倒れている横を、桃井さんがエリーの手を握って駆け抜けていく。

 通路の後ろにいた二人組が事態に気付いて、二人を追いかけようとする。

 僕はこれも阻止しようとしたが、さすがに二人を押さえつけるので精一杯だった。

 桃井さんとエリー、それを追う二人組の後ろ姿が墓石の向こうへと消えていった。

 頼む、逃げ切ってくれ。二人とも。

 僕にはもう祈ることしかできない。

 一瞬、押さえつけている二人組から目を離した隙に全身を駆け抜ける衝撃が走った。暗くなる視界の中で、片方の仮面の人物がスタンガンを取り出しているのが見えた。

 しまった、そう思ったときには僕の意識はもう途切れていた。

 体が鉛のように重い。まるで深海の中を生身でもがき苦しむような、いくら動かそうとしても僕の体は思い通りに動いてはくれない。

 意識が覚醒して、最初に聞いたのは金属が擦れ合う音だった。

 その正体を探るために頭上を見上げると、僕の右腕が壁から生えた錠で縛られていた。さらにその上には小さな小窓がある。正面を見ると、大きな鉄格子が僕をここから逃す気は無いと構えていた。天井に吊るされた小さなランプが揺れる。

 ここは、まるで囚人を捉えるための監獄のようだ。

 だが、どうしてこんなところに。

 まだ重い頭を振りかぶって、僕はここに連れてこられる直前の記憶を辿った。僕をここに連れてきたのは仮面の連中だ。おそらくこの拘束も同じ人物にやられたのだろう。

 そうだ、桃井さんとエリーはどうなったんだろう。

 あたりを見回すと僕の横で何かが動く気配がした。ランプに照らされてその顔が照らし出され、僕は絶望する。


「そんな……」


 そこには桃井さんが僕と同じように手首を吊るされた状態で気を失っていた。

 どうやら逃げ切ることはできなかったみたいだ。僕は自分の詰めの甘さを呪った。

 だが、僕たちが閉じ込められている狭い監獄の中には二人しかいない。

 エリーは逃げ切れたのだろうか。唯一の救いはそれだった。

 状況を確認していると、通路の奥の方からカツカツと鳴らす靴音が僕らの方に近づいて来た。僕の緊張感が一気に高まる。靴音が止まったのはちょうど僕らの檻の目の前だ。

 あらわれたのは、漆黒の衣装に身を包む一人の男。


「神の子に反抗した者を捕らえたと聞いたが、貴様たちか」


 芝居掛かった口調で男は僕たちを見下ろした。

 ランプに照らされた男の瞳にかすかに迷いのような揺らぎが見て取れた。

 桃井さんの話を聞いていたからだろうか、目の前の人物が心に仮面をつけていることを僕は確信した。


「変な演技はやめてよ、秀一」


 僕の言葉に秀一は一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、すぐに大笑いした。それはいつも僕が聞いてきた秀一の声だったけれど、今の僕はその声を聞いても笑えない。

 呼吸が苦しそうになるぐらい笑った秀一はようやく息を整えて僕の方を見た。


「わるいわるい。もうずっと神の子なんて役をやってたからな。もとの喋り方を忘れちまったよ」


 そう笑った顔は、生身の、どこにでもいる普通の高校生の顔だった。秀一の本質は、やっぱり変わってなんていなかったんだ。

 ただ、被る仮面を変えただけ。


「秀一、どうしてこんなことをしたの」

「こんなことっていうのは、こいつのことか」


 秀一はそういうと、後ろ手に持っていた過去日記を持ち上げた。つまらなそうにパラパラとそのページをめくる。


「もとの世界の記憶があるの?」

「いや、記憶にはないが記録にはある。この日記には、中学一年になった頃から今日まで起こった、お前が過ごしてきた世界での出来事が全て記されていた。正直最初は信じられなかったが、それもすぐに信じざるを得なくなった。ここに書かれてることが、そのまま起こってくんだからな」


