茜色の告白

 どんなお祭りにも、終わりのときはやって来る。

 僕は屋上から学校を眺めていた。鍵は、秀一から預かったままのものを使った。

 校庭に所狭しと並んでいたテントも疎らになり、通りの人もみるみる減っていく。

 お祭りが終わりに向かう時間というのは、どうしてこうも胸を打たれるのだろうか。いつまでも続いて欲しいと願う一方で、非日常というのは長く続かないからその価値があるのだとも思う。

 文化祭が終わってほしくないという生徒たちの共通の願いに反し、時間が流れるのが妙に速く感じた。そういえば、物理の先生が言ってたっけ。時間の流れが変わる場所があるって。あれはどこだっただろう。

 僕の思考を遮るように屋上の重厚なドアがゆっくりと開けられる音がした。そこには一人の女子生徒が夕日を浴びて立っている。


「詩織」


 名前を呼ばれた女子生徒は一歩ずつこちらへと向かってくる。僕たちの座標が重なる後数歩というところで、詩織はその足を止めた。

 茜色に染まるその姿が眩しい。


「八坂くん、さっきは、その……」

「さっきはごめん」

「え、八坂くんがどうして謝るの?」

「本当は僕が先に中野さんの前に立つべきだったのに、詩織に先に行かせちゃったから」

「そんなこと……、私も気がついたら中野さんの前にいただけだから」

「やっぱり詩織はすごいよ」


 僕の行動と詩織の行動。

 おそらくどちらかが正解なんてことはないのだと思う。そんなのはやってみないとわからないのだから。過去をやり直せる能力でもない限り。

 それでも、あの場で傷ついた中野さんを救ったのは間違いなく詩織だった。

 詩織は赤くなった顔を隠すように俯いた。


「そういえば、詩織。クラスのみんなとはちゃんと話せた?」

「あ、うん。私最初どう接していいのかわからなかったんだけど、クラスのみんながずっと私に話しかけてくれて。中野さんなんてあの後ずっと私にしがみついてきてて。……なんだか、嬉しかった」


 最後の一言は消え入りそうな声だったけれど、風に乗って確かに僕の耳へと届いた。

 詩織はこれまでクラスメイトのことを語るときはどこか無関心なところがあった。きっと詩織はクラスメイトとの間に線を引いて、その外側から彼らのことを観察していたのだろう。

 だけど、今日初めて詩織はその線の内側に入ったのだ。

 傍観者ではなく、当事者へと。


「八坂くんとのことを噂されてたのもそう。私、昼間はなんだか怖くなって逃げ出しちゃったんだけど、でも、さっき話したら全然普通だった。私、勝手に他の人は私に対して悪意を持ってるものだと思い込んでた。でも……、違ったんだね」

