静謐の部屋

 七月十一日。

 まだ眠い目をこすって、僕は体を起こした。

 上半身だけ起こした僕の目に飛び込んできたのは、昨晩僕が読み散らかした日記とアルバムが部屋に散乱しているところだった。中学に入学した頃の写真を探したが、そのどこにも詩織の姿は写っていない。起きたら元通り、なんて都合のいいことは起こらないのだ。

 両手で頬を叩くと、ようやく頭も覚醒してきた。気持ちが入った僕は、すぐに身支度をして、リビングに並べてあったサンドイッチを頬張り、家を飛び出した。

 朝靄のかかった通学路を突っ切り、一足に学校へと到着する。校門から校舎へと入り、階段を登って自分の教室へと向かう。毎日繰り返してきたはずの行動なのに、教室が近づくにつれて僕の緊張は高まっていた。

 その原因は言うまでもなく、昨日詩織が見せた冷たい視線だった。僕の知っている優しい詩織とのギャップが大きいことも相まって、昨日はその視線に射すくめられてしまった。

 しかし、今の僕に怯んでいる暇はない。

 勇気を出して、無機質な教室のドアへと手を掛ける。

 ガラガラと大きな音を立ててドアはスライドし、教室の中の様子が浮かび上がってきた。教室には既に半分ぐらいの生徒が集まっていた。そのほとんどは、仲の良いもの同士集まって、授業前のたわいない雑談をしている。

 そんな喧騒の中にあって、僕の目的の相手は、今日も静かに一人でプリントと睨めっこをしている最中だった。

 僕は談笑する生徒たちを横切り、教室の前方に座っているその生徒のもとへと向かう。


「おはよう、しお……高島さん」


 詩織は最初それが自分に向けられた言葉とは認識もしていないようで、見向きすることもなかった。


「あの、高島さん、聞こえてる?」

「……聞こえてる。何の用?」


 詩織は不機嫌を隠そうともせず、むしろ話を早く切り上げようと突き放すように言葉を放りかける。頭の中で予想はしていたことだったけど、いざ目の前で実際のその姿を見ると心がざわついた。

 出来るだけ平静を装って、僕は口を開く。


「えと、文化祭実行委員大変そうだなと思って。良かったら手伝いたいんだけど、どうかな?」

「いい」


 詩織は言葉少なく断ると、僕の方を見ることもなく、手元のプリントへと目を落とした。それ以上僕との会話の意思はないと言わんばかりに、筆記用具を取り出し、何かを書き始める。

 もう少し話しかけてみようかと悩んだが、とりあえず様子見のつもりだったので、一旦ここでは引くことにした。

 自席に戻ると、いつからその様子を見ていたのか秀一がぶっきらぼうに挨拶をしてくる。


「よう、ダメだったみたいだな」

「見てたんだ。……秀一は今の、どう思う?」

「俺は高島の性格はあんまり知らないんだが、そうだな。今の感じを見てると、人が少ないときに話しかけた方がいいかもな」

「なんで?」

「普段誰とも話さない奴が話してたら目立つだろ? 高島みたいな大人しいタイプは注目されるのが嫌なんじゃないかと思ってな。だから話を早く切り上げたかったんじゃないのか」


 なるほど、と僕は心の中で手を叩いた。

 僕も大人しい性格の方だからその気持ちはよくわかる。

 中学に入学仕立ての頃は、周りが知らない人ばかりで、悪目立ちしないだろうかとすごく心配になったものだ。結果的に千鶴と秀一という人気者二人とよく行動するようになったせいで目立ちはしたが、そこは二人の人徳のおかげか、変な陰口を言われることもなかった。

 だけど、周囲に注目される不安な気持ちは理解できる。

 秀一の助言を参考に、僕は授業の間は詩織に話しかけるのは控えることを決めた。狙うのは、昨日と同様、放課後人が少なくなってからだ。

 授業中、僕はずっと詩織のことを考えていた。

 どんな表情で話しかければいいのか。

 どんな言葉なら聞いてくれるだろうか。

 どんな状況なら心を開いてくれるだろうか。

 そのどれもが結果はやってみないとわからない、という結論にたどり着いたが、僕は心の中で自問自答を続けていた。

 七時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴ると、生徒は帰宅したり、部活に向かったり、思い思いに散っていった。

 僕たちの文化祭の出し物はカフェだ。場所はこの教室で、テーブルは僕たちが普段座っている席を並び替えて、簡単な飾り付けをするだけだ。衣装も演劇部などの協力を得て、去年まで使われていたものが、被服科室に保管されており、自前で用意するものはほとんどない。肝心の飲み物は、直前に買い出しに行くぐらいなので、実際に僕たちが準備しなければならないものはほとんどなかった。

