開幕の合図
七月十六日。
文化祭当日。ついにこの日が来た。
僕はいつもより早く学校に着いていた。文化祭実行委員の当日の主な仕事として、朝に開会式の準備があるからだ。また、午後からはトラブルが起きていないか、各教室の見回りがある。
本来は実行委員である高木が担当することになっているのだが、高木に頼み込んで役割を代わってもらった。先生に見つかると面倒だけど、あくまで僕個人のサポートと言い張れば問題はないだろう。
そういうわけで僕は朝から体育館で行われる開会式の準備をしていた。壇上にシートを引いたり、マイクや椅子を設置したり、意外と準備することが多い。
例年、開会式の準備は前日に行われるのが通例だ。しかし、今年は運悪く、前日に運動部の地方大会がこの体育館で行われていた。そのため、各学年、各クラスの実行委員が当日に揃って忙しく準備することとなったのだった。
詩織は体育館内に取り付けられた音響のチェックをしているため、僕とは違う場所で準備をしている。他のクラスの実行委員に知り合いもいないので、僕はひたすら無言で椅子を並べ続けた。
体育館のちょうど半分ほどに椅子を並べ終えたとき、この体育館内で唯一知っている顔が近づいてきた。
「お、八坂くん。やってるね~」
軽い調子で声をかけてきたのは、我が校の誇る生徒会長、桃井雪音だ。
一年前、当時二年の桃井さんは、他の候補者に倍以上の得票差をつけて選挙に圧勝した。年下からも年上からも慕われるその人望と間違いなく美人と断ずることのできるその外見。似たような人物としては千鶴を思い浮かべるが、彼女は破天荒なところから人に好かれることもあれば苦手とされることもある。だけど、この生徒会長は誰からも好かれるのだ。僕はそれが、少し気味悪かった。
「お疲れさまです、生徒会長」
「桃井でいいよ。なんなら雪音でもいいよ」
「さすがにそれは遠慮しておきます。じゃあ、桃井さんで」
桃井さんと話すのは僕ははじめてだった。
もちろん生徒会長として、イベントの挨拶などで見る機会はあったが、それは一方的なものだ。
桃井さんには名乗った記憶もないが、全校生徒の顔と名前を覚えているのだろうか。まさか、と思う。
「こんなところでどうしたんですか」
「いやー、みんなの頑張ってる姿を応援しにきただけだよ」
そう嘯くわりには僕以外の実行委員のところに声をかけに行った様子はなかった。体育館の中で話していれば、きっと気付いたはずだろう。ということは、僕に何か用があると思ったのだが、桃井さんは特にこれといって何かを語るわけでもない。
訝しげな表情を返す僕に、桃井さんは悪戯そうな笑顔を浮かべた。
「ふふん。ま、いろいろあると思うけど頑張ってね」
含みを持たせた言葉を得意げに投げかける。
僕はその真意が気になり、問い返そうとした。
そのとき、体育館の入り口付近から「桃井さーん、こっちの確認お願いできますか」と男子生徒の声がした。制服の色からして、三年生だろう。僕の高校では、近年制服のデザインが刷新されたため、三年生と二年生以下ではその色や形が微妙に異なる。
名前を呼ばれた本人は「はいはーい」と手を振って、そちらに走り去っていった。
何だったんだ、と疑問に思ったが、考えても仕方ないので作業に戻る。
時刻が八時半を回ったころ、ようやく体育館の椅子並べが終了した。作業していた実行委員が集まって、お互いをねぎらい、その場は解散となった。
教室に戻ると、いつもとは種類の異なる喧騒が耳に入ってきた。
授業を行うだけの殺風景な教室は、レースやカーテンで煌びやかに装飾され、固めた机にはテーブルクロスがかけられ、本物のカフェのような風体だ。心なしかコーヒーの香ばしい匂いや食欲をそそるパンの焦げた匂いが漂っている。
