黒石の真実

 秀一の家から墓地まではかなりの距離がある。本来ならば、僕たちの学校の最寄駅から路面電車で三十分ほどかけて向かう場所だ。だが、今はその路面電車は動いていない。線路が歪んでしまっているためだ。

 目的地の場所を桃井さんに告げると、少し顎に手を当てて考えた後、「じゃ、線路歩こっか! 私一度歩いてみたかったんだよねー」と場にそぐわない呑気な返事が返ってきた。

 僕は呆れたけど、振り返ればこれは僕たちの沈んだ空気を繕うための演技だったのかもしれない。半分ぐらいは本心のような気もするけれど。

 そんなわけで、僕たちはもう電車が走ることはできない線路の上を三人で歩いていた。

 普段は外から眺めている線路の上を歩くというのは、妙な背徳感とともに高揚感を覚えた。

 路面電車の速度は普通の電車よりもかなり遅い。特に景観を重んじるこの街では、穏やかな時間を演出するためか、他のものに比べて一層遅くなっていた。なので、路面電車で三十分は実は一、二時間ほど歩けばたどり着ける。とは言っても、瓦礫などに注意しながらの移動になるので実際はそれ以上かかるだろう。

 ちょうど道のりの半分に差し掛かった頃だった。

 エリーが足をもつれさせ、線路の上に転げそうになったのだ。よく見れば、息も上がっている。


「ごめん、エリー。気付かなかった、少し休もうか」

「だ、だいじょうぶ……」

「エリーちゃん、私も疲れちゃったから少し休んでいかない?」


 強がるエリーだったが、明らかにその顔には疲労の色が見えた。

 エリーは桃井さん、というより僕以外の人に対して人見知りなのか、僕を盾にして後ろに隠れた。だが、後ろで小さく頷いているのはわかった。

 幸い、周囲には広大な田んぼや畑が広がるのみで、目立った危険はなさそうだった。いくつか電柱が変な方向に折れ曲がってはいたが、倒れてくることはなさそうだ。

 僕たちは三人で線路から降りて、近くの座れそうな草むらへと腰を下ろした。

 お昼がまだだったため、遅めの昼食を摂った。学校で出発するときに、白鳥先生から持って行きなさいと渡されたパンはいつもの何倍も美味しく感じる。

 食べ終わってから、足を休めるために僕たちはそのまま少し休んで行くことにした。

 気がつけば、エリーは僕の膝を枕にして小さく寝息を立てていた。余程移動が効いたのだろう。少し寝かせてやろうと、頭を軽く撫でた。


「エリーちゃんって、ヒロ君の妹なの?」

「違いますよ、道すがら偶然出会っただけです」

「そうなんだ。ヒロ君ってもしかしてロリコン?」

「そんなわけないでしょ」


 桃井さんはクスクスと笑って僕をからかった。だけど、僕の上で眠るエリーへと目を向けると、その横顔に影が差した。


「でもこの子は一体何者なんだろうね」

「父親は日本人で、日本に来るのはこれで二回目だそうですけど……、家族はもういないそうです」

「ミサイルに巻き込まれちゃったのかな」

「このタイミングだとそうかもしれませんね。でないとこんな小さな女の子がこんな戦争中みたいな世界を一人で歩いてないですよ」


 穏やかに眠るその小さな肩に一体どれほどの苦悩を抱えているのか、僕にそれを測ることはできない。エリーはなぜ僕についてくることを選んだのだろう。避難所で正蔵さんを待っている方がずっと安全な道だったろうに。

 物思いにふけっていると、突如僕の頭の上に手が置かれた。


「ヒロ君、また難しいことを考えてるね。あんまり一人で背負いすぎない方がいいよ」


 僕の髪をかき分けるように優しく通っていくその手のひらは幼い頃の母のそれを思わせた。同時に僕はものすごく照れくさい気持ちになって、顔に熱がこもる。僕は頭上の手を退けた。


「子ども扱いしないでくださいよ。ところで、そろそろ教えてくれませんか。桃井さんはどうしてここまでついてきてくれるんですか」


 照れを隠すために尋ねた質問だったが、道中ずっと気になっていたことでもある。桃井さんには、桃井さんを信じる学校のみんながいるはずなのだ。それを放り出してまでここにきた理由はきっとある。

 桃井さんは困ったように笑うと少し頭をかいた。


「うーん、しかたないなぁ。ここまでいっしょに旅してきた仲だもんね。旅は道連れ、って言うしね」

「いや道連れにしないでくださいよ」


 僕の軽口に桃井さんは笑う。


「あはは。そうだね、答えは簡単。今の秀一君が気に入らないからだよ」

「それはどういう」

「最初から話さないとね。私と秀一君が小学校の頃、塾でいっしょだったって話はしたでしょ? はじめて塾で秀一君を見たとき、あぁ、この子は私といっしょなんだなって思ったの」

