契機の人形
駅から目的地へ向かう途中、荷物をロッカーに預けたことで、僕の足取りは随分軽くなった。
十分ほど歩き、僕が足を止めた正面には、街の喧騒の中でもより一層騒がしい店がそびえ立っていた。目に痛いぐらいの怪しい光を放つその店は、僕たちが歩いている街の中に存在する別世界のようだ。
「ここって……」
「そう、ゲーセン」
詩織がポカンと店内を見つめている。
その視線の先にあるのは、ゲームセンターだ。
店内には様々な筐体が所狭しと立ち並んでいる。クレーンやメダルといったオーソドックスなものから、レースやリズムなど様々な機種が存在した。それぞれのゲームの前には中学生や高校生たちが列を作って遊んでいる。
詩織はその異様な世界を眺めて、すぐに我に返ったように不機嫌そうな顔を全面に押し出した。
「あの、私、こういうところは」
「待った! 高島さんの言いたいことはわかる。というか僕もゲーセン自体はそこまで好きじゃないんだ」
「じゃあ、どうして」
「少しだけ僕を信じてついてきてほしい」
僕は理由を言わずに店内へと歩みを進める。詩織も嫌がりつつだが、僕についてきてくれた。
店内に入ると、外から聞こえていた以上の音量で大きな音楽が掻き鳴らされている。詩織はその音量に、より一層足取りを重くする。
その反応に僕は見覚えがあった。
というよりはじめて秀一と千鶴に連れられてきた”僕と詩織”の反応がそれだったのだ。
懐かしい気持ちを秘めつつ、僕は目的の筐体を見つけて、その前に詩織と並び立った。
僕たちの目の前にあるのは、横と縦を操作して景品を取るクレーンゲームだ。ガラス張りの向こう側には、もこもことした温かそうな毛に包まれたくまのぬいぐるみが並べられている。
それを見た詩織が、店内に入る前から浮かべていた不機嫌そうな表情をはじめて和らげた。筐体のガラスに手を当てて中を見つめる詩織は小学生のようにキラキラした目を浮かべている。
「これって……」
「高島さん、こういうの好きかなーと思って」
「どうして?」
「あ、えーと。何となく……、直感。みたいな」
僕の下手くそな誤魔化しに、詩織はそれ以上突っ込むことはなかった。その理由をうまく説明する自信がなかったので、僕は安心する。
そう、僕たちがここに来たのは二度目なのだ。
もちろん一度目はこの世界ではなく、もとの世界の出来事だ。
中学一年の頃。秀一と千鶴が嫌がる僕と詩織を説得して、無理やりゲームセンターに連れてきたのがきっかけだった。
僕ははじめ慣れない音楽にどうも治安の悪そうな雰囲気から、ゲームセンターというものを忌避していた。しかし、秀一とレースやシューテングゲームで遊んでいるうちに、いつの間にかそのマイナスな感情は払拭されていたのだ。イメージだけで避けたり、悪いものだと決めつけたりすることは良くないな、という感想を抱いたことを覚えている。
一方、秀一のおかげで適合した僕とは対照的に、詩織は千鶴が色々なゲームを提案してもいまいち楽しみ方がわからないという様子だった。
それを見た千鶴が「ごめんね、詩織には合わなかったね」と、ゲームセンターを出ようとした。そのとき、クレーンゲームのぬいぐるみが立ち並んでいる一角で詩織が足を止めたのだった。
そこに並んでいたのが、まさに今僕たちが見ているものと同じくまのぬいぐるみだ。
そのときも詩織は宝石のようにキラキラとした目を浮かべていた。千鶴が「好きなの?」と聞くと、詩織は心ここに在らずといった様子で肯定していた。それから僕たち四人でそのぬいぐるみを取るために何度も挑戦したことを覚えている。秀一も詩織もクレーンゲームは意外に不得意で、取るのには随分苦労した。実際は何度も挑戦する僕たちに店員が見かねて、取りやすくしてくれたのだった。