男子は執事を想起させるスーツ、女子はメイドのような服を着て、慌ただしく教室の中を準備で走り回っている。
その中心では、秀一と高木がみんなに指示を出していた。二人の出す指示で教室内の装飾、飲食物の準備、シフトの確認などテキパキと事が進んでいるようだ。高木は実行委員なのに詩織に仕事を丸投げした嫌なやつかと思っていたが、こういうときは頼りになる。
クラス外との書類のやり取りを詩織が、クラス内とのコミュニケーションを高木が行うというのは案外良い采配なのかもしれない。それでも詩織に仕事を押し付けすぎだとは思うけど。
ちなみに秀一は特に実行委員というわけでもないが、やはりイベントとなるとその中心には自然と秀一がいた。僕には絶対真似できない芸当だ。
僕の存在に気付いた秀一が声をかけてくる。体の線が細く見えるスラッとしたスーツを纏った秀一はいつもより大人びて見えた。
「お、ヒロ。お前も着替えろよ」
「僕はいいよ。昼からの校舎の見回りでどうせ制服に着替えなきゃならないし」
「そうか。見回りなんてスーツのままやっちまえばいいのに」
生徒は基本的に午前か午後のどちらかにカフェのスタッフとしてシフトに入っている。だが、僕と詩織だけはそのどちらにも入っていない。昼からの校舎の見回りがあるため、午前にシフトに入ってしまうと、他のクラスを回れないからだ。
といっても、特に回りたいものがあるわけでもないので、今のところ午前の自由時間は教室にいようと思っている。
それから少しして、教室の準備が完了したころだった。開会式の始まりを告げるチャイムが教室内に響き渡り、僕たちは慌てて体育館へと向かった。
分厚いカーテンが締め切られ、真っ暗になった体育館はいつもとはまるで印象が変わっていた。文化祭にそこまで思い入れのある僕ではないが、日常的に見ているものが、全く別世界のように変わることには、さすがに高揚感を覚えた。
自分たちのクラスを示すプレートが掲げられている列に名簿順で自分の席へと座る。僕は”や”なので後ろの方だ。席に着くと前後左右から、落ち着かないそわそわした雰囲気が伝わってきた。生徒たちはこれから始まる一日に期待を膨らませているようだ。
真っ暗な体育館に突如、壇上の一点がライトで照らし出される。
そこには生徒会長の桃井さんが毅然としてマイクの前に立っていた。今朝、僕に話しかけてきたときの軽い表情とは違う。こういう部分に人は惹かれたりするのだろうか。
どうでもいいことを考えていると、桃井さんがマイクに口元を近づけ、開会の宣言をする。内容は、至って普通のものだったと思う。年に一度の文化祭、特に三年生は最後だから楽しみましょうとか、保護者の人も参加するから振る舞いには気をつけましょうとか、怪我をしないようにしましょうとか。僕は内容をほとんど聞き流していたけど、その宣言を行う桃井さんの姿はなぜだか印象に残っていた。
挨拶が終わると、桃井さんは一礼をして、壇上から降りていく。
ライトが消されると、物々しい何かを運ぶ音が壇上で響き渡っていた。
音が途絶え、体育館内に静寂が訪れる。
再び壇上にライトが当たると、そこには光を浴びて眩しいほどに輝く楽器を抱えた吹奏楽部が配置されていた。場内の視線が一気にその前に立つ指揮者に集まる。
一瞬の静寂の後、指揮者が棒を振ると、それに同期するように演奏が始まった。聴いたことのあるクラシックだったけど曲名は思い出せない。その重厚な音響に心臓が直接叩かれているような衝撃を受ける。体の芯に響くようなその音は、僕の心を震わせた。
その後も何曲かを演奏し終え、最後に生徒会長の掛け声で開会式は終了した。
