神託の御子

 七月十九日。

 背中を掴む小さな感触で僕は目を覚ました。

 あたりを見回すとそこはいつもの僕の自室ではなく、小さな木造の小屋だった。すぐ隣では、金髪の少女がスヤスヤと寝息を立てている。

 夢、なんてことはないよな。昨日あった出来事が全部夢で、目が覚めたら全てが元どおり、なんて都合のいいことは起きない。

 僕は布団から出ようとしたが、背中を引っ張られる感触に、もう少しだけこのままでいることにした。

 それから数分後、エリーが目を覚ました。それと同時にソファから正蔵さんが起き上がる気配がした。

 僕たちは朝食のために揃ってテーブルへとつく。僕は遠慮したけれど、正蔵さんの強い意志によって、残り少ない食料の中から多めの朝食をいただいた。

 朝食の後、僕たちはすぐに小屋を後にした。

 朝の日差しが強いためか、昨日よりは太陽の光を浴びることができた。とは言っても空を漂う黒雲は健在であり、未だそれが晴れることはない。

 僕はエリーの手を握り、道路を歩き始めた。

 昨日は暗くてよく見えなかったけど、小屋から離れると道路の至る所にひび割れが生じていた。陥没した道路からは濁流のような水が噴き出し、異臭を放っている。

 少し歩いたところで、昨日僕とエリーがはじめて出会った場所へとたどり着いた。

 美しい水が流れ、青々しい自然に囲まれたデルタと呼ばれるその場所は見る影もない。水は黒く濁り、川には建築物の残骸がいくつも漂っている。周囲を取り囲む木々は黒く変色し、昨日僕たちに倒れてきた木と同じように乱雑に横倒しとなっていた。

 昔遊んでいた場所とは思えないその光景に、思わずため息が出る。


「そういえばエリーはどうして昨日こんな場所にいたの?」

「おじいちゃんが歩けないから、ごはんをさがしてたの。そうしたら、川のまんなかで人がいたから」

「そっか。まだちゃんとお礼を言えてなかったけど、ありがとう」

「うん!」


 エリーが一歩踏み出そうとしたところだった。

 後ろから微かに物音がした。

 振り返ると、道路の脇に立っていた電柱が、コンクリートの地面をめくり上げ、倒れようとしているところだった。

 僕は反射的にエリーの全身に覆いかぶさるように電柱の倒れる方向から逃げるように飛んだ。

 直後、途轍もない衝撃音と爆風が僕たちを襲う。

 それと同時に僕の右上腕部に鈍い痛みを感じた。しかし、とてもじゃないがそれを目視する余裕はない。

 僕は腕の中で縮こまるエリーに傷がつかないように強くその小さな体を抱き締めた。衝撃が収まってからも僕は周囲を警戒して、そのままの体勢でいた。

 舞い上がる粉塵が落ち着いてからようやく、腕をほどきエリーとともに立ち上がる。


「エリー、怪我はない?」

「あたしはだいじょうぶ……って、うで!」


 僕はそのときになってはじめて自分の右腕を見た。

 上腕部のシャツが裂け、真っ白だったシャツが黒々とした紅に染まっている。電柱の破片でも掠めたのだろう。その傷跡からは真っ赤な血肉が露出していた。

 溢れる血を見た瞬間、僕の頭がくらっとする。思わず地面に倒れそうになったが、何とか膝をついて持ちこたえた。

 ここで倒れるわけにはいかない。

 慌てふためくエリーが、何かを思いついたように背負っていたカバンからタオルを取り出した。エリーは何も言わずに、タオルを傷口に当て、思いっきり縛る。

 全身に失神しそうなほどの痛みが走ったが、何とか意識を保ったまま血が収まるのを感じた。


「助かったよ」

「もう、だいじょうぶ?」

「うん、大丈夫だよ」


 エリーは何度も右腕を見ては、大丈夫かと確認してくる。その言動が見た目以上に子供っぽくて、少しだけ右腕の痛みが和らいだ。

 止血が済み、改めてあたりを見回すと、倒れてきた電柱とそれに接続されている電線が無造作に橋の上に倒れていた。電気が流れているかも怪しいが、さすがにその道を進むことはできない。