 おかげで幸いなことに、放課後の居残りの人数は少ない。

 他の生徒の影がなくなったところで、僕は詩織の席へと近づいた。朝のリベンジマッチだ。


「おつかれ、高島さん」


 今なら周りに生徒はいない。これなら周囲の目を気にせず話してもらえるだろう。だけど、そんな僕の淡い期待に、いつまで待っても詩織からの返事は返ってこない。

 ここでめげるわけにはいかない。僕はわざと明るく、大げさに振る舞った。


「すごいプリントの量だね、生徒会に……、こっちは先生に提出する分か」


 そこには文化祭の場所や小道具の申請書、予算の見積書など高く積まれていた。本来、これは男女の文化祭実行委員が半分ずつ消化するものだろう。それを高木が部活に行っているせいで、詩織が一人で処理することになっっている。内心、高木に憤りを覚えつつも、そのおかげで詩織と一対一で話す機会が得られているので複雑な気持ちだ。


「一人で大丈夫?」


 僕の言葉に詩織はピタリとペンを止めた。

 詩織は探るように僕を見つめ返してくる。ようやくこちらの世界でまともに目を合わせた気がした。その目は不安そうに揺らいでいる。


「八坂くん。昨日から私に話しかけて、何か用?」

「文化祭実行委員の仕事、もし良かったら何か手伝えないかなって」

「……何かの罰ゲーム?」

「違う!」


 僕は柄にもなく大きな声を上げていた。それはきっと詩織が自分のことを卑下しているために出た発言だったからだ。僕にはそれが、耐え難く悲しいものだった。

 突然教室に響いた声に、詩織はビクッと肩を震わせる。


「ごめん、大声出して。本当にそんなんじゃなくて、高島さんのことを手伝いたかっただけなんだ」

「……そう、なんだ」


 詩織は僕から顔を背けると、何かを考え込んでいるのか、じっと机を見つめたまま固まっていた。詩織の思考を邪魔すまいと僕は呼吸の音も立てずに、その姿をただ見つめる。

 もし誰かが今この教室に入ってきたらきっと不思議に思うだろう。目を合わせることもなく、ただただ静止している二人。まるでこの教室の中だけ時間が止まったようだ。

 永遠にも思える静寂を破ったのは詩織だった。詩織は何を言うでもなく、目の前に積まれていたプリントから何枚かを選んで、詩織が座っている隣の空席の机に置いた。

 これは僕が手伝っても良い、ということなんだろうか。

 僕は詩織がプリントを置いた席に座った。


「これ、僕がやっても良いってことだよね?」


 返事はなかったが、否定の言葉もない。僕の解釈が間違っているということもなさそうだ。

 僕は一番上に積まれたプリントを手に取り、必要事項などを記述していく。幸いにも、僕が知っている情報だけで記述できるもののようだ。

 きっと詩織が、僕でも書けるものを選んでくれたのだろう。

 その不器用な優しさに僕は少しだけ笑ってしまった。僕も口下手だけど、詩織の口下手は筋金入りだ。そういえば、僕が中学ではじめて詩織と話したときも同じようなことがあった記憶が……。

 掴みかけていた糸は不意に鳴ったチャイムによって、かき消された。

 作業に没頭していて気がつけば、完全下校時刻を回っていたのだ。片付けを始める詩織に僕が担当した分のプリントを渡すと、詩織は何かを言いたげに口を開こうとしたが、結局何も言われることはなかった。

 帰り際、まだ通り魔がこのあたりに潜伏しているのかもしれないと思い、僕は詩織にいっしょに帰ることを提案した。詩織は少し迷ったように見えたが、逡巡の結果、それは断られた。僕もあまりしつこく誘うこともできず、その日はバラバラに帰ることとなった。

 家へ帰り、リビングのソファに腰掛けると、連日のようにテレビで流れている千鶴の事件が目に入った。だが、以前見たときから新しい情報はなく、所属事務所の陰謀だとか、おかしなファンの仕業だとか、根拠のない憶測が流れているだけだった。

 一日神経を張り詰めていた疲れから、僕はお風呂へと入った。湯船に張られた熱いお湯が、疲れた体をほぐしていく。

 千鶴の事件も解決しなければならない。

 だけど、そのためにもまずは、この世界から一刻も早くもとの世界に帰らなければならない。

 今日、僕は詩織へ話しかけることで、その関係を一歩近づけたはずだ。その過程で記憶の端に引っかかるものが見えそうだった。

 何かを忘れている。でもそれが何だか思い出せない。

 もう少しで思い出せそうな、そんな予感がした。

 記憶を思い出すという目的を除いても、僕は今の詩織を放っておくことはできなかった。なぜかと問われるとうまく答えられそうにない。ただ、強いて言うなら詩織の姿が昔の僕に重なって見えたからだろうか。