気分が高まった生徒たちが一斉に体育館を出て、それぞれのクラスへと向かっていく。
僕は朝からの椅子運びが響いたみたいで、少しだけ体育館で行われる劇を見てから戻ることにした。シフトが入っているわけでもないので大丈夫だろう。
劇は五分後に始まった。テーマはロミオとジュリエットで、何と桃井さんが主役として登場していた。生徒会長として、文化祭の運営にも携わりながら、クラスの劇の主役まで行う。純粋にそのバイタリティがすごいと思った。所詮学生の劇なのだからその練度は推して知るべしだが、桃井さんの本物の姫のような衣装、演技、呼吸、その一つ一つに僕は夢中になっていた。終わった後に少し目尻が熱くなっていたかもしれない。
劇を見終えた僕が教室に戻ってくると、テーブルは既に満席になっていた。クラスメイトたちがそれぞれのテーブルについてオーダーを取り、忙しなく料理と飲み物を運んでいる。思っていた以上の客の入りにクラスメイトたちは焦っていたが、どこか楽しそうに仕事をしていた。チラリと各テーブルを見渡すと下級生から上級生、生徒たちの保護者が席についている。
邪魔になってもいけないと思い、教室から出ようとすると奥のテーブルから声がかけられた。
「あら、ヒロくん?」
そこには一人の初老の女性が座っていた。落ち着いた色のシャツに丈の長いスカート。首からは保護者であることを示すプレートをかけている。その顔には見覚えがあった。
踵を返し、テーブルのそばへと近づく。
僕は「お久しぶりです」としばらくぶりに見た秀一の母へと挨拶をした。
僕の顔を間近で見た秀一の母は、そんな僕の顔を見て微笑んだ。
「やっぱりヒロくん。大きくなったわね」
「そんなことないですよ。今日は秀一を見に?」
「そんなところね」
秀一の母を最後に見たのは中学の頃の三者面談で、たまたますれ違ったときだっただろうか。道を聞くために廊下で声をかけられたことを覚えている。だけど、記憶の中の穏やかな表情よりも目の前にいる秀一の母は随分と痩せこけてしまっていた。顔だけじゃない、よく見ると体全体が少し細くなっていた。それは健康的な痩せ方というよりも、病的な痩せ方のように見えて僕は心配になる。
あたりを見回していると、こちらに気付いた秀一が執事さながらのスーツのまま近寄ってきた。
「噂をすれば、来ましたね」
「母さん、来てたんだ」
「秀くん、似合ってるじゃない」
「いいよ、そういうのは」
秀一が恥ずかしそうに頭を掻いた。
秀一のこういう反応は珍しい。完璧超人に見える秀一も親の前だとやっぱり子供なんだなと思うと少し笑ってしまった。
「ヒロ、笑うなよ」
「ごめんごめん、つい」
そのまま三人で少しの間談笑していた。
秀一の母は外見こそ少しやつれたものの、やはり前に会ったときと同じように穏やかな性格の持ち主だった。その優しさがきっと今の秀一に受け継がれ、今の僕を助けてくれてるんだろう、と思うと僕は妙な感動を覚えていた。
文化祭という非日常の中にいるせいか、今日の僕はどうも感傷的な気がする。
ゆるやかに流れる時間。
僕は話の流れの中で、何気なく秀一の母に尋ねた。
「そういえば今日はお一人ですか? お父さんとか……」
「ヒロ!」
直後、テーブルを叩く衝撃音が教室内に響き渡る。
瞬間、教室内の時間が止まった。
僕はそれがはじめ秀一が発した言葉ということに気付かずに困惑した。
立ち上がった秀一の表情は髪に隠れてうかがい知ることが出来ない。
だけど、僕はそれを見ずに済んで安堵していた。秀一の今にも噴火しそうな怒気を孕んだ声は、僕を竦みあがらせるのに十分なものだった。きっと、その顔を見たら僕は逃げ出していただろう。
僕が動けずにいると、秀一は我に返ったようにつぶやいた。