「うん」

「こんなに簡単なことだったんだ」


 詩織は憑き物が落ちたように、ずっと引きずってきた重い鎖から解き放たれたような清々しい表情を浮かべていた。

 その表情は何か決意を宿したようなものへと変わる。


「私が今日踏み出せたのも、八坂くんが私の背中を押してくれたおかげだよ。だから、今度はちゃんと言うね」


 夕陽を背負った詩織のその姿に、僕はとある場面を思い出していた。

 控えめな笑顔。小動物のような仕草。僕を見上げる熱のこもった視線。

 あぁ、そうだ。

 僕はこの光景を見たことがある。

 詩織は胸に手を当てて、大きく息を吸った。


「ありがとう、ヒロ。私と一緒にいてくれて。ヒロは、私のヒーローだね」


 僕がその言葉を聞くのは、二度目だった。

 詩織は全身にあるだけの勇気を振り絞ったのだろう。顔を真っ赤にして、もうどうしたらいいかわからないと言った様子で立ち尽くしている。

 屋上に吹きすさぶ風だけが、僕たちを包み込んだ。

 僕が詩織に声をかけようした瞬間、校舎中に大きな鐘の音が鳴り響いた。それは祭りの終わりを告げる鐘の音だ。

 その音に我に返った詩織が慌てて、手を振った。


「わ、私、実行委員だから片付け行かなくちゃ! 先行くね」


 そのまま詩織は駆けるように校舎へと戻っていった。

 僕は一瞬それを追いかけそうになり、一歩踏み出したところで止まった。

 この先の世界に僕は進めない。

 詩織はクラスのみんなとも打ち解けた。

 僕のことを名前で呼び、はじめてありがとうと口にした。

 きっと僕たちはこれからさらにその関係を進めていくのだろう。

 それはきっと幸せに満ち溢れた世界に違いない。

 でも、だからこそ、これ以上僕がその世界に浸ることはできない。

 きっと、帰ることができなくなってしまうから。

 僕は足元に置いてあったカバンから日記を取り出した。

 十一冊ある内の中学一年の日記を手に取り、四月頃のページを開く。

 やっぱりそうだったか……。

 中学に入学したての四月、僕はクラスの親睦を深める球技大会の実行委員に立候補したのだった。それは、既に決まっていた実行委員のもう一人が、あまりにも頼りなく、あまりにも不安そうにしていて、どこかの誰かにそっくりだったからだ。だから、僕にできることがあるならその子のためにやれることをやりたいと思ったんだ。僕たちはどちらもクラスをまとめるような性格ではなかったので、人前に出ても緊張しっぱなしだった。それを助けてくれたのが、秀一と千鶴だ。それから、僕たちはいつも四人でいるようになったんだ。

 僕は、過去日記を元のあるべき記述へと書き換える。

 覚悟を決めて、息を吐き出す。

 僕が日記を閉じようとした瞬間だった。

 屋上の扉から一つの影が僕の方へ伸びてくる。その影から、僕の聞き覚えのある声がかけられた。


「行くのか」


 扉の向こう側に立っていたのは秀一だった。秀一は腕を組んで、コンクリートの壁へともたれかかっている。


「うん、行くよ。これ以上、この世界にいたら未練が残りそうだしね」

「そうか、ま、元気でな。向こうの俺にもよろしく言っといてくれ」


 秀一はぶっきらぼうに手を振る。

 僕はその普段の別れの挨拶のような秀一の姿に笑ってしまった。

 そのまま日記を閉じようとしたとき、一つ気になっていたことを思い出した。それは、ついさっき教室で起こった出来事についてだ。


「そうだ、秀一。一つ聞きたいことがあるんだ」

「何だ?」

「さっきクラスで三年生が起こした事件、秀一も知ってるよね。あれって変じゃない?」

「俺もクラスのやつから少し話を聞いたぐらいだが。どこが変なんだ?」

「クラスで問題を起こした三年生は中野さんに飲み物をこぼされて、ずっと怒ってたんだよね。でも、かけられたものは別に熱い飲み物でもないし、予備の制服があってすぐに着替えられた。それなのに、ちょっとミスした下級生に対してあんなに怒ってるなんておかしいよ。それに、三年は最後の文化祭なんだから自分から揉め事を起こすようなことはしないと思うんだ」


 秀一は僕の話を黙って聞いている。

 あの事件が発生してからずっと感じていた違和感、その正体が今にしてようやく理解できた。

 

「つまり、あの三年は、はじめから”怒ってなかった”んだよ」


 僕が、詩織と三年の間に割って入って首元を掴まれたとき、僕と三年の顔はお互いに息がかかるんじゃないかってぐらい近くにあった。もし、あの三年が本当に飲み物をこぼされたことに怒っていたなら、そこに割り込んできた僕は憎いはずだ。だけど、近くで見たその表情はとても怒っているようには見えなかった。それどころか、僕を見てすらいなかったんだ。生徒会長に諌められて教室を後にするときも、僕たちの顔を見て複雑そうな表情を浮かべていた。

