懺悔の時間

 七月十八日。

 墓地で秀一とその父による剣呑な一幕が繰り広げられた翌日。

 寝不足な体を引きずって僕は学校へと到着した。昨晩は秀一に過去日記を渡してしまったことを本当に良かったのだろうかと悩み続け、ほとんど眠ることができなかった。

 早く秀一に過去日記を返してもらおう、そう思って教室で秀一が来るのをそわそわと待っていた。しかし、教室に人が集まり始めても秀一は一向に姿を見せず、そのまま朝の予鈴が鳴ってしまった。

 僕は昨日から感じていた嫌な予感が急速に膨張していくのを感じた。僕の力が及ばない、何か致命的な出来事が起こる予感。

 反射的に教室を飛び出して、秀一を探しに行こうとしていた。

 そのとき、僕の手首を柔らかな手が掴んだ。


「待って、ヒロ」


 その声の主は詩織だ。

 詩織も昨日のことがあったせいか、いつもより声に元気がない。


「ごめん、詩織。秀一を探しに行かなくちゃ」

「秀一からメッセージが来たの」

「え?」


 詩織の言葉に驚いた僕は、詩織が手に持つスマホに目を向ける。

 そこには『今日の午後四時、デルタで待つ。ヒロに一人で来るように言っておいてくれ』と秀一からのメッセージが表示されている。デルタというのは、僕たちがよく遊んでいた場所の一つだ。学校の近くを流れる川の水流の二俣に別れる箇所が、三角形のような地形を作り出していることから、そこはデルタと呼ばれている。

 僕はそれを了解した。

 闇雲に探すよりは、確実に会える時間に向かうのが一番だろう。

 クラスメイトと先生に訝しげな視線を向けられながら僕と詩織は席に戻った。

 永遠のように長く感じられた授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったと同時に僕は教室を飛び出した。詩織が心配そうな視線を向けていたけれど、それに応える余裕は今の僕にはなかった。

 学校から走って十分程度で、約束の場所にたどり着いた。

 デルタと呼ばれるその三角形の中心には、制服を着た一人の男子高校生が立っている。周囲に人影はない。

 僕は舗装道から川辺へと階段を使って降りた。

 この川には、飛び石と呼ばれる川の間を繋ぐような石が点々と配置されている。子供のころ、よくこの飛び石を渡るのが好きで、意味もなく何度も渡ったものだった。

 僕は川に落ちないように飛び石の上を一歩ずつ進み、三角形への中心へと向かう。

 川底まで見えるような澄んだ水に、川を取り囲むようにざわめく木々たちが神秘的な空間を作り出していた。

 最後の飛び石を力強く蹴り、僕は待ち人の元へとたどり着いた。


「秀一」

「よう、ヒロ。来たか」


 秀一が物思いにふけるように周囲の自然をあてもなく眺めている。

 いつものように明るく交わす言葉。だけど、その裏にはいつもと違う緊張感が漂っていた。


「懐かしいだろ。昔はよく四人でここで遊んでた。ヒロは飛び石から落ちてしょっちゅう水浸しになってたよな。詩織は怖くて川を渡れなかったんだっけ。桜木はわざと川に飛び込んでたりしたよな」


 昔を懐かしむような物言いに僕は胸が痛む。

 それはもう二度と訪れない光景だと宣言されているようで。


「秀一、日記を返してほしいんだ」


 僕は切り出す。僕の真剣な表情に、秀一は無言を返した。

 水面を撫でる風音と水流の音が僕たちを包んだ。風に揺れる木々のざわめきに乗せるように、秀一はおもむろに口を開いた。


「なぁ、ヒロは今までの人生でやり直したいことってあるか」

「急に何を」

「いいから答えろよ」


 秀一は問いかける。それはいつかの文化祭での屋上の出来事を彷彿とさせた。


「過去日記のことを言ってるなら、僕は千鶴を助けるためにやり直したいことならある」

「それは桜木のためだろ。お前自身の利益のために、何かやり直したいことはあるか」

「僕自身のためっていうなら、それはもちろんいっぱいあるよ。僕は多分、人よりいっぱい失敗をしてきた。小学校の頃なんか病気で塞ぎ込んで、何年も暗い気持ちの中にいたし」

「それを過去日記を使って変えようとは思わなかったのか」

「……思わない。どんな結果であれ、選択したのは僕だから。その選択の上に立っているのがここにいる僕自身なんだ。それはきっと、秀一も詩織も、千鶴だって同じだ。それを僕だけが過去日記を使って、自分のために自分の失敗を無かったことにするのは卑怯だと思う」