 様々な思考が渦巻く中、僕は明日のために布団へとついた。

 七月十四日。

 文化祭を二日前に控えた土曜日。

 僕はお昼を過ぎた駅前で行き交う人々を眺めていた。

 時計を見ると、針はぴったりと天辺で重なり合っている。それは、ちょうど僕が指定した待ち時間を示していた。

 待ち人の性格からして、時間には余裕を持ってきそうなものなのに珍しい。

 そう思ったと同時に僕の方へと息を切らしながら一人の女子が走ってきた。


「ご、ごめんなさい」

「待ち時間ぴったりだし、大丈夫だよ」


 やってきたのは詩織だ。

 普段の制服とは違い、白のシャツに裾の長いスカートと、いかにも大人しそうな服装に身を包んでいる。汚れひとつないままの靴は新品をそのまま履いてきたようだった。

 詩織は心底申し訳なさそうな顔で謝ってくる。

 僕は全く気にしていなかったので、逆にこっちが申し訳なくなるくらいだ。


「じゃあ行こうか」


 僕はあらかじめ買っておいた切符を詩織に渡し、目的地へと先導する形で向かった。

 休みの日に僕たちが学校の外で会っているのには、当然理由がある。

 水曜日に僕が詩織に話しかけてから、翌日、その翌日も放課後に僕たちは教室で実行委員の作業をしていた。

 そして、十六日の文化祭を三日前に控えた金曜日のこと。

 僕はとある書類に注意を引かれていた。そこには『当日までの買い出しリスト』と記載されている。

 そのリストには、コーヒーメーカーやホットサンドプレートといった当日出されるメニューに関わるものや、看板用の自立型ブラックボードといった備品まで様々な項目が並べられていた。

 驚いたのはその量だ。あらかじめ準備が必要なものに関しては、ほとんど教室内で済んでいたものの、当日のために必要なものはまだ多く存在する。

 それを見た僕と詩織の「これ、一人で買いに行くつもり?」「うん」「量多くない?」「……」といった会話の末に僕は買い出しを手伝うことになった。

 なった、と言っても一方的に僕が詩織に集合時間と集合場所を告げただけだ。

 もしかしたら来てくれないのではないかと心配していただけに、詩織の姿を駅で認めたときは心の底から安心した。

 それにしても、もし僕がいっしょに行かなかったらどうするつもりだったのだろうか。

 明らかに一人では多すぎる量の買い出しを何回もかけて往復するつもりだったのだろうか。

 その姿を想像すると、僕は買い出しを申し込んで良かったと思った。

 二駅ほど電車に乗ったところで、僕たちは駅すぐそばのホームセンターへ向かった。店内には家具や家電といった日常に必要なものから何に使うのかも想像できないような工具がずらりと並んでいる。

 僕たちはリストに載っているコーヒーメーカーやブラックボードを購入して、店を後に出た。

 その後も大型のショッピングモールを回って、食器やカップ、コーヒー豆、衣装用のリボンなど買い出しリストに載っているものを順に購入して回った。

 リストのチェック欄に印が入っていくのが妙な達成感を与えた。

 しかし、ここで一つ問題が起きた。

 はじめは全部持つぐらいの気持ちで荷物を全て詩織からもらっていたが、さすがに両手で持ちきれないほどの量になってきたのだ。荷物持ちぐらいはできると思っていたが、あまりにも量が多く、袋を握る手が痺れて、足が重くなってきた。

 どうしようか悩んでいたが、思わぬところからその問題は解決した。

 僕の隣を歩いていた詩織が、無言で僕から荷物を奪ったのだ。その量は半分にも満たなかったが、僕の心は実際の重量以上に軽くなった。そのときの詩織の表情はちゃんと見えなかったけど、少しだけもとの世界と同じ詩織が垣間見得た気がした。

 思いの外、早く買い出しを終えた僕たちは駅へと戻っていた。

 駅中央にそびえ立つ時計塔に設置された針は、真上から九十度の方向を指していた。

 隣で立つ詩織はただ時計を見上げるだけで、その心の中までは読み取れない。

 目的を終えた僕たちは、本来ならここで別れるはずだ。

 だが。


「高島さん、よかったら少し遊んでいかない?」


 僕は勇気を出して詩織を遊びに誘ってみた。

 僕たちが今日いっしょに行動したのは、あくまで文化祭の買い出しのためで、それが終わった今、僕たちが共にいる理由は消滅してしまった。

 だけど、ここでそのまま別れたらきっと事態が進展することはない、そんな風に思えた。

 多少賭けだとしても僕は踏み込まなければいけない。

 詩織は僕の誘いに迷っているようだった。

 はじめて話した数日前なら即答で断られていただろう。

 たっぷり悩んだ結果、ボソリと呟いた。


「特に予定もないから」


 どうやら詩織は誘いに乗ってくれるようだった。

 僕は多分、その日一番の笑顔を浮かべていたと思う。


「良かった。どこか行きたいところある?」

「私は別に」


 詩織は特に希望を出さない。

 こういうとき詩織は何を望んでいるのだろう。

 詩織が好きだったものは何だろう。

 僕は頭をフル回転させて、思い出していた。

 もとの世界で僕たちはいつも四人で遊んでいた。だけど、その内容を決めるのは大体いつも千鶴か秀一だ。二人がやりたいことを言って、僕と詩織がそれについて行く。そんな場面が多かった。だから、詩織が行きたいところというのが僕にはわからなかった。

 時間をかけすぎて詩織の気が変わってしまってはいけない。

 そう思ったとき、ふと過去日記に書いた詩織の秘密を思い出していた。僕が二人に過去日記のことを信じてもらうために書いた僕たちだけしか知らない秘密だ。

 詩織の秘密が頭をよぎったとき、僕はある場所に足を向けていた。

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