 これに答えを与えるとしたら、一つしか考えられない。

 あの三年の怒りは、偽物だったのだ。

 僕の推察に、秀一は顔をしかめた。

 秀一は「それはあくまでヒロの主観だろ」と、至極真っ当な反論をする。

 僕も、それだけだったら僕の勘違いかとも思っていたかもしれない。

 だけど、あそこにはまだ客観的に見てもおかしな事実が存在するのだ。


「そうだね。じゃあもう一つの違和感だ。僕が殴られそうになったとき、桃井さんが教室に入ってきて止めてくれたよね。それから、すぐにあの三年を諌めて、教室から出て行かせた。……これはおかしいでしょ」


 あの場面だけ切り取れば、何もおかしなことはないように思える。

 だが、前後の状況を考えれば、桃井さんの行動は明らかにおかしいのだ。


「桃井さんも僕たちと同じ巡回中だったんだから、生徒同士のトラブルがあったときは双方の事情を聞いて、教師に報告しなければならないんだ。だけど、桃井さんは何も聞かずに三年を帰した。おかしいと思わない?」

「そんなの状況を見て生徒会長が勝手に……。あぁ、そういうことか。服は着替えてあって、床もすでに拭き取られていた、と」

「そう。桃井さんがあの状況だけを見て何があったかを知ることなんてできないんだよ。だとしたら」

「最初から全て知っていた、と」


 あのときとった桃井さんの行動。

 それは確かに一見何らおかしなところはないように思える。

 だが、桃井さんは見てもいないはずの状況を把握していたのだ。

 その証拠に、桃井さんはこう言った。

 「お礼を言うなら八坂くんと、それに一番は高島さんに」と。

 詩織が中野さんを庇ってから僕が殴られそうになるまでは、少しの時間があった。桃井さんが教室に入ってきたのは、後者のタイミングなのだから、詩織が中野さんを庇ったという事実を知っているはずがないのだ。にも関わらず、桃井さんは詩織のことを指して、ヒーローと呼んだ。

 僕が感じた違和感。その一つ一つは些細なものだ。

 だけど、そんな小さな違和感も重なると何者かの思惑を感じずにはいられない。

 そうなると、次に確認するべきはその動機だ。

 だが。


「もし桃井さんがあの事件を仕組んだとしたら動機がないんだ。あの事件で結果得をしたのは、クラスに馴染めた詩織、そして副次的に記憶を取り戻せた僕だ。だけど、僕も詩織も生徒会長とは話したこともない」

「何が言いたい?」


 その最後の違和感の正体の鍵を握るのは、目の前にいる人物だ。


「秀一はどうしてあのとき教室にいなかったの」


 僕はずっと胸に秘めていた疑問を投げかける。

 秀一は昼休みにここで確かに言った、昼からも教室にいるのだと。だけど、あの事件が起きたときに限って、秀一はいなかった。さらに、もう一人の実行委員である高木も事件のときは教室に不在だった。

