焦がれた世界

冒涜の親子

 七月十七日。

 詩織が過去日記を使って起こした騒動が明けた翌日。

 いつものように朝のニュースをチェックする。千鶴が殺されて最初の一週間こそ様々な特集が組まれていたものの、十日も事件に進展がないと世間はだんだん関心を失っていた。

 今世間が関心を示しているのは、日本近海に落ちたミサイルだ。どうやら隣国であるA国の実験中に予期せぬ事故が起こったらしい。幸いにも人的被害や大きな環境汚染はなかったもののA国との関係が一気に緊張状態となった。

 だが、僕はどうもそれを他人事のように感じていた。それよりも千鶴の事件に進展がないことの方が、僕にとっては大問題だ。

 文化祭も終わって、夏休みを目前に控えた教室は浮き足立っていた。クラスメイトたちは、授業が終わるのを今か今かと待っている。彼らはきっと夏休みに遊びに行く場所でも考えながら、その光景に思いを馳せているのだろう。

 放課後、久しぶりに僕と秀一、詩織の三人で教室に集まった。久しぶり、と言っても実際には詩織が過去日記を使った日以来だから一週間しか経っていないのだけど、僕は一ヶ月ぶりぐらいに顔を合わせたような気分だった。

 いつものように、秀一が切り出す。


「さて、それじゃあ桜木を助けるための作戦会議だが」

「その前に一ついい? 僕はこの一週間、詩織が過去日記を使って書き換えた世界にいたんだ。だから、この世界で僕たちが何をしていたのかを、はじめに共有しておきたい」


 これまでの経験から、過去日記を使ったとき、どうやら僕の意識は二つに別れるみたいだ。もとの世界に残り続ける僕の意識と、過去改変によって創り出される世界に飛ぶ僕の意識だ。過去日記で変えた過去をもとに戻したとき、前者の僕の記憶は引き継がれない。


「うぅ……、ごめん、ヒロ」

「いや、詩織が悪いんじゃないって」


 この調子で詩織は昨日からずっと僕に対して申し訳なさそうな顔をする。確かに詩織のしたことは、千鶴を助けるための遅延になってしまったかもしれない。だけど、詩織が過去日記を使ったのはまさにその千鶴を助けるためだったのだ。だから、その件はもうそれ以上追求する気はない。

 秀一はこの一週間で行なった調査を要約してくれた。

 この一週間、この世界の僕たちが主に取り組んだのは、事件の資料集めだ。テレビや新聞で報道されている事件の情報の確認。だが、集めた情報の中で、僕たちがまだ知らない情報は特になかった。また、直接現場の調査にも向かおうとしたが、まだ関係者以外立入禁止で入れなかったそうだ。

 共有が済んだところで、僕は少し肩を落とした。


「じゃあ、特に新しい情報はないってことでいいんだよね」

「あぁ。だが、まさか俺たちの中に重要なヒントを持ってる奴がいたとはな。詩織」


 秀一は詩織の方へと顔を向けた。

 詩織が事件当日に千鶴に会っていたという事実は秀一に話してある。


「うん、ごめんね。本当は一週間前に言おうと思ってたんだけど、二人が園田先生に呼び出されて、帰ってきたらヒロの調子が変だったから言い出せなかったの」

「僕の調子が変?」

「うん、ヒロ、何かぼーっとしてたよ。だから、私体調が悪いのかなって」


 それは初耳だった。

 過去日記を使った影響による何かなのだろうか。

 いくら考えてもその記憶を持っていない僕にはそれ以上考えが及ぶことはない。


「それは一旦置いといて。詩織は事件が起こる数時間前に事件現場近くの喫茶店で桜木と会っていたんだな?」

「うん。そこでちーちゃんとケンカ……じゃないんだけど、少し言い合いになって私が先に帰っちゃったの。私が帰り際にちらっと喫茶店の中を見たときは、ちーちゃんはまだ帰る感じじゃなかった」