 僕の予想はやはり正しかったようだ。

 もとの世界の秀一は、過去日記を通して、この世界の秀一へと未来の情報を伝えた。

 淡々と語る秀一に、僕は縋るような思いで、語りかける。


「どうして、こんな世界を創ったんだよ。これが本当に秀一が望んだ世界なの。……ここは、まるで地獄だよ」


 焼け落ちた街。

 空を覆う黒雲。

 ひび割れた道路。

 悲鳴を上げる人々。

 この世界で見てきた光景がまぶたの裏に浮かぶ。


「地獄か。お前にとってはそうなんだろうな。だけど、俺にとっては違う。ここはずっと俺が焦がれた世界なんだ」

「僕には理解できないよ。秀一は何をしたかったの」

「そうだな。なぁ、ヒロ。俺がやったことを話してもいいが、せっかくだ。答え合わせといこうか。俺はこの世界で何をしたと思う?」


 秀一は檻の前に設置されている小さなパイプ椅子に腰を下ろした。

 その瞳は、試すように僕を捉えている。

 秀一がこの世界で行ったこと。これまで見てきた世界の状態からおおよその見当はついている。


「過去日記を使って、中学生の君は未来に起こる出来事を知った。それを天の声だなんて宣って、世界に発生する大きな震災やテロを言い当てた。そうして君は、神の子だなんて虚飾の称号を手にした」

「それで?」

「君は……、父親を殺した」


 この世界に来る前、秀一と父親が墓の前で言い争っている現場を見た。背中を向けた父親に対して、多分僕たちが止めなかったらあのまま秀一は父親を殺していた。そう思わせるぐらい、秀一の瞳には憎悪の炎が燃えていた。

 秀一が僕から過去日記を騙し取ったのはその直後だ。つまり、秀一の目的は父親を……。

 僕の話を秀一は黙って聞いていた。

 秀一はノートに目を落として俯くようにその記述を眺めているようだった。ノートを持つ手に力が入っているのがわかる。

 その瞳が、ここではないどこか遠くに向かって鋭く輝く。


「正解だ。あの日、あいつが墓前に来たとき、俺はあいつをこの世から消すことを胸に誓った」

「どうして、血の繋がった親にそんなことを」

「お前には分かんねぇかもしれないけどな、世の中には血の繋がった親を殺したいほど憎んじまう奴もいるんだよ」

「それは、あの墓で眠っている秀一の実の母親の依子さんに関係があるの」


 その名前を出した瞬間、秀一の全身に見て取れる動揺が現れた。

 やはり、あそこで眠っているのは秀一の実の母親だ。

 秀一は「どうして知ってる」と尋ねてきた。

 僕は錠に繋がれていない左手を使って、ポケットから一枚の写真を取り出す。そこには、和服に身を包んだ男と白無垢に身を包んだ女が写っている。その裏には、二人の名前が刻まれていた。

 秀一は複雑な表情を浮かべて、僕が持つ写真を眺めた。その視線は、写真の女性を一点に見つめていた。その表情は、どこまでも深い悲しみをたたえている。


「なるほどな。お前の言う通り、あそこに眠ってるのは俺の実の母親だ」

「でも、どうしてそれが父親を殺すなんてことに繋がるのさ」

「それを説明するには、少し昔話をしないといけないな。……俺が小学校に入る前か、あの頃はまだ俺たち家族は幸せだった。父は外交官で仕事柄家にいる時間は短かったが、おかげで裕福な家庭だったんだと思う。母はそんな父の帰りをずっと待ちながら、俺を育ててくれた。たまに帰ってきた父と三人で食事をしたあの時間だけは、俺たちは家族だった。だが、そんな時間も長くは続かなかった」


 秀一は語り続ける。


「ある日、俺は家の中で立ち入りが禁止されている父の書斎が気になって入ろうとしたんだ。偶然、その日は鍵もかかってなかった。俺はそこで、普段父が仕事をしている机の中の一通の手紙を見つけた。だがそれは知らない言語で書かれていて、そのときの俺には読めなかったんだ。そのときの俺は、世界を舞台に活躍する父を尊敬していた。それもあって、俺は父の跡を追うべく、外国語の勉強を始めたんだ」


 そういえば、以前秀一が流暢に外国語を話していたのを思い出した。成績優秀な秀一のことだ、そのときは特に疑問も持たなかったけど、普通の高校生と比較するとその技能はやはり突出したものだった。その理由は、父親への憧れだったのだ。