 トラブルを収めることができる二人が揃って同時に教室を空けているというのは、考えづらい。

 もちろん、これらが全て偶然の産物である可能性は十分にある。

 だけど、僕は世界はそんなに都合のいいものでないと信じている。

 世界はいつだって、必然の積み重ねの上に在るのだ。

 問いかけられた秀一は僕の質問には答えない。

 どれだけ待っても、答えない。

 その無言が、秀一の行いを雄弁に語っていた。

 何も言わずに空を仰いでいた秀一がふっと肩の力を抜いて口元に笑みを浮かべる。

 僕はその笑みに対して、無性に苛立ちを覚えた。


「なぁ、ヒロ。選ぶってどういうことだと思う?」


 突然問いかけられたその質問に僕は面食らってしまう。

 秀一は重要なことだと、僕を逃がそうとはしない。

 僕は、その言葉の意味を考える。だが、秀一が何を求めてこの問いを行なったのか、どういう返事を期待しているのか、僕にはわからない。

 僕は、無言でその問いかけに対して、首を振った。

 秀一は落胆するでもなく、驚愕するでもなく、ただ無表情で、空を見つめていた。


「俺は、選ぶってことは捨てることだと思ってる。俺たちはいつだって目の前に無限に広がってる選択肢から一つを選ぶ。だが、それは残りの無限の可能性を捨てるってことだ」

「言いたいことはなんとなく分かる。でも選べるのは一つだけじゃないでしょ」

「同じだよ。有限の存在である俺たちが選べる選択肢は、やっぱり高々有限なんだ。だから無限の選択肢を捨ててる。選ぶってことは、その無限の選択肢を捨てる覚悟をすることを指してるんだと、俺は思う。俺はただ”結果”を選んだ。それだけだ」


 秀一の言っていることは、頭では理解できた。

 秀一が今回とった行動は生徒会長を使って、わざと事件を起こし、僕が尻込みすることを見込んで、詩織に解決させた。結果として、詩織は確かにクラスのみんなと馴染むこともできた。その上、僕の記憶を取り戻すこともできた。

 だけど、僕の中にある何かわからないものが、致命的にそれを受け入れることができなかった。

 今の僕にその正体を適切に表現する術はない。

 であれば秀一の主張は正しいのだろうか。秀一の選択を否定できない僕が、それを責めることはできない。

 僕は、いつかその問いに答えを出せるのだろうか。

 僕が思考の海に沈んでいると、不意に秀一がつぶやいた。


「おっと、そろそろ時間だな」

「時間?」

「あぁ、俺の予想が正しければだが、お前はそろそろもとの世界に戻ったほうがいいぞ」


 どういうことかと聞こうとしたときには、秀一はもう手を振って校舎への階段を降りていった。秀一が去り際に言った「じゃあな」という言葉が妙に胸に響いた。

 追いかけるべきか悩んだが、僕はもとの世界に戻ることを決めた。

 詩織が書き換えた過去日記は既にもとの記述へと書き換えている。

 後はこの日記を閉じるだけだ。

 僕はこの世界の出来事に想いを馳せながら、両手でそれを一つにした。

 四度目の不思議な感覚。

 急激な目眩と天地がひっくり返るような感覚。視界が真っ白に染まる。

 再び目を開けると、夕陽の眩しさに、思わず目を覆ってしまった。

 ここは……、さっきまで僕がいた場所と同じ、屋上だ。

 校庭では文化祭の片付けが終わり、屋台が姿を消していた。

 屋上から外を見ていると、ふと後ろに人がいる気配を感じた。

 振り返るよりも前に、その名前が呼ばれる。


「ヒロ」


 そこに立っていたのは詩織だ。

 その髪色は十分ほど前に見た詩織のそれとは異なり、僕がよく知る茶色に染まっていた。

 それは紛れもない僕が中学からずっと接してきた詩織だった。

 僕たちの距離感、息遣い、仕草。どれを取っても間違えるはずがない。

 なぜ僕たちが二人で屋上にいるのか、それはわからない。さっきまでいた世界の秀一の言葉から推察すれば、僕たちは二人で文化祭を回った後に屋上で会っている、といったところだろうか。

 しかし、今の僕には何をおいても聞かなければならないことがある。

 目の前にいる詩織は、日記を書き換えた詩織なのだから。


「詩織、どうして過去日記を使ったの」


 僕の問いかけに、詩織は目を丸くした。そのまま混乱したように頭を抱える。思考が追いつかず、頭の中がぐちゃぐちゃになっていることが端から見てもわかる。


「え、どういうこと。ヒロ、もしかして、今目の前にいるヒロって」

「うん。僕はついさっきまで、詩織が過去日記で創った世界にいたんだ」

「嘘、日記を書き換えても何も起こらなかったから、私てっきり……」


 僕の言葉に、詩織は口に手を当てて、声にならない驚きを漏らしていた。

 詩織は今、日記を書き換えても何もおこらなかったと言った。この世界にいた僕は、この一週間、詩織が行なった過去の書き換えに気がついていないのだろうか。頭が混乱しそうだったが、今考えるべきはそこじゃない。