「わるい、突然大声出して」
静寂に包まれた教室内にざわめきが戻ってきた。
他の人たちは何事かとこちらを見ていたが、きっと食器を倒しただけだと判断したのだろう。すぐにもとの楽しそうな声が教室内を包んだ。
だけど、僕たちがいるテーブルだけはまだ時間の止まったまま静寂が流れていた。
それを破ったのは秀一の母だ。
「秀くん、落ち着いて」
「ごめん、もう大丈夫だから」
いつもの表情を浮かべる二人。
さすがに僕も自分が二人の何かまずい部分に触れてしまっていたのだろうことを察した。
「秀一、ごめん。その、秀一のお母さんも、すみません」
「いいのよ、気にしなくて」
僕は居た堪れなくなって別れの挨拶をして、その場を後にした。
秀一が冗談ではなく、他人に対して怒りをぶつけるところをはじめてみた僕は少し動揺していた。秀一はいつも冷静で、それでいて理不尽に人を責めたりすることはない。だけど、さっきの姿からは明らかに僕に対して、もしかしたら僕が発した言葉に対してかもしれないけど、明確な敵意を感じた。
そういえば僕たちは家で遊ぶとき、いつも僕か詩織の家で、たまに千鶴の家で遊んでいた。
しかし、秀一の家に行くことは一度もなかったのだ。その話があがると、秀一は適当な理由をつけて、家に来ることを拒んでいた。もしかしたら、複雑な家庭環境のために僕たちを家にあげたくなかったのかもしれない。
今更ながらその可能性に思い至ったことに、僕は後悔する。
秀一と顔を合わせるのが気まずく感じた僕は他のクラスをぶらついていた。一人だったので特に店の中に入ることはせずに、各クラスの雰囲気だけを堪能していた。
一時間ほど回った頃にはさっきの鬱屈とした気持ちも幾分か晴れ、空腹を感じていた。
そういえば、とふと詩織のことを思い出した。詩織とは朝の体育館の準備では担当場所が異なり、さっきの秀一の母との出来事で僕は教室を空けていたので、今日はまだ一度も話していなかった。
教室にいたらお昼でも誘おうと思い、僕は教室へと足を進めた。
教室内のテーブルエリアから区切られた裏方に入ると、午前中のシフトだったクラスメイトたちがちょうどお昼休みに入る頃合いだった。そのクラスメイトの輪から少し離れたところに詩織が一人立っている。
僕がお昼を誘おうと、詩織に声をかけようとしたときだった。
突然、僕に対する複数の視線を感じた。
その出所は休みに入ろうとしているクラスメイトたちだ。疑問に思う間も無く、一人の女子生徒のヒソヒソとした声が耳に入ってきた。
「あの噂、本当だったのかな。八坂くんと高島さんが付き合ってるって」
それは一人から数人へと伝播し、クラスメイトたちは僕たちの動向へと注目していた。妙な緊張感が裏方の空間を包む。
詩織の方を見ると、詩織は一瞬だけ僕と目を合わせ、すぐに顔を背けると走って教室から出て行ってしまった。追いかけようと僕も仕切りのカーテンをどけようとしたところで、一人の男子生徒とぶつかりそうになった。
「おーい、みんな。隣のクラスのホットケーキ、マジで美味かったぞ。もうすぐ売り切れるから早く行った方がいいぞ」
ぶつかりそうになった男子生徒の正体は秀一だった。
秀一は僕に注目していたクラスメイトたちに急かすように言うと、みんなは僕のことなんて忘れて、すぐにそっちに興味が移ったようだ。一人の男子生徒を皮切りに、裏方に残っていたクラスメイトたちは隣のクラスへと向かった。
「行ったな」
「秀一、ありがとう」
「いいよ。それよりヒロ、少し時間取れるか」
僕は肯定し、先を行く秀一についていくことにした。
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