くまのぬいぐるみが取れたときの詩織の笑顔は今でも忘れない。僕も千鶴も秀一も喜ぶ詩織を見て、笑い合っていた。
そういう経緯があったので、僕は今日詩織をこのゲームセンターに連れてきたのだった。
詩織は部屋にずっとあのぬいぐるみを大切に置いていたし、過去日記の秘密にも書いたぐらいだ。きっと、詩織にとって大切なものなのだろう。
僕は隣でまだぬいぐるみを見つめいている詩織に問いかける。
「好きじゃなかった?」
「ううん。そうじゃない」
「よかった。じゃあ、取ってもいいよね?」
「え、でも」
「まあ見ててって」
あの頃と同じ、だけどあの頃とは違うものがあった。
中学一年のとき、僕がはじめて挑戦したときはそれはもう初心者丸出しで、ぬいぐるみのどこにクレーンを引っ掛けるとか、そういうことも全然知らなかった。愚直に体を持ち上げようとして、アームの弱さに何度も泣かされたのだった。
しかし、今は違う。
あれから何度か、主に秀一と二人でこのゲームセンターには通っていたのだ。
硬貨を入れると、ゲームのプレイ中に鳴る陽気な音楽が僕たちを包んだ。
手慣れた手つきで、クレーンの横と縦を操作し、時には筐体を回り込んで細かな位置を調整する。ぬいぐるみの重心を傾けるように、少しずつ移動させることで、クレーンの出口に近づけることに成功する。
二枚目の硬貨を投入する頃には、ぬいぐるみはクレーンの出口にもたれかかっているような状態だ。
「高島さん、あと少しで取れるからやってみない?」
「え、む、無理だよ。やったことない」
「大丈夫だって」
突然声をかけられた詩織は露骨に手を振って、拒絶していた。
だが、僕が筐体の前を開けると渋々その前に立った。
詩織は僕がやっていたのと同じように操作をするが、簡単にはぬいぐるみを落とすことはできない。何度か挑戦して、残りプレイ回数が一回になっただけだった。
「や、やっぱり無理だよ。私には」
「大丈夫。あと一回で取れるよ」
自信なさげに俯く詩織に僕は声を掛ける。
実際、このままプレイを続けてもぬいぐるみを取ることはできないだろう。詩織も同じことを思っているのか、諦めた表情のままぬいぐるみを見つめていた。
だけど、僕は最初に調整したぬいぐるみの位置を確認して、確信していた。
詩織がさっきまでと同じように操作盤に触れ、クレーンが動いていく。
その瞬間、僕は詩織の手に自分の手を重ね、いっしょに操作する。驚いた様子の詩織だったが、細心の注意を払って、針の穴に糸を通すようにクレーンの爪をぬいぐるみのタグに引っ掛けることに成功する。
クレーンが持ち上がる衝撃でぬいぐるみは出口の方へことんと倒れ、足元にある取り出し口にそれは落ちてきた。
ふぅ、と僕は一つ息をついた。ぶっつけ本番ではあったけど上手くいって良かった。安堵の気持ちとともにぬいぐるみを抱え上げ、詩織へと受け渡す。しかし、詩織は呆然としたままそれを受け取ろうとしない。
名前を呼びかけると、ようやく意識が戻ったように慌ててぬいぐるみを受け取った。
ぬいぐるみが取れたことに驚いているのだろうか、その表情は詩織が手に持ったぬいぐるみで覆い隠されて上手く見えない。そのぬいぐるみの影から詩織がチラリと目だけを覗かせた。
「いいの?」
「もちろん、もともとあげるつもりだったし。それに取ったのは高島さんだからね」
「取ったのは、私じゃ」
否定しようとする詩織だったが、僕はそれを受け付けるつもりはない。ぬいぐるみをもう一度強く押し付けて、詩織へと渡す。
ようやく納得してくれたのか、詩織はそれを強く抱きかかえるのだった。
詩織は何かを言おうと口ごもっていたが、店内の音が大きくて、それを聞き取ることはできなかった。