 僕はもう一度、あの日詩織がどうして過去日記を使ったのかを問う。

 詩織は、未だ整理できていない情報を、それでもゆっくりと一つずつ確認するように口を開いた。


「あの日、ヒロと秀一が先生に呼び出される直前、私たちはちーちゃんの事件当日の行動を考えよう、って言ったよね。ヒロ、覚えてる?」


 それは覚えていた。

 過去日記を使うにあたって、まずは千鶴の事件の詳細を把握する必要があった。

 しかし、犯人に関する手がかりはその時点でほとんどなかった。だから犯人ではなく、千鶴の当日の行動を洗い出そうとしていたのだ。


「私、事件が起きた夜ちーちゃんと会ってたの」

「え!?」


 僕はその驚愕の事実に、思わず声を上げていた。

 事件当日の夜に千鶴と会っていたということは、千鶴が刺される直前までいっしょにいたということだろうか。

 そういえば水野が、千鶴は「大切な人に会いに行く」と言って東京を出発した、と言っていた。ならば、その相手とは詩織のことを指していたのだろうか。

 詩織は続きを語る。


「事件があった昼にちーちゃんから『今日の夜、そっちに帰るから会わない?』って連絡が来たの。私もその日は特に予定もなかったから、夜に二人で喫茶店で会ったんだ。確か、夜八時から九時ぐらいだったと思う。でも、まさかその後にちーちゃんがあんなことになるなんて……」


 新しい情報の量に、脳の思考が追いついていかない。

 それでも、必死にその断片から全体像を探るしかない。


「ごめん、それと過去日記を使ったことがどう関係するのかちょっとわからない」

「私とちーちゃんが会ってた喫茶店、事件現場のすぐ近くだったの」

「え?」

「ヒロと秀一が園田先生に呼ばれたとき、私その日のことを思い出してたんだ。ちーちゃんは私と会うためにその喫茶店で待っててくれた。だから、ちーちゃんがその喫茶店を選んだから、通り魔に襲われたんじゃないか、って。そう思ったらいてもたってもいられなくなったの。だって、もしそうなら……、ちーちゃんは私のせいで殺されたようなものだから」


 詩織は目に涙を浮かべながらも、そのときのことを説明してくれた。

 ようやく僕は詩織が過去日記を使った理由が見えてきた。

 詩織が過去日記を使ったのは、千鶴を通り魔との接触から防ぐためだったのだ。

 事件当日、詩織は事件現場付近の喫茶店で千鶴と会っていた。詩織はそのことがきっかけで千鶴が通り魔に襲われたのだと思い込んでいる。だから、詩織はそのきっかけとなる出来事をなかったことにしたかったのだ。

 つまり、詩織は事件当日に千鶴が事件現場付近の喫茶店に向かわなくて済むように過去を改竄した。

 だが、そこにはまだ幾ばくかの疑問が残る。


「事件当日に喫茶店で会わないようにするだけなら、僕たちとの関係を断つ必要はなかったんじゃない?」

「……あの日、ちーちゃんと喫茶店で話したのは、ヒロのことだったの」

「え、僕?」


 突然、名前を出されて困惑した。

 だが、追い打ちをかけるように詩織は語る。


「そう。あの日、ちーちゃんは私に『私はヒロに告白するけど、詩織はどうする?』って聞いてきたの。私は……、それに何も答えられなかった。ずっと曖昧な答えを返してたら、ちーちゃんすっごく怒ってた。それで、口論みたいな形になって、私は先に店を出ちゃったの」