「まぁ、気まずくなった詩織と遭遇しないように少し時間を空けたんだろうな。だけど、その喫茶店から出たところを桜木は通り魔に殺された、と」


 詩織はやりきれないような表情を浮かべる。

 僕たちは自分たちが持っている情報を再確認しながら、千鶴が殺された原因とその回避策を考える。


「なぁ、ヒロ。まだ一つ重大な情報があるよな?」

「重大な情報って?」

「ヒロはこの一週間、詩織が書き換えた世界で過ごしてきたんだろ。その世界だと、俺たちと詩織は友達じゃないんだよな。だが、桜木は殺されていた、と」


 そうだ。

 詩織は過去日記を使って僕たちとの繋がりを断つことにより、事件当日、千鶴が現場付近に向かわないように過去を書き換えたはずだ。

 にも関わらず、向こうの世界でも事件は起こった。しかも、同じ時間、同じ場所で。

 それが意味するところは、すなわち。


「そう。つまり、あの日、詩織とカフェで会おうが会うまいが桜木は殺されていたってことだ。これから考えられることは」


 秀一が言葉を紡ぐ瞬間だった。

 教室内に突然、ピアノの音が鳴り響いた。子どもの頃に街で流れていた懐かしいメロディー。

 その出どころは秀一の制服のポケットだった。

 秀一は、慌ててポケットからスマホを取り出して、アラーム音を停止させると、汗を拭うように制服の袖を動かした。アラームを止めるだけなのに、秀一は妙に真剣な表情を浮かべる。

 珍しく秀一が見せる慌てた様子を見て、僕と詩織は心配そうに秀一の方へ視線を向けた。


「悪い、何でもない。……なぁ、二人とも続きは明日でいいか」

「え、でもまだ四時だよ。何か予定でもあるの?」

「あぁ、ちょっと外せない予定があるんだ」


 僕たちの確認を待つ前に秀一は荷物を手早く片付け、「じゃあな」と教室を後にした。

 流れるような素早い動作に呆気にとられ、教室に残された僕たち。

 隣でちょこんと机に座っている詩織に、どうしようかと目で尋ねた。

 何かを言おうとしていた秀一は、結局それを言わずに帰ってしまった。このまま僕たちだけで話を進めるよりは、明日改めて話し合いをした方がいいだろうか。

 そう考えていた僕に詩織は思わぬことを言った。


「ねぇ、ヒロ。さっきの秀一何か変じゃなかった?」

「言われてみれば……、珍しく焦ってたような感じだったけど。部活か塾じゃないのかな」

「今はもう夏休み前で部活はやってないよ。それに、塾だったら秀一は休むと思う」


 確かにそうかもしれない。

 秀一はクラス内外問わず顔が広い。さらに部活や塾に通っていることもあって、秀一の予定表はいつもぎっしりと埋まっている。

 それでも、僕たちといる時間を大切にしてきてくれたのが秀一だ。

 それに今は、千鶴の死という重大な問題が掛かっている。

 きっと普段の秀一なら、どんな予定があっても僕たちといることを優先するように思う。


「それにね、さっきの秀一、一瞬すごく怖い顔をしてた。私どこかで見たことがあると思ったんだ。そしたら気付いたの、ここ最近ずっとちーちゃんのことで悩んで、後悔してた私の顔といっしょだって。だから……、心配なの」


 詩織は心配そうに自分の胸に手を置いた。

 詩織は、このまま秀一を放っておいても良いのかと訴えかけてくる。

 僕はどうするべきなのだろう。

 秀一は僕より何倍も頭が良い。いつだって冷静で、問題が起きたときには自分の力で解決する。最近だって、その姿を僕は見たはずだ。

 そんな秀一のことだから変に僕たちが介入するよりも任せてしまった方がいいのじゃないか。

 普段の僕なら多分それを選んでいたと思う。

 だけど、詩織の言葉が僕の胸に棘のように刺さり、抜けることはなかった。


「秀一を……追いかけよう。もしかしたら、何かトラブルに巻き込まれてるかもしれない。何もないなら、それでいいし」

「うん」


 意見がまとまった僕たちは速やかにカバンを手にし、教室を出た。

 幸いにも校門から出たところで、秀一の後ろ姿を発見することができた。秀一は普段帰る方向とは別の方へと歩き出す。

 詩織と二人で、気付かれないように物陰からその後を追った。

 僕たちの住む街で、近場の移動となればバスを使うことが多い。さすがに同じバスに乗ると秀一のことだから気付かれてしまうだろう。かと言って、一本遅らせれば追跡が困難になる。どうするべきか悩んでいたが、その心配は杞憂に終わった。

 秀一が向かった先は、最寄りの路面電車の駅だった。

 古くから残るその路面電車は、外観に残る傷跡からもその風格を感じさせる。いつか駆逐されるであろうそれは、しかし都市部とは真逆の山間部への交通手段として、未だ存在を保っていた。

 普段の路面電車は駅から乗る人はせいぜい数人といったところだ。しかし、運良く外国人観光客の集団が乗り合わせる場面に遭遇し、僕たちはその集団を壁にして、秀一が乗った車両から一つ離れたところへ乗り込んだ。