慣れない雰囲気に酔って疲れた僕たちは一休みすることにした。
どこかお店に入ろうと考えたが、ぬいぐるみを取るのにお金を使っていたこともあって、近くの川の土手で休むことにした。そこにはなぜか等間隔で何組ものカップルらしき人たちが座っていて、少し気が引けたけど、それ以上に疲れが僕たちを後押しした。
川の水分を含んだ風が頬を撫でていく。さっきまでの機械の無機質な匂いから、木々の心地よい香りが鼻を抜ける。腰を落とした途端、重い荷物を持って歩き回ったり、慣れないゲーセンに行った疲れがどっと押し寄せてきた。隣に座る詩織も同じようで、わかりやすく息をついていた。こんなところでも詩織は律儀に体育座りだ。
何を話すべきか悩んでいたが、意外にも先に口を開いてくれたのは詩織だった。
「八坂くんは、どうして私といっしょにいてくれるの?」
「文化祭実行委員のこと?」
「それもだけど。その……、遊びに行こうって言ってくれたこととか」
詩織は流れる水を眺めながら、恐る恐る切り出す。
「どうして、か。放って置けないからかな」
「それは、私が可哀想だから?」
「そんなんじゃないよ。ただ……」
僕が詩織を放って置けない理由。
それはきっと昔の僕を詩織に重ねたからだ。
小学生の頃の僕は、学校にもほとんど行かず、病院で大半の時間を過ごした。当然、学校での友達もできるわけもなく、病院にも同年代の子の友達はいなかった。
僕もずっと一人だったのだ。
その頃の僕は未来に希望なんて持っていなかった。この先ずっと暗澹たる日常が待ち構えていて、きっとそのまま死んでいくものだと、心の底から思っていた。
だけど、そんな時に僕に声をかけてくれた女の子がいた。
冷たくあしらわれても何度も僕を遊びに誘ってくれた女の子。
心を閉ざしていた僕とずっといっしょにいてくれた女の子。
今はもうこの世にいない女の子。
「僕の大切な人が教えてくれたことを、僕も大事にしたいんだ」
詩織は何も答えずに黙り込んでしまった。
無言の僕たちの間には、ただ水の音だけが流れていた。
詩織と距離を詰めるために、僕はその無言を破る。
「僕も一つ聞いていいかな」
「何?」
「高島さんはどうしてクラスで人に関わろうとしないの」
「……私が関わると、みんなに嫌われるから」
詩織は自分の顔を膝にうずくめる。
絞り出すようなその声が僕の胸に苦しく突き刺さった。だけど、その言葉には少し違和感を感じた。僕が知っている詩織は、僕たち以外のクラスメイトと関わることは少なかったが、それでも普通に話せていた。そのことでクラスメイトから嫌われるようなこともなかったはずだ。
「それはみんなに聞いたの?」
「聞いてない。でも、みんなそうだよ。私みたいに話が続かない人が、好かれるわけない」
「直接聞いたわけでもないのに嫌われてるなんて、そんなのわからないよ。それに僕は、クラスのみんなはそんなに冷たい人だとは思わない。きっと言葉を交わしてないから、お互いのことを理解していないから、お互いに距離を開けてしまってるだけだよ。人は知らないものを怖がるからね」
「もしそうだとしても私、人と会うと緊張して、上手く言葉が出ない」
「別に上手くなくてもいいよ。言葉に出せなくても、直接思ったことを行動に出すだけでも変わるさ。高島さんは今日僕が遊びに誘ったとき、どこに行くのかもわからないのについて来てくれた。僕はそれがすごく嬉しかったんだ。だから無理して言葉に出さなくても、気持ちさえ伝われば、きっとそれでいいんだと思う」
詩織はどこまでも他人に対して、臆病だった。
でもそれは相手のことを知らないからだと僕は思う。
それは僕が昔、同じことを考えていたから。だから、その気持ちが誰よりも理解できる。