 正直にいえば、意味がわからなかった。

 千鶴が僕に告白するというのも信じがたい話だけど、それを詩織にわざわざ言うことも不思議な話だ。そんなこと、わざわざ言う必要はないのに。

 いや、違うか。

 見てみない振りをするのは、もうやめよう。

 詩織が創った世界に移動して、分かったことがある。

 それは、僕が、僕のことを救ってくれた千鶴を好きになったように。

 詩織が、詩織のことを救った僕のことを好きになってくれたのだ。

 一人ぼっちの世界から救い出してくれた人のことを何とも思わないわけがない。そのことは、僕が誰よりも、痛いほどに理解していた。

 そして、そのことを千鶴も見抜いていたのだ。

 だからこそ、詩織にわざわざ告白することを告げたのだ。

 それは、千鶴なりの正々堂々と戦うという宣戦布告なのだろう。

 その結果、千鶴と詩織は事件直前に、口論することとなったのだ。

 詩織は、その日のことを思い出すように遠くを見つめている。その瞳には、夕陽に照らされてオレンジ色に輝く雫が映る。


「私がはっきりしない態度でちーちゃんを怒らせて、それで一人で事件現場近くのカフェに置いてきちゃった。だからね。ちーちゃんが殺されたのは私のせいだと思ったんだ。……その天罰だと思った。だから」

「だから、過去日記を使ったのか」


 詩織が僕たちとの関係を絶った理由。

 それは、詩織の自責の念からのものだった。

 詩織は僕たち四人の中で、誰よりも調和を重視するタイプの人間だ。しかも、必要とあらば自分自身を排除してでも、集団の調和を保とうとする。

 だからこそ、詩織は自分自身がいなくなることで、僕たちの関係を保とうとしたのだ。

 だがそれは、間違っている。

 詩織がいない僕たちなんて、それは”僕たち”じゃないからだ。

 詩織は、指の先で涙をぬぐいながら、途切れ途切れに言った。


「ねぇ、ヒロ。ちーちゃんとは、会えた……?」


 縋るような詩織の問いに、僕はどう答えるか、迷ってしまった。

 これまでの話から、詩織が過去日記を使ったのは、千鶴を事件から救うためだということがわかった。

 だけど、結果は詩織が想像しているものとは違う。

 その残酷な事実を今の詩織に告げてしまっていいのか。詩織の行いは無意味だった、と。

 だが、ここで誠実に答えないことこそが最も愚かな選択だと、僕は思う。


「千鶴は……、向こうの世界でも、殺されていたよ」

「そんな……、じゃあ、私のしたことは……、ごめん。ごめんね、ヒロ」


 詩織の瞳から溢れる涙が、灰色のコンクリートを黒く染めあげていく。懺悔するようなその嗚咽は、虚しく空に響いた。

 詩織がしたことは結果的に無意味に終わってしまった。だけど、そのことで詩織を責めようという気にはならなかった。詩織の行動は、すべて千鶴のためを思ってのことだったからだ。結果こそ、想像していたものとは異なっていたとはいえ、それを責めるのは何か決定的に違うと感じた。

 詩織の涙は止まらない。

 きっと、今どんな言葉をかけても詩織の耳には入らないだろう。

 それは分かっている。

 それでも、僕はただ自分の気持ちを正直に伝えた。


「詩織には気にしないで、って言っても気にしちゃうだろうから。だから、僕から言えるのは一つだけだ」


 僕は、ただ泣き崩れる詩織の肩を支え続けていた。


「詩織に、これからも千鶴を助ける手伝いをしてほしい」


 詩織は、僕の胸に顔を埋めるようにして、何度も深く頷いた。

 痛いほどに掴まれた両肩には、詩織の決意の強さがあらわれている。詩織の瞳から伝う雫は僕のシャツを濡らし、僕たちの境界を曖昧にしていく。

 茜色の世界で、一つの決着がついた。

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