戦場の医者

 体育館から秀一が去っていった後も、依然僕の身に迫る危機は去ってはくれなかった。

 僕の上にのしかかった男はその力を緩めようとはせず、逆に力を増している。周囲を見回しても、僕に対する好意的な視線は一切ない。


「こいつ、どうする?」

「神の子に対して反抗的な態度をとったんだ。無事に帰すわけにはいかないだろう」


 男が周囲の人間に対して問いかけると、体育館の中は僕の断罪を望むように一気に盛り上がった。

 男はその期待に応えるように僕にかける圧力を徐々に強くしていく。

 全身に痛みが走り、だんだんと呼吸が苦しくなる。意識が飛びそうになったそのとき、その様子を見ていた詩織が男に立ち向かおうとしていた。

 まずい、詩織まで僕と同じ目に遭ってしまう。

 何とか防ごうと声を絞り出そうとしたそのとき――。


「待ちなさい」


 体育館の入り口から鋭く低い声が僕たちの耳へと届いた。

 顔を向けると、そこには白衣に身を包まれた壮年の男性が堂々と立っている。男性の目元には黒縁のメガネがかけられ、その顔は一見して知的なものを感じさせた。

 緊張が高まる状況の中、その人物を見た僕の心は急速に落ち着きを取り戻していた。

 僕の上にのしかかった男や周囲の人たちも一斉にその姿を見る。


「あなたは……」

「私は白鳥学。普段は脳神経外科医として病院に勤めていますが、今は緊急につきこちらの方で診させていただいています。彼を、離してください」


 そう口を開いたのは僕の主治医である白鳥先生だった。

 先生とは僕が病気を発症してから、かれこれ十年来の付き合いとなる。先生は、外科的な側面、また心理カウンセリングの側面からも僕を支えてくれた。自宅よりも病院で過ごす時間の方が長かった僕にとっては、第二の父とも言える存在だ。

 先生の言葉に男は狼狽えた。

 この非常時において、医者という存在は非常に大きいものだ。その言葉を無視することは、誰にもできないだろう。


「だけど、先生。こいつは神の子を……」


 しかし、男もそう簡単には折れない。

 それほどまでに男は、神の子に対して心酔しているようだった。まるで教祖を崇める狂信者のようなその眼差しに、僕は恐怖を覚える。

 先生はその男の視線を正面から受けても、怯むことなく論理を並べた。


「言い忘れましたが、その子は私の患者なのです。その子は脳に大きな障害を持っていて、記憶が数日程度しか持たないのです」

「こいつが病気……?」


 悟すように告げる先生の言葉に男の拘束する力が緩んだ。男は訝しむように僕の顔をまじまじと見つめる。

 僕は、自分の病気を大勢の前で告げられることに複雑な心境を抱いた。

 しかし、それを告げないといけないほど事態は逼迫していたのだろう。

 それに、僕の病気は過去のものだ。

 先生を責めることはできない。


「えぇ。幼い頃からのね。あなたたちの信じる神の子とは、そんな不幸な少年を痛みつけることをお望みなのですか」


 男はハッとしたように僕の拘束を解いた。

 久しぶりに肺の奥へと空気が行き渡る。押さえつける圧力がなくなり、僕はようやく立ち上がることができた。

 先生は安堵したように少しだけ笑みを見せる。


「行こうか、ヒロ。それに高島さんも」


 僕は男たちの気が変わらないうちに素早く先生の後ろをついていき、体育館を後にした。詩織も呆けたようにその一幕を見ていたが、すぐに後をついてきた。

 先生に連れられてきた先は、薬品の匂いが強く漂う保健室だった。机の上には包帯や薬の類が所狭しと並べられている。設置されているベッドのシーツには、さっきまで誰かがいたのだろうか、使用感が残っている。

 保健室に来る途中に詩織は家族から声をかけられ、一度離れることとなった。詩織は名残惜しそうにしていたが、僕は心配ないと言ってその場を離れた。

 よって、今保健室にいるのは僕と先生、二人だけだ。

 あれ、僕は何かを忘れてるような……。そう思ったが、頭の中に靄がかかったようにその何かを思い出せない。

 先生は保健室の教員用の椅子に座り、僕を目の前に置かれている丸椅子に座るよう促す。


「今は私がこの部屋を借りて、患者を診ているんだ。専門は脳外科なんだけどね。どうも人手が足りないみたいで。そんなことより、君が無事でよかったよ」


 先生は朗らかな笑顔を見せた。

 それは僕が何年もずっと見てきた表情で、その顔を見るたびに僕は元気づけられていた。


「さっきは、ありがとうございました。先生がいなかったら危ないところでした」

「神の子に楯突いたんだってね。あそこの信者は彼を心酔しきっているみたいだからね。迂闊なことは避けた方がいい」

「みたいですね。先生の機転で助かりました」

「機転……?」


 先生は不思議そうな顔を浮かべる。


「いや、僕に記憶の障害があるって。だって、それは小学校までの話ですよね」

「ヒロ、何を言って……」


 言い淀む先生に、僕は何だか嫌な予感がした。

 その予感は急速に全身を駆け巡り、それを先生が口にした。


「いや、すまない。ヒロ、落ち着いて聞くんだ。君の脳への障害は確かに小学校の高学年へと上がるにつれて症状は軽減してきた。だけど、中学校に上がった頃から再び記憶障害が出始めたんだ。以前ほどではないが、それでも君は今も数日の間に、記憶を失ってしまうんだよ。だが、安心してほしい。君は私が必ず治すから」


 淡々と説明する先生の話を、僕の脳は処理しきれていなかった。

 僕の記憶障害が完治していない?