「いっしょって」

「自慢じゃないけど私も秀一君も勉強も運動もできるでしょ? それに人付き合いだって、うまくやってる方だと思う。だからね、どんどん多くの人と接することになるの。そうするとね、気付いたら自分を忘れちゃうんだ。みんなが望む自分でいるために、みんなの理想の自分になるために私も秀一君も仮面を被ってたの」


 そう語る桃井さんの横顔は、どこか寂しげに見えた。

 膝の上で眠るエリーは、まだ小さく寝息を立てている。


「もちろんこれは誰だって同じことが言えるよ。普通の人は誰だって演技なしには生きられない。でも、私と秀一君はそれがちょっと普通の人よりも強かったんだ。私たちは誰とでも仲良くなれるけど、特定の誰かとずっといっしょにいることができない。ある意味、同じ孤独を抱えてたと言ってもいいね」


 桃井さんの言うことは何となく理解できた。僕だって、常にありのままの自分自身を曝け出して生きているわけではない。時には気にくわないことでも笑顔で引き受けて、時にはやりたいことでも苦しい顔で断る。それは、誰にだってある経験のはずだ。

 だけど、それが秀一に当てはまるかと言われると僕はピンとこなかった。少なくとも僕たちと同じ時間を過ごしていた秀一は演技じゃなかったと思う。もしそうなら、僕たちが過ごしてきた時間は一体何だったのか、と虚しくなるじゃないか。

 しかし、現に秀一の隠された心によって、僕は今こんな世界にいることになっているのだ。つまり、僕は秀一のことを真に理解できていなかったのかもしれない。

 桃井さんはカバンから取り出した水を飲むと、話を続けた。


「でね。そんな私たちだからすぐにお互い話すようになったの。取り繕った者同士、波長があったんだろうね、私と秀一君はよく二人で話すようになった。私はその頃が一番楽しかったかもしれない。そして、私が中学に上がって一年経ったとき、秀一君が同じ学校に入ってくるのがすごく楽しみだったんだ。でもね、秀一君は入学式のその日、何があったのかは知らないけれど人が変わったような顔をして、結局次の日から学校には来なかった」

「それは……」


 中学校の入学式、思い当たることといえば過去日記だ。

 きっと秀一は入学式の日、すなわち僕とはじめて出会った日に過去日記を自分の手に渡るように仕組んだのだろう。

 秀一はその時点で、現在までの未来を知り、道を踏み外したんだ。


「学校に来ないだけなら私が遊びに行こうと思ってたんだけどね。でも、そしたら秀一君、神の子なんて訳のわからないものになってるんだもん。ずっと見てきた私だからすぐわかった。秀一君は小学校の時以上に分厚い仮面を被ってる。私たちはそんな取り繕った姿が嫌で仲良くなったはずなのにね」


 その横顔は笑っているはずなのに、僕の胸を締め付ける。

 桃井さんは大きく息を吸った。


「だから私は今の秀一君が気に入らない。そして、その秀一君に体育館で反抗した君なら、もしかして何かを変えてくれるんじゃないかと思って協力してるの」


 桃井さんはまっすぐと僕の瞳を覗き込む。それは偽らざる本心だと思った。

 僕が見てきた桃井さんは、いつもどこかで相手の望む態度を取ろうと演技をしている節があった。文化祭のときも、演劇のときも、この避難所に来てからも。

 それ自体が別に間違っていることではない。

 だけど、同時に彼女の本心が間違っていていいはずもないのだ。

 僕はこの世界の秀一を思い浮かべた。

 黒いベールに身を包んだ秀一。

 やっぱりあれは秀一の本来の姿ではないと思う。僕が知っている秀一はいつも僕たちを振り回して、僕たちを支えて、僕たちと遊ぶ。そんな泥臭い一人の学生だったのだ。

 僕の責任でそんな秀一を変えてしまった。

 僕が、取り戻さなければならない。


「桃井さんの気持ちは理解しました。僕が……、必ず秀一を元に戻してみせます」

「お、かっこいいね。任せたよ、ヒロ君」


 桃井さんは茶化すように笑った。

 話が一区切りついたところで、ちょうどエリーが目を覚まし、僕たちは再び出発することとなった。たっぷりと休息をとったおかげで、エリーは元気いっぱいになったのか、僕たちを先導するようになった。線路の上を揚々と歩くその姿は、まるでピクニックにでも出かけるような雰囲気だ。場違いなその感想に僕は笑っていた。