「僕も昔は他の人が嫌いだったんだ」
嫌い、と言えば聞こえはいいが、実際にはこの世のすべてを憎んでいたと言ってもいい。
病気を告げられたとき、はじめに湧いて来た感情は夜の森にいるような不安と深い悲しみ。同年代の子たちが普通に学校に行って、普通に授業を受けて、普通に友達と遊ぶ。そんな中、どうして僕だけが病院にいるのかと嘆いていた。
そして、それが憎しみに転じるのにはそうかからなかった。周りで希望に輝いて、毎日を過ごす人たちが僕にとっては太陽よりも眩しかった。いっしょにいると身を焦がれてしまうようなそんな苦痛を感じたのだ。
「世界中の人々が僕の不幸を嘲笑った上に幸福を謳歌しているように感じた。何て残酷な世界なんだって」
詩織はじっと話を聞いている。
「でもね、そんなのは僕の妄想で、ちっぽけな思い込みだったんだよ。その証拠に色んな人と話しをしてみると、本気で僕のこと心配してくれている人はたくさんいたし、僕といっしょに時間を過ごしてくれる人もいた。そのきっかけをくれたのは一人の女の子が僕が遊びに連れ出してたことだったんだ。僕が世界に感じていた絶望なんて、そんな小さなきっかけで吹っ飛んじゃったんだから」
それを教えてくれた中の一人は詩織なんだ。
少なくともこの一年、千鶴がアイドルとして僕たちのもとを離れて行ってから、一番僕の側にいてくれたのは詩織だった。その恩を詩織自身に返すときなのだ。
「世界は思ってるほど残酷じゃない。高島さんのことを理解して、いっしょにいたいって思ってくれる人も必ずいる。僕がその証明だよ」
「私なんかといっしょにいたいの?」
「詩織だから、いっしょにいたいんだよ」
僕は詩織に伝えたかったことを真っ直ぐと告げる。
僕が言えるのはこれぐらいだろうか。伝えたいことはすべて伝えた、と思う。
詩織は固まったように正面を流れる川を見つめていたが、はじめて隣に座る僕へと顔を向けた。
「今、詩織って」
しまった。昔のことを思い出していたせいか、ついうっかり名前で呼んでしまっていた。
「あ、ごめん。つい」
「う、ううん、私は気にしてないから。だから、そのままで大丈夫。私も八坂くんのこと、ひ…」
僕の言葉に被せるように詩織は言葉を重ねた。その瞳は今にも溢れ出しそうなぐらい潤んでいて、両手は固く服を握っていた。顔は耳まで真っ赤に染まっていて、今にも逃げ出しそうで、それでも抑えるように詩織は勇気を振り絞っていた。
「ご、ごめんなさい。今すぐには……、でもいつか言いたいことをちゃんと言うから、それまで待っててほしい」
それ以上耐えきれないと行った風に詩織は立ち上がって、走り出していた。僕は慌ててその後ろ姿を追った。様子を見ていた隣に座っているカップルの男性が、僕が振られたと思ったのだろうか、嫌味もなく「頑張れ、追いかけろ」と声をかけてきた。僕はその勘違いに苦笑したけど、口元は笑っていたと思う。
ほら、世界はそんなに残酷じゃない。見ず知らずの人間に声援を送ってしまうような”バカ”な人たちがいるんだ。
声に、風に、体に後押しされるように僕は詩織を追いかけた。
結局、詩織には土手から道路へ上がる階段を昇ったところで追いついた。
そこからは、妙な気恥ずかしさのため、お互い無言で帰ることになるのだった。
そういえば、少し前に僕はもとの世界でこうして詩織と下校していた気がする。ここ一週間、この世界の詩織と共に過ごすときは妙な緊張感があってそわそわしていたが、今は心が落ち着いていた。
お祭りの中の人混みを掻き分けるように、僕たちは進んでいった。少しだけ、隣に立つその間隔が縮まっていた気がした。
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