「この橋は使えないな。何本か向こうの橋で渡れるか確かめよう」


 一歩踏み出そうとしたとき、左手を掴む小さな感触があった。その手を握る強さはさっきまでよりも強い。

 応えるように僕も少しだけ力強く、その小さな右手を握り返す。


「あの、ありがと」

「これでおあいこだね」


 僕たちは再び歩み始めたのだった。

 やはり最短での移動は道路の状態から難しく、何度も迂回をさせられることとなった。

 崩れ落ちそうな家屋に挟まれた道は選ばず、落下の危険がない見晴らしのいい道を選ぶ。

 その甲斐もあってか、最初の橋からは比較的安全に移動することができた。

 途中何度か僕の腕のタオルを締め直したり、エリーの足を休ませるため安全な場所で休んだりしたこともあって、学校が見えてきたのは小屋を出発しておおよそ二時間経った後だった。

 学校に近づくにつれて、僕はようやくこの世界でエリーと正蔵さん以外の人の声を耳にした。

 校門の前に立つと、大勢の人々が慌ただしく校庭を駆け回っていた。怒号のような声があちこちで飛び交い、周囲には妙な異臭が漂う。

 普段は高校生と一部の大人しか入れない学校だが、今はそれ以外の人の方が多い。

 校舎の入り口付近に設置してあるテントでは、迷彩服を着た屈強そうな男たちが、配給を作っている。その列に並ぶ多くは、一家共々避難してきたのであろう家族世帯が多い。

 別の方に目をやると、見たことのない直方体の箱が数個並べて設置されており、その前を老若男女問わず、列ができている。おそらく、仮設トイレだろう。

 それ以外にも、担架の上に倒れた人を忙しなく運ぶ人々、校庭に力なくうなだれる人々、何かに祈りを捧げている人々など多種多様だ。

 エリーはその惨状に声も出せず、ただ顔を引きつらせていた。


「これはまるで……」


 震災のときみたいだ、と思った。

 僕がまだ小さい頃に起きた大震災。数万人もの死者を発生させたその未曾有の災害は連日に渡って報道され続けた。その中で見た風景が、今ちょうど僕の目の前に広がっているそれと重なった。

 だけど、そのときと違うのはこの状況を生み出したのが自然ではなく、人の手だということだ。人の掌握下にない自然災害は、ある意味では被害が出るのもしかたのないものだと言える。だが、今目の前で起こっているのは、人同士の争いの結果なのだ。人同士の醜い行為の結果が、この惨状だ。