 途中、姿を見られないように詩織と密着して、観光客のかげに隠れた。触れ合うような距離で詩織の顔が赤かったのは、多分僕の気のせいじゃない。

 三十分ほど身悶えするような時間を過ごした僕たちは、終点の一つ前の駅で降りた。

 駅に降り立つと、まず木々の匂いが漂ってきた。視界の先には、高い建物はほとんどなく、低い木造の平屋や先の見えない田んぼが広がっている。

 僕たちの住む街は都会とは言えないけど、ここと比べるとかなり発展している方だ。秀一はこんなところに一体何をしにきたんだろうか。

 駅を降りてから、秀一は背の高い木々に囲まれた山奥に向かって歩き始めた。通行人も少なかったため見つからないか心配だったが、自然が僕たちを隠してくれた。

 ひび割れた道路を登っていくと、突如視界が晴れる。

 詩織がその場所を眺めて、「ここって……」とつぶやいた。

 そこには、数え切れないほどの黒光りする直方体の石が立ち並んでいる。その一つ一つには達筆な職人が書いた文字のような名前が掘られている。


「墓地、か」


 見渡す限り規則正しく配置されている墓石は、ここが不思議な空間であることを感じさせる。

 先行する秀一は、墓石の中でも一際小さく、控え目なものの前に立つとじっと静止した。

 遠くからそこに刻まれている名前は見えない。

 秀一は墓石の周りの草を毟り、墓地に用意してあった水桶から墓石へと優しく水をかけていく。水を浴びた墓石は暑さの中喜ぶように一層その輝きを増していた。

 秀一が黄色い花を活けている姿を横目で見ながら、僕たちは互いに視線を交わす。


「お墓参りだったのか」

「そういえば気にしたことがなかったけど、毎年この時期に遊びに誘っても断られてたの、そういうことだったんだ」

「何はともあれ、これで謎は解けた。変なトラブルじゃなかったことだし、僕たちは先に帰ろうか」


 他人のお墓参りの様子を影からこそこそ監視しているのは、どうも居心地が悪い。

 僕が立ち上がって背を向けようとしたときだった。

 僕の制服の袖が引っ張られ、その一歩が踏み出されることはなかった。

 その原因である詩織の方を振り返ると、詩織は秀一が立っている方を指差している。


「見て、ヒロ。あれ」


 さっきまで一人だった秀一の隣に一人の男が見えた。

 スーツに身を包んだ長身の男は秀一と向かい合うように立っている。見るからに高級そうなスーツに革靴、そして時計。きっちりと整えられた髪にくっきりとした目鼻立ち。

 その隙のない風貌に僕は既視感を覚えた。

 そうだ、文化祭のときの秀一とそっくりなんだ。あのときの秀一がそのまま成長すれば、きっと視線の先の男のようになるだろう。

 秀一と男は墓石の前で何やら話し合っていた。

 男は感情が全く感じられないような無表情で淡々と語っている。

 秀一の表情はここからでは窺い知れないが、穏やかな雰囲気ではなさそうだった。それは怒りをぶつけるように地面を激しく踏みつけたり、固く握り締められた秀一の手を見ると明らかだった。