「ワクワクしながら読んだそれは、俺が想像としていたものとは全然違ったよ。それは、父が外交官として飛び回っていたある国の官僚との癒着の記録だった。そこには利権の譲渡、不正な資金の提供なんかの記録があったのさ。俺は絶望した。憧れていた父が、不正に手を染めていたんだからな。そして馬鹿なことに、幼かった俺はそれを母に報告しちまったんだ。母はそれを否定した。だけど、妙な正義感に駆られた俺はある日、父に直談判したんだ。『悪いことはしないで』って。俺の言葉に、父は頷いた。俺はそれで全てがうまくいくと思ったんだ」


 秀一の手から赤いものが伝った。握った拳の爪が柔らかい肉へと深々と突き刺さっている。


「それから父が家に帰ってくることは二度となかった。あいつは母を、俺を、国を捨てて国外へと逃亡した。最初こそ、父の帰りを待っていた母だったが、それはいつしか叶わない夢なのだと理解したようだ。母は俺を責めるようになった。『あんたが余計なことを言ったから、お父さんは帰ってこなくなった』ってな。子どもの正義感でやったことが、こんなことになるなんて思ってなかったんだ。俺は母と話すことができなくなった。そしてある日、家に帰ったら母が首を吊っていたよ。いつもの家に、いつもの部屋に、母が立っているだけだ。それが床から少し浮いてたぐらいで、俺の世界は壊れちまった。……それから、俺は当時家政婦として家で働いていた佳苗さんに引き取られた」


 いつものように淡々と秀一の口から語られるその事実は、あまりにも衝撃的なものだった。

 幼い頃の子供の純粋な心が引き起こした悲劇。憧れの父親の背中を追った結果、母親が自ら命を絶つことになった。幼い秀一にとっては、まるで自分のせいで母親が死んだと思ってしまってもおかしくはない。

 だけど、それは決して秀一のせいなんかじゃないはずだ。それを秀一のせいと断じてしまうのは、あまりにも悲しすぎる。

 僕は、そんな世界は認めたくない。


「なら、秀一はお母さんの復讐のために父親を殺したのか。でも、どうして今になって……。少なくとも僕の目には、佳苗さんと接している秀一は普通の親子に見えた。それを、秀一は自分から壊したっていうの」


 三者面談のとき、文化祭のときに見た秀一と佳苗さんの姿を思い出す。あのときの二人は、血こそ繋がっていないものの確かに”親子”だった。それは間違いない。

 秀一の話によれば、母親が自殺したのはもう十年以上前のことだ。秀一はもう新しい人生を歩んでいるはずだった。


「……あの日。あいつが母さんの墓の前に現れた日さ。あいつはこれまで母さんの墓参りに来たことはなかった。俺はてっきりあいつが地面に頭をこすりつけて、声が枯れるまで謝るのかと思ったんだよ。そしたら俺も許してしまうんじゃないかって少し思っちまった」


 秀一は、愚かな自分を嘲笑する。


「だけどあいつは何て言ったと思う? 母さんの墓を見て、『あぁ、此処にあったのか』だ。あいつは自分が結婚した相手のその墓の場所すら知らなかったんだ。あいつがあそこに来た理由は、俺を駒として、あいつが住む国に呼び寄せるためだけだったんだ。その瞬間、俺はもう何も考えられなくなってた。ヒロが声をかけなかったら、俺は呼吸ができなくなるまであいつの首を絞めて、死んだあいつの顔を原型がわからなくなるまで殴ってたよ」


 秀一の瞳は、あの日と同じように燃えるような憎悪に包まれていた。それはこの世界を焦がしてしまうほどの熱量を持った、そんな憎悪だ。

 聞いているだけでもその絶望が、その怒りが伝播してくるようだ。

 僕がもし秀一の立場だったらどうしただろうか。

 汚職に手を染め、家族を捨てた父親。

 父親が帰らないことを知り、子供を責め、自死した母親。

 あのときの秀一の怒りが、今ようやく理解できた。

 だけど、それでも。


「それでも、秀一がやったことは……、間違ってるよ」


 僕の言葉に、秀一はただ沈黙を貫いた。

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