 ここに来てはじめて、戸惑いではなく、この惨状に対する怒りが芽生え始めた。

 そして、それを生み出したであろう僕の親友に対しても。

 思わず握っていた手に力が入る。

 僕は心を落ち着かせ、まずはここに来た目的を果たすことにする。


「とりあえず、ここを管理している人に正蔵さんのことを伝えに行こうか」

「うん」


 校舎の入り口付近に設置されてあるテントに向けて一歩踏み出そうとしたが、不意に僕を呼ぶ声が聞こえて、その足を止める。


「ヒロ?」


 声の主の方に顔を向けると、そこに立っていたのは詩織だった。

 詩織の制服には至る所にほつれや小さな破れが見られた。それでも、詩織自身に目立つような傷はなさそうだ。

 詩織は呆然として僕の顔を見たかと思えば、すぐに僕に向かって抱きついてきた。


「ヒロ! やっぱりヒロだ。昨日急にいなくなっちゃったからみんな心配してたんだよ……。一晩経っても帰ってこないし、何かあったんじゃないかって、私……」


 僕の胸にうずくまった詩織から暖かいものを感じた。

 僕は右腕の痛みを堪えて、その頭に空いている左手を回した。その髪に触れると、詩織は安心したようにまた涙を流し始めた。

 ようやくそのすすり泣く声が止み、僕と詩織は向かい合った。


「詩織、無事でよかったよ」

「それはこっちのセリフだよ。外は危ないんだから、本当に心配してたんだよ」

「ごめんごめん」


 一しきりお互いの無事を喜び合ったところで、僕は状況の確認をする。


「詩織、今ここはどうなってるの?」

「どうなってるの、って。ヒロ、昨日までここに……。そっか、また忘れちゃったんだね」

「え?」

「私たちは十日前にミサイルが落とされてからずっとここに避難してたんだよ。昨日、ヒロが急にいなくなって、私もヒロの両親もクラスのみんなも心配してたんだから」


 途中、詩織の言葉に引っかかるものを覚えた。

 また忘れた、とはどういう意味だろう。

 しかしそれ以上に、僕の関心を引き寄せたものがある。クラスのみんなという言葉を聞いたときに僕は反射的に一人の顔を思い浮かべていた。


「そうだ。秀一はどこにいる? 秀一もここに避難してるの?」


 早口にまくし立てる僕に詩織は困惑した表情を浮かべる。


「秀一って誰……?」


 詩織は僕の言っている意味がわからないというようにきょとんとした顔で僕を見上げた。その表情からは嘘や冗談を言っているような雰囲気は感じられない。

 僕は混乱していた。詩織が秀一を知らないわけがない。僕たちは今日まで四人で同じ時間を過ごしてきたのだから。


「いや、秀一だよ。僕たちと中学からずっといっしょにいた」

「……もしかして”神の子”のことを言ってるの?」

「は?」


 詩織から突然飛び出した訳の分からない単語に僕は素っ頓狂な声を上げていた。

 それとちょうど同時に体育館の方から男の叫び声が上がった。


「神の子がご到着されたぞ! 我らの行く末を説いてくださるそうだ!」


 男が叫び声を上げた途端、周囲の空気が一変したのがわかった。

 配給やトイレの列に並んでいた人々のほとんどが、列を放棄して体育館の方へとなだれ込んでいく。担架で運ばれていた負傷者さえも目の色を変えて、足を引きずりながら体育館に向かっていた。

 その異様な光景に僕は本能的な恐怖を覚えた。まるで一本の蜘蛛の糸に群がるような人々の行動には狂気すら感じる。

 唯一の救いだったのは目の前の詩織は、その集団とは異なり、正気を保っていたことだ。

 そうだ、詩織。

 詩織はさっき秀一のことを尋ねたときに”神の子”と言った。

 もしかして、その”神の子”とやらと秀一は何か関係があるのだろうか。

 それを探るため、僕はその人の波に乗じることを決めた。


「詩織、僕たちも行こう」

「え、うん。良いけど……」


 詩織が何かを言おうとしていたが、僕の頭はその手がかりに夢中になっていた。

 人々の群れに乗じて、僕たちも体育館の中へとなだれ込む。

 体育館の中には、再び奇妙な状況が起きていた。

 体育館はおそらく避難民たちが寝泊まりするためのスペースとして提供されていたのだろう。その証拠に簡単な段ボールで区切られた個室のような空間に毛布が散らばっていた。避難民の多さから所狭しと個室が作られている。

 だが、今、ちょうど体育館の中央に道を作るようにその個室が移動させられているのだ。まるでモーセが割ったという海のように、体育館の入り口から壇上へと続く直線の道が出来上がっていく。

 その中央には三人の人物がゆっくりと歩みを進めていた。

 一人が中央を進み、両脇の二人は一歩遅れるようにそれに追随する。

 両脇の二人は教会のシスターのような修道服を身にまとい、頭からは黒いベールが覆いかぶさっていて、その表情は見えない。首からは銀色のネックレスが照明を浴びて、眩しく輝いている。

 二人のシスターを引き連れるように歩いているのが中央の人物だ。その服装は歴史の教科書に載っている宣教師のような漆黒を思わせる。この場を支配するその人物の歩みに一切の緊張は見られず、悠然と自分のために作られた道を進んでいく。

 体育館中の人々がその姿を黙って見つめていた。中には崩れ落ちて、涙を流しているものすらいた。さっきまでの外の喧騒が嘘のようだ。

 三人が壇上へと続く階段を登り、こちらを振り返った。


「そんな……」


 その中央に立っているのは、一人の少年。

 髪は整えられ、妙に血色の良いその顔は、しかし見間違うはずもない。

 僕の親友の、秀一だった。

 漆黒に包まれた秀一の姿を目にしても、僕は自分の目の前で起きていることが理解できなかった。だって、秀一は確かに頭は良いし、運動もできるけど、僕たちといっしょに中学に入学したただの学生だ。それがなぜ、体育館中の人々の視線を集めているのか。なぜ、神の子などと呼ばれているのか。

 秀一は体育館を一望するとその口を開いた。


「聴け! 傷ついた民達よ!」


 体育館中に響き渡るその声に、人々は一斉に床へと平伏した。何が起きたか分からず、立ち尽くしていた僕を隣にいた詩織が引っ張って、僕も他の人と同じような体勢をとった。

 何だこれは。自分は中世の王の謁見の間にでも来てしまったのだろうか。

 そう錯覚してしまうほどに、時代錯誤なその光景は異様なものだった。


「私はこれまで天の声を地上に伝える使徒として、あらゆる災厄から世界を守ってきた。此度、我々の地に鉄の塊を落とした彼の国も、その例外ではない。しかし、彼らはその恩恵を忘れ、利己的な主張を行い、我々に対して災厄をもたらした。これは断じて許されることではない。私は彼らを蔑如する」