 秀一はじっと僕の話を聞いて、「そうか」とだけ呟いた。

 僕は我慢ができずに秀一に一歩近づこうとした。

 それを牽制するように、秀一はカバンから”開いた状態のまま”の過去日記を取り出した。

 細かく書かれているその内容を判別することはできない。だが、それは明らかに僕の筆跡とは異なるものだった。

 焦りから絞り出すような声が漏れた。

 秀一が一度その日記を閉じれば、僕の意識は秀一が創り出した世界へと飛ばされてしまう。手に汗がジワリと滲んだ。


「ヒロ、悪いな。俺はどうやら自分の過去を認めることができない弱い側の人間だったみたいだ。だから親友のお前を裏切って、詩織をわざと傷つけて、こんなことをしちまう」

「秀一は弱くないよ。秀一は僕たちのことをずっと支えてきてくれた。詩織が書き換えた世界でも……、秀一は僕にずっと味方してくれたよ」

「それは忘れていたからに過ぎないんだ」

「何を」

「俺の中に眠っていた身を焦がすような思いを」


 制服にシワができるほど強く秀一は胸を握った。

 その瞳には、身が震えてしまうような怒りの炎が宿っている。

 僕はその熱に当てられて、一歩後ずさってしまう。

 秀一の様子が明らかに変わってしまったのはあのお墓参りの後からだ。

 きっとあのとき、秀一とその父の間に何かがあったに違いない。

 しかし、僕がそれを問うても、秀一は何も答えてくれない。


「……悪いな、ヒロ。ここでお別れだ」


 秀一は開いたままの日記を閉じようとする。


「しゅうい」


 日記に向かって、全力で手を伸ばす。だが、さっき後ずさってしまった一歩分届かない。

 指先が日記に触れる直前、僕の意識は遠のいていった。

 最後に見えたのは、僕を見つめる物悲しそうな瞳だった。

 僕の視界から秀一が消えた。

 秀一だけではない。

 両脇を流れる川も、それを取り囲む木々も、遠くに見える家々も、全てが消えた。

 見えるのはただ真っ白な純白の世界のみ。

 これは見えているというのだろうか。もしかしたら僕は何も見えていなかったのかもしれない。

 そんなことを思った。

 次に目を開けたとき、僕の目の前に広がっていたのは、まさしく地獄だった。


「は?」


 僕はあまりの現実離れしたその光景に、自分の頭がおかしくなってしまったことを疑った。

 でも仕方ないだろう。

 だって、さっきまで眩しいぐらい照りつけていた太陽が、今は黒い雲に覆われて全く差していないのだから。まるで昼が突然夜に変わった、そんな錯覚を起こさせるようなどす黒い雲が空一面を覆っていた。

 あたりを見回してまず目に入ったのは炎だった。燃え盛る炎が僕たちを覆っていた木々を、遠くに並んでいた家々を黒く焦がし尽くしていた。

 僕は思わずむせ返る。それが空気中に漂っていた灰のせいだと気づくのに時間が遅れた。

 制服の裾で口元を覆いながら僕はもう一度周囲を確認する。

 そこは確かにさっきまで僕がいたデルタで間違いなかった。

 僕の周りを流れる川が、それを取り囲む木々が、架かる橋が確かに存在したからだ。

 ただし、それは存在しただけで、さっきまでとは全てが異なっていた。

 川底まで見えるような美しい透き通った水は真っ黒に変色し、そこら中に瓦礫のような破片が流れている。周囲を取り囲む青々とした木々は、真っ赤に燃え盛って黒い灰を生み出している。川の両端を繋ぐように架かっていた橋は、真ん中の方でひどい地割れを起こし、ポッキリと二つに折れていた。


「なんだこれ」


 それはとても現実と認めることはできなかった。僕が生きてきた十数年間の中で初めて見る光景に、僕は僕の正気を疑った。

 しかし。

 目に飛び込んでくるその惨状が。

 何もかもを焼き尽くすその音が。

 呼吸を苦しくさせる灰の匂いが。

 真っ黒な地面に立つその感触が。

 ここは現実なんだと僕に突きつけてきた。

 そういえば小学校の頃に戦争を題材にしたビデオを見たことがあった。僕の目の前に広がる世界はまさにそれだった。まるで戦争でも起きたかのような世界。

 ここはきっと秀一が過去日記を使って何かを書き換えた世界だ。それは秀一の行動からも明らかだ。

 だけど、過去日記を使って書き換えられるのは僕の過去の行動だけだ。広大な世界の中で、僕一人の行動の何を書き換えたらこんな惨状が生まれるのか、見当もつかない。

 立ち尽くす僕の後ろから不意に物音がした。

 首だけを後ろに向けると、一本の木が真っ黒に燃え尽きて、その支えを失い、僕に向かって倒れかけているところだった。

 咄嗟の出来事に僕の足は地面に根が張ったように動かない。

 そんな僕にはお構い無しに、木はその自重を僕へとたたきつけようとする。

 僕の視界の全てがその真っ黒な木で覆われたとき、僕は目を閉じ、死を覚悟した。

 その瞬間、僕の体がぐいっと横に引っ張られた。地面に根を下ろしていた僕の足もその力には抗えず、体ごと木を避けるように地面に倒れこんだ。

 僕が倒れたのと同時に轟音が周囲に響き渡る。

 つま先の数センチ先で、巨大な木が地面に衝突し、その爆風が僕を襲う。

 僕は飛ばされないように地面にしがみつくので精一杯だった。

 衝撃が収まり、ようやく目を開けることができた僕が見たものは、さらに信じられないものだった。


「なにしてるの! はやくにげなきゃ!」


 僕を九死に一生から救ったその人物は、黄金のような長い金髪に青い瞳を携えた一人の少女だった。

 少女は僕の手を取り引き起こすと、そのまま川を登るために階段の方へと駆けていく。僕の腰ぐらいの身長しかない少女は、その小さな体で僕を引っ張っていく。

 まるで絵本に登場するようなその幼い少女に、僕はまた現実であることを疑った。

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