 そんな馬鹿な。だって、僕は中学校に上がる頃にはもう治っていたはずなのだ。高校に入ってからもその症状は起きていない。

 だから、僕はもう病気と無関係なはずなのだ。

 しかし、目の前にいる先生が嘘をついているとは思えない。僕をなるべく傷つけないようにと選んだ言葉、穏やかな口調、そのどれもが先生の言葉が真実であることを裏付けていた。

 まさか。この世界の僕は病気が完治していないのだろうか。

 だとしたら原因は一体何だというのか。

 先生は言った。小学校の高学年へと上がるにつれて、僕の病気は良くなったと。これは僕の記憶通りだ。

 そして、中学に上がった頃から再び記憶障害が出始めたと。これが僕の記憶と食い違っている。中学に入ったときに起きた出来事に思いを馳せる。

 すると、一つの可能性が思い浮かんだ。


「日記……」

「え?」

「先生、僕が書いていた日記のこと覚えてますか」

「あぁ、ヒロが入院中毎日書いていた日記のことかい。覚えているよ。でも中学に上がってからは日記は書いていないだろう?」


 頭を殴られるような衝撃が走った。

 僕は確かに、十年前に千鶴にもらった日から、日記を毎日書いていたはずだ。

 それはもとの世界でも、僕が最初に書き換えた世界でも、詩織が書き換えた世界でもそうだった。

 だが、この世界では僕の手元にその日記はない。

 おそらく秀一が、未来を知るために僕の日記を自分の手元に渡るように仕組んだのだ。そして、秀一に日記を渡してしまった僕は、どうやら日記を書くことを辞めてしまったらしい。

 日記を書かないことによって、僕の病気が再び悪化したのだろうか。

 考えづらいことではあるが、僕の病気が再発し始めたのは、僕が日記を書かなくなった頃と一致している。

 だけど、ここにいる僕は、ここに来る前の世界の中学からの記憶を持っている。

 ならば、僕は今果たして病気を患っていると言えるのだろうか。

 その答えはいくら考えても思いつかない。だが、僕はもう一つの重大な事実に気づいた。

 そうだ、日記。

 僕は自分の手元に日記がないことで、最悪の場合、ミサイルによって日記が消失していたのではないかと考えていた。

 だけど、本当の最悪の事態は免れたようだ。それは、秀一が持っていたから間違いない。

 つまり、秀一から日記を取り返すことさえできれば、僕はこの狂った世界から抜け出すことができるのだ。そうすれば、僕の病気に関する悩みもまとめて解決できる。

 問題はどうやって秀一から日記を取り返すかだ。

 馬鹿正直に正面から行っても素直に日記を返してくれるとは思えない。それに、さっきのように信者に抑えられてしまうのがオチだ。

 そもそも秀一は、この世界で一体何をしようとしているのだろうか。


「先生、秀一は……、神の子がどこに向かったかわかりますか」

「さあ、私は彼とは面識がないから何とも。神の子は神出鬼没で大きな災厄が世界に訪れるときにのみ、姿を公に現しているみたいだからね。彼の目的も私には見当がつかないよ」