 人々はその言葉の一言一句を聞き逃さないように、音を立てれば首を刎ねられるのではないかと思うほどの静寂を作り出す。

 その声は、その姿は、どこまでいっても秀一だった。

 秀一の姿をした何かから、僕の理解できない言葉が発せられていた。”天の声を伝える使徒”、”あらゆる災厄から世界を守ってきた”。

 とてもじゃないが正気とは思えない。

 僕は隣の詩織と体を密着させ、他の人間に聞かれないように詩織に囁いた。


「神の子、って何なの?」


 腕も頭も密着しているせいか、詩織の顔がみるみる赤く染まっていくが、今はそんなことを気にしていられない。

 詩織は呼吸を落ち着かせると、小さな声で語り始めた。


「神の子は、数年前から世界に起こる主要な災害を予知して、それを未然に防いだんだよ」

「災害を予知?」

「うん。日本だと東で起きた大地震とか。当時は誰も予想していなかったほどの大きな地震を、神の子はそれが発生する日時まで詳細に言い当てたの。日本だけじゃなくて、別の国の大規模なハリケーンやテロなんかも予知したらしいよ」

「そんなバカな」

「始めは誰も信じなかったんだけどね。でも、次々と言い当てるその予知を次第に街が、国が、世界が無視できなくなっていったの」


 詩織は真剣な表情で語り続ける。

 災害を予知だって。そんなことができるはず……。

 その瞬間、僕の頭にいつかの光景が走った。

 僕が、秀一と詩織と三人で話していたときだ。僕はその不思議な力を使って、過去の時点から未来を予知することで、二人にその存在を信じさせようと提案したことがあった。

 過去日記。


「ヒロ……?」


 僕のおかしな様子に詩織が心配そうに覗き込んでくる。だが、それに反応を返すほどの余裕は今の僕にはない。僕の頭は、かつてないほど熱を持って、思考を加速させた。

 もとの世界の秀一は、過去日記を使った。

 この世界の秀一は、未来を予知したという。

 この二つの事実から導き出される答えは一つだ。

 秀一は、過去日記を使って未来の出来事を過去の秀一に伝えたのだ。それを天の声と称し、秀一はこの世界で神を気取っている。

 僕が思考を続けている間も秀一は人々に向かって話を続けている。不意に秀一が左手から何かを取り出した。


「何一つ、案ずることはない。未来は全て、此処に記されている」


 秀一が掲げたそれは、過去日記だった。

 そうか、秀一が持っていたのか。

 つまり秀一は未来の出来事を過去日記に記して、それを僕から自分に手渡すように書き換えたのだ。

 秀一が書き換えた過去と現在が一本の線のように繋がっていく。

 秀一が行ってきたことを理解した僕は、体育館の中で一人立ち上がっていた。詩織に服を掴まれたが、今の僕はそんな力では止められない。

 立ち上がったところで、体育館中の視線が僕に突き刺さった。

 正面からは秀一の鋭い視線が僕に突き刺さる。僕と秀一の目線が交差した。


「ふざけるな! 何が神の子だ。こんな悲惨な世界を創ったのは君じゃないか! 君は過去日記で――」


 その言葉を最後まで発することはできなかった。

 なぜなら近くにいた大男に僕の身柄は取り押さえられていたからだ。

 乱暴に地面に叩きつけられて、一瞬息ができなくなる。衝撃で傷口が開いてしまったのか、右腕に激痛を感じる。

 男は血相を変えて、割れんばかりの声量で僕を罵倒した。


「お前、何て無礼な! 神の子の言葉を疑うのか! 俺の息子夫婦はあの方の予言のおかげで命を救われたんだぞ! 俺だけじゃない、ここにいるもののほとんどがそうだ」


 僕の上にのしかかる男はより一層拘束する力を強める。

 とてもじゃないが解けそうになく、僕はうめき声をあげてしまうだけだ。

 地面に伏せられた僕が顔だけをあげると、その様子を壇上の秀一は、哀れなものを見るような目で見下ろしてきた。

 秀一は僕から視線を外すと、僕がいる方向とは別の体育館の出口へと歩みを進めようとする。


「待て秀一! 何でこんな……」


 絞り出すような声も、今の秀一には届かない。

 秀一はそのまま僕の目の前から姿を消してしまった。

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