 そうこうしているうちに僕たちは目的の駅へと到着した。数日前にも見たその駅は、少し煤けて見えた。

 僕たちはさらに駅から山間部の方へと歩を進めた。斜面が急になるにつれて、さすがに三人とも元気がなくなってきてはいたけど、何とか目的地を見つけることできた。

 そこには黒々とした光を反射するいくつもの墓石が立ち並んでいる。


「ようやく着いたね」


 桃井さんの一言に僕たちの緊張も高まっていた。元々、墓地という場所は神妙な空気が流れている場所ではあったが、人っ子一人いない今は、一層その空気が増していた。

 僕たちは立ち並ぶ墓石の前をいくつか進み、一つの墓石の前で止まる。それは数日前、秀一と父親が争っていた場所だ。

 その墓石には立派な字で『月見家之墓』と刻まれている。あのときはその文字すら確認できないほど切羽詰まっていた。

 しかし、ここに眠っているのは一体誰なのだろうか。

 僕がいた世界で少なくとも秀一は数年間、毎年ここにお墓参りに来ていたはずだ。だが、秀一の両親は健在だ。であれば、祖父母だろうか。祖父はこちらの世界で健在だったので、残るは……。

 心臓の高鳴りを感じながら、墓石の側面へとまわり、そこに刻まれている名前を確認する。

 名前はたった一つ。

 その名前を見たとき、僕は心臓が止まるかと思った。


『月見依子』


 それはアルバムに書かれている秀一の母の名前だった。

 僕の頭は混乱する。

 なぜ、ここに秀一の母の名前が書かれているのか。

 だって、秀一の母とは三者面談のときにも文化祭のときにも会っている。数年前から死んでいるなんてことはありえない。記憶の中の秀一の母とアルバムで見た白無垢に包まれたその姿が重なる。

 あれ……? 僕の中に小さな違和感が生まれた。

 隣では、桃井さんが悲しげな瞳を潤ませていた。


「やっぱり、そうだったんだね」


 その瞳からは一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。こぼれ落ちた涙は墓石を伝って、地面へと流れ落ちた。それはまるで、ここに眠っている人が流した涙かのようだ。


「やっぱりって、どういうことですか」


 僕は興奮を抑えきれず、声を荒げていた。


「ここに眠ってるのは、間違いなく秀一君のお母さんだよ」

「そんな……。だって秀一のお母さんはつい一週間前の文化祭のときにも会って……」

「写真をよく見て」


 桃井さんはそういうと、念のために持ってきた秀一の両親の結婚写真を制服のポケットから取り出した。

 そこに写っているのは間違いなく秀一のお母さんで……。


「いや、僕の記憶の秀一のお母さんとはどこか違う……?」

「そう。ヒロ君はあまり女の人の化粧とか興味ないからわからないかもしれないけど、この写真に写っている女の人は、明らかに目元も鼻立ちも私たちの知っている秀一君のお母さんじゃない」


 その写真を見返せば見返すほど、僕の記憶の中の母親の姿とは食い違っている。

 なぜそんなことに気づかなかったのだろうか、と疑問に思うほど、これは明らかに別人だ。


「じゃあ、僕たちが見てきた秀一のお母さんは……」

「実の母親ではないんだろうね」


 全身に衝撃が走った。

 秀一の母親が既に死んでいる……?

 じゃああの日、この墓石の前で言い争っていた秀一とその父親は母親のことで揉めていたのだろうか。秀一のあのときの瞳、あそこに込められた憎悪は今でも忘れられない。ならば、秀一がこの世界でしたことはまさか……。

 僕の中で一つの糸が繋がっていく。

 墓石の裏でエリーが何かを探していた。

 そうだ、この墓に来たのはもともと『おはか うら 10cm』というメッセージを見たからだった。

 僕は頭を切り替えて、墓の裏を注意深く観察する。

 サラサラとした砂で覆われているそこに少しだけ色の違う砂が覆いかぶさっていることに気付いた。

 ここに何かが埋められているのだろうか。

 僕は土を手でどかし始めた。

 これじゃまるで、墓荒らしみたいだ。僕は内心、月見家にお詫びを言った。

 土をかき分けていくと、ふと手に何かが当たる感触がした。それはビニールの感触で、そのままかかっている土をどかして取り上げると、透明なビニールパックの中に一通の手紙が保存されていた。僕はそのパックを開けて、その手紙を取り出すとその封筒には意外な人物の名前が刻まれていた。


『Dear Micheal Walker』


 そこに刻まれていたのはこの世界にミサイルが落ちることとなった原因の人物の名前だった。

 『親愛なるミハエル・ウォーカーへ』と書かれた手紙がなぜ月見家の墓石の裏に眠っているのか。

 僕の頭はさっきからもう情報量が多すぎてパンクしそうだ。

 その封筒に手をかけたとき、墓石の反対側から唐突に金切り声が上がった。


「ヒロ君!」

「動くな!」


 封筒に気を取られていてあたりの注意を怠っていたことに気付いたときには、時すでに遅しだった。

 墓石が立ち並ぶ道の前後を、妙な仮面を被った人物が僕たちを取り囲んでいた。前に二人、後ろに二人、計四人のその人物たちは、手にスタンガンや鉄製のバットを握っていた。

 明らかに友好的な態度ではなさそうだ。

 これ以上ない嫌な予感が、僕の背中を伝った。

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