「そうですか……」


 どうすれば秀一の足取りを追えるのだろうか、そう考えたときに一人の初老の女性が思い浮かんだ。


「そうだ、この学校の避難民の中に月見という姓の方はいますか」


 秀一が何をしようとしているのか、もしかしたら秀一の母なら知っているかもしれない。その手がかりに僕は望みを託す。

 先生は近くに置いてあった分厚いファイルを手に取ると、パラパラと何枚も紙をめくり始めた。それはどうやら避難所にやって来た人たちの名簿のようである。

 期待を込めて待つが、少しして、先生は首を横に振った。

 どうやら秀一の母はここにはきていないようだ。

 それならば、別の避難所、もしくはまだ家にいるのだろうか。

 僕が独り思考の海にふけっているとと、突然、保健室の扉が勢いよく開いた。

 扉に手を伸ばしながら僕の方を見つめるのは、見覚えのある一人の女子高生だ。


「困ってるみたいだね、君。お姉さんが助けてあげよっか」

「生徒会長……」


 そこに立っていたのは、我が校が誇る生徒会長、桃井雪音だ。桃井さんは得意げに胸を張ると、僕の方へと近づいてきた。


「秀一君の家に用があるんでしょ? 私が連れて行ってあげるよ」

「秀一の家の場所を知っているんですか?」


 僕は秀一の家の場所を知らなかった。

 おそらく僕だけでなく、詩織や千鶴もその場所は知らないだろう。僕たちが四人で遊ぶとき、秀一は自分の家に来ることを頑なに拒んでいたからだ。

 僕たちでさえ知らない情報を、学年も違う桃井さんが知っているのだろうか。

 そう疑問に思ったが桃井さんはあっさりと首肯する。


「知ってるよ。私は小学校の頃、塾で秀一君と同じクラスだったから。そのときに、ね」


 僕はふと文化祭の出来事を思い出していた。

 そういえば、文化祭で僕のクラスに起きた事件は秀一が意図的に起こしたものだったけれど、あれは桃井さんとの連携なくしてはできないものだった。

 どうして、秀一が桃井さんと滑らかに連携を取ることができたかは疑問だったが、思わぬところで、その答えを知ることとなった。

 僕たちと秀一が出会うよりも前から、秀一と桃井さんは通じていたのだ。


「ところで君、名前は?」


 桃井さんは首を傾げて尋ねてくる。

 そういえば、この世界では僕は桃井さんと初対面になるのか。


「八坂です。八坂ひろって言います」

「ヒロ君ね、オッケー。私のことは桃井でいいよ。なんなら雪音でもいいよ」

「さすがにそれは遠慮しておきます。じゃあ桃井さんで」


 いつかの文化祭準備での一幕を思い出すそのやりとりに僕は複雑な気持ちになっていた。

 桃井さんはそんなことお構い無しに僕の手を取って、友好の握手を交わしている。


「ところで、どうして僕を手助けしてくれるんですか。僕たち初対面ですよね?」

「うーん。それはね……、秘密。とにかく私が秀一君の家まで連れて行ってあげるから安心しなさい」

「いや、秘密って」


 僕が食い下がろうとすると、生徒会長の背後にまた別の人物の気配がした。


「あたしもいっしょにいく!」


 太陽のような流れる美しい金髪を携えた少女が保健室の入り口に立っていた。

 その姿を見た僕は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。

 それは、間違いなくエリーだった。

 体育館へ神の子とやらを探るときに、僕とはぐれてしまっていたのだろう。

 だけど、問題はそこではない。

 僕は、今の今まで完全にエリーのことを”忘れて”いたのだった。

 まるで記憶から消去されたようなその感覚に、僕は覚えがある。

 これは、まさか。

 いや、と僕は首を振って、冷静にエリーに声をかける。


「エリー、今までどこに?」

「じえーたい? の人におじいちゃんをたすけてってつたえてきたの」

「そっか、ごめん。本当は僕が言うべきだったのに」


 元々僕とエリーがこの避難所にやってきたのは食糧難の問題に陥った正蔵さんの救助を依頼するためだった。すっかり忘れてしまっていた目的をエリーが代わりに果たしてくれていたことに僕は申し訳なく思った。


「それで、エリー。ついて来るって。外は危険だから、エリーはこの避難所で待っていた方が……」

「いや。あたしもいく」


 せっかく避難所までやって来れたのだ。十分ではないかもしれないが、配給もありそうだし、とりあえず急場を凌ぐことはできそうだ。だから、エリーにはここに残っていてほしいのだが、エリーからは絶対について来るという意思を感じる。それが、どこから来るものかは推し量ることができない。一人ここに残ることに不安がるのだろうか、それとも何か別の理由があるのだろうか。

 引き下がる気配のないエリーに先に折れてしまったのは僕だった。


「わかったよ。でも僕の側を離れないこと、いいね?」

「うん」


 エリーは僕が渋々認めると、納得したように首を縦に振った。

 その様子を黙って見ていた先生が手を叩いた。


「話がまとまったみたいだね。今日はもう遅いからこの保健室で休むといい。他の場所よりはきっと快適に眠れるだろう」

「先生、それ職権乱用じゃ……」

「なに、ヒロは僕の患者だからね。問題ないさ。みんなは付き添いということで」


 桃井さんが困ったように指摘すると、先生は笑ってそれに答えた。

 先生はそれだけ言うと、他の患者を診に行くからといって保健室を出て行った。

 僕たちはどっと一日の疲れがやってきたこともあって、保健室に先生が置いて行った簡単な食事を摂り、その後すぐにベッドで眠った。二つあるベッドのうち、僕と桃井さんは当然別々のベッドで眠ることとなり、エリーには桃井さんといっしょに寝ることを勧めたが、どうも渋ったので、結局昨日と同じく僕と同じベッドで眠ることとなった。

 僕は今日一日の出来事を頭の中で振り返っていた。

 何度も出て来るのは、変貌してしまった秀一の姿だ。

 秀一が何をしようとしているのか、何をしたくて、こんな世界を創ったのかは分からない。

 だけど、僕は必ず秀一から過去日記を取り返して、もとの世界に帰らなければならない。そのためにも、明日は秀一の行き先の手がかりを掴まなければ。

 思考の整理が一区切りついたところで、僕は眠りへと落ちた。

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