 燃え盛るような秀一の熱とそれを受けても氷のような無表情を浮かべる男。

 一体何を話しているのだろうか、僕たちは呼吸も忘れてそちらに耳を傾けるが、話の内容は入ってこない。

 そうこうしているうちに秀一と男の話が一区切りついたようだ。

 男は僕たちとは反対の方向へ、秀一へと背を向けて歩き出そうとする。

 その足が一歩、二歩と秀一から遠ざかっていくときだ。

 秀一が拳を固く握ったまま、男の背中に向けて一歩踏み込んだ。

 僕はとてつもない嫌な予感が背筋を走った。 取り返しのつかないまずいことが起こるそんな予感。


「秀一!」


 僕は反射的に叫んでいた。

 これ以上ないくらい大きな声で、おおよそ墓地には似つかわしくない大きな声で。

 近くにいた詩織は驚いて目を丸くし、少し離れた位置にいる秀一と男は動きを止め、二人ともこちらを振り向いた。

 僕は詩織と共に秀一の方へ駆け寄っていく。


「ヒロ、それに詩織も。お前ら何でここに」

「ごめん、急に出て行った秀一が心配で追いかけてきた。それより秀一、大丈夫」


 僕は秀一が握ったままの拳に目をやる。

 遠くからは判別できなかったが、近くで見ると爪が食い込んで血が流れていた。

 一体どれほどの力で拳を握ればこんなことになるのか。

 そして、秀一は去ろうとする男に、一体何をしようとしていたのか。

 流れる真紅の血が僕の不安を煽った。

 視線に気づいた秀一がようやくその手を解く。血が流れていることに今気付いたように秀一は驚いていた。


「悪い、もう大丈夫だ」


 ポケットから取り出したハンカチを血が出ている箇所に巻きつけて秀一は笑った。いつもの秀一が見せる笑顔に僕は少しホッとする。

 その様子を少し離れたところから眺めていた男は僕たちのことを興味なさげに一瞥した後、どこへともなく呟いた。


「邪魔が入ったな。今度こそ私は行く」


 その低い声、近くで見る顔はやはり秀一を思わせる。

 男はさっと踵を返し、墓地を後にした。

 秀一はまだ鋭い視線を男の方に向けていたが、今度はその後を追おうとはしなかった。

 男の背中が完全に見えなくなるまで、僕たちは無言で同じ方向を見つめていた。


「秀一、どういうことか説明してくれる? 今の人は誰なの」

「あいつは」


 明らかに一回りも二回りも年齢が離れている相手に対して、秀一はあいつと呼んだ。

 僕は確信していた。


「秀一のお父さんなの?」

「……ま、そんなところだ」


 苦虫を噛み潰したように秀一は答える。

 その様子からも良好な親子関係と言えないことだけは伝わってきた。

 僕と詩織はどう踏み込んでいいか、わからなかった。他人の家庭環境に口を出すのはあまり良くないことだろう。だけど、秀一は僕たちの大切な仲間だ。滅多に人に弱みを見せないような秀一が、明らかにこの場ではその感情を爆発させていた。

 僕たちにできることがあるなら、きっと動くべきだ。


「ねぇ、秀一」

「なぁ、ヒロ。俺に一日、過去日記を貸してくれねぇか」


 唐突に秀一はこの場には全く関係のないことを切り出した。

 その内容に僕は間抜けな声を出すことしかできなかった。


「秀一、突然何言ってるの」

「桜木が殺された事件のことさ。俺たちは桜木が殺された原因を探して、それを防ぐように日記を書き換えようとしてただろ? 逆に日記の中から書き換える内容を探すのはどうかな、って思ってさ」


 いつものように秀一は理論を並べていく。

 だが、そこにはいつものようなしっかりとした土台に基づくような論理はなく、どこか上辺だけの空虚なものを感じた。

 僕は正直に言うと、秀一が過去日記を使って、何か過去を変える気なのじゃないだろうかと思った。

 そんな僕のためらいを見抜いたのだろう。秀一は僕に向かって優しく語りかける。


「俺が信用できないか」


 その言葉は僕の心に突き刺さった。

 僕が秀一を疑っていることを、秀一は的確に見抜いてきたのだ。

 その後ろめたさと申し訳無さに、僕はおもむろにカバンから日記を取り出してしまう。

 取り出した日記を秀一に手渡そうとしたとき、僕と秀一の間に詩織が割って入った。


「ヒロ、ダメだよ! 今の秀一に日記を渡しちゃ!」


 詩織は勇気を振り絞って、その小さな体を必死に大きく広げ、僕が日記を渡すことを阻止しようとする。

 それを見た秀一の氷のような視線が、僕の全身を身震いさせた。

 詩織は僕の方を向いているため、その視線には気づいていない。

 だが、それを詩織に見せるわけにはいかないと思った。

 だって、その視線はおおよそ仲間に向けるようなものではなかったから。

 僕が、秀一の見たこともない冷たい視線に動けずにいると、秀一は小さくつぶやいた。


「詩織、お前に俺を責めることができるのか」


 それは初めて聞いたような冷たい声。

 秀一からかけられたその言葉に、詩織は目を滲ませる。


「それでも……」

「待って。僕は秀一のことを信じるよ」


 秀一と詩織が睨み合う姿をそれ以上見ていることはできなかった僕は、秀一に日記を渡す。

 詩織は最後まで反対していたけど、僕はその制止を振り切った。

 僕たちが喧嘩すること珍しくない。特に秀一と千鶴なんて、いつもどこに行きたいかなんてくだらないことで喧嘩していた。僕だって、秀一と意見の違いから喧嘩することはある。その中で唯一詩織は、自分の意見をあまり表に出さないこともあってか、誰とも衝突することはなかった。

 だからだろう、きっと今の秀一と詩織をこれ以上見ていられなかったのは。

 秀一は僕から無言で日記を受け取ると、それをカバンの中にしまい込んだ。


「まだ用事があるから二人は先に帰っててくれ」


 有無を言わさぬ秀一の言葉。

 その冷たさは、さっき秀一の父が発した言葉とそっくりだった。

 僕は詩織をここにいさせるのはまずいと思って、秀一の言葉に従って墓地を出る。

 帰り道、僕と詩織はほとんど無言だった。きっとお互い考えていることは同じだったのだろうけど、それを口にすることはなかった。

 嫌な予感が、まとわりついていた。

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