哀愁の背中
改めて秀一に僕たちの置かれている状況を説明した。
もとの世界での僕たちの関係性。僕が世界を移動することになったときの詳しい状況。
一通りの説明を終えたところで、秀一が顎に手を置いて唸った。
「聞いた感じだと、もとの世界に戻るのはそんなに難しくなさそうだけどな」
「本当!?」
さらっと言い放つ秀一に、僕は身を乗り出していた。
「あぁ、要は高島が書き換えた事実っていうのは、俺たちが仲良くなったきっかけとなる出来事だ。おそらく、その事実をなかったことにした。何のためかはわからねぇけど」
「うん」
「ということは、高島がなかったことにしたその出来事をもう一回書き直してやればいい。高島が書き直す前の状況にな」
「なるほど!」
秀一の言う通り、詩織が書き換えた事実はきっと僕たちがいっしょに行動するようになった出来事だろう。それを、日記で改竄してしまったせいで、僕たちは友達という関係ではなくなっている。つまり、その出来事を元に戻せば、僕たちは再びもとの関係に戻る……はずだ。
そのきっかけとなった出来事を探る。
僕が詩織に初めて出会ったのは中学の入学式だ。それから……、あれ、僕たちはいつ話すようになったんだろう。
助けを求めるように秀一の方を見ると、秀一は手を挙げてため息をついた。
「俺に聞くなよ。俺は高島と話した記憶なんて持ってないんだから、ヒロの記憶だけが頼りなんだぞ」
「待って、そうだ。中一の夏休みには四人でキャンプに行ったはず。それまでに何かきっかけがあったと思うんだけど」
「中一の春から夏にかけて、ってところか」
秀一は僕のカバンの中を漁り始めた。何をしているんだろう、と思ったが取り出したそれを見て、僕はすぐに納得がいった。
取り出されたのは十一冊の日記、すなわち過去日記だ。表紙には、2020年から2030年までのものが存在する。なぜ十一という中途半端な数なのかというと、千鶴が日記として買ってきた十冊セットのノートに一冊おまけとしてついてきたからだ。十年近く前に購入されたものということもあって、随分年季が入った日記となっている。
秀一は十一冊の日記をディーラーのように机の上に並べた。
「俺たちが中一のときだから2025年か……おっと、これか」
日記の上を横にスライドしていた僕たちの目線がそこで止まる。
表紙に大きく2025年と書かれた一冊の日記。
「おそらく高島は、この日記の何かを書き換えたはずだ。だから後はこれの中身を確認すれば……」
僕は差し出された一冊の日記を受け取り、表紙をめくった。久しぶりに開いたそのノートは前に見たときよりも色褪せており、少し埃っぽかった。四年前の僕が己の存在証明のために書いた日記。それを、こんな形で開くことになるとは思わなかった。
春先から夏にかけての日記の中身を確認していく。そこには、中学に入学したことや、千鶴が同じ学校で驚いたこと、秀一と友達になったこと、様々な出来事が書き記されている。だが、そのどこにも詩織の記述はない。
僕は確かに中学一年のときに詩織と仲良くなって、四人で何度も遊んだのだ。しかし、このノートにはその軌跡が一切記されていない。まるで、僕の記憶が、僕の存在が否定されているようだ。だけど、違う。間違っているのは僕じゃなくて、この世界の方だ。
僕は一日ごとに、日記に書かれた事実を丁寧に眺めていく。気がつけば、四月一日から夏休みが始まる七月二十日まで僕は確認を終えていた。
「ダメだ。詩織が何を書き換えたのか、まったくわからない……」
そこに詩織に関係しそうな出来事は一つも書かれていない。必死に記憶の糸を手繰り寄せるも、糸はその全容を見せることなく千切れてしまう。
見えかけていた一筋の光が、暗い天井に覆われてしまう。八方塞がりだ。
「どうしよう……」
「悪いが、さっきも言ったように、このことに関して俺の記憶はまったく役に立たないからヒロ頼みだ」
さすがの秀一もこれにはお手上げのようだった。今目の前にいる秀一は、詩織と話したこともほとんどないというのだから、しかたない。
自分の力で何とか、詩織が書き換えた出来事を特定しなければならないのだが……。
何度日記を見返しても、結果は変わらなかった。
万策尽きた僕の隣で、秀一も日記をパラパラと捲っていた。
「そうだな……。やっぱり思い出す以外に方法はないと思うが、こっちの世界の高島と友達になるっていうのはどうだ?」
「どういうこと?」
「記憶の追体験、というより再現か。ヒロが忘れてしまってる高島と仲良くなったときの状況を再現して、記憶を思い出そうって作戦だ」
秀一の突飛な提案に疑問を抱く僕だったが、その説明を受けて納得する。
日記を見返しても、詩織と仲良くなったきっかけとなる出来事が特定できない以上、このままではもとの世界に帰ることは難しい。それなら、秀一の案にも一理あるような気がする。
「わかった。日記を見返して思い出すのと並行で、こっちの詩織と仲良くなってみるよ」
こちらの世界の詩織と仲良くなる。その過程で僕が忘れてしまった中学一年の出来事が蘇れば、僕はもとの世界に戻ることができる。
「いいんじゃないか、それに今ならチャンスかもしれない」
「チャンスって?」
「ヒロもさっき見ただろ。高島が一人で、教室でプリント抱えてたとこ。高島はクラスの文化祭実行委員だから、それを手伝えば仲良くなれるんじゃないかって話」
「なるほど。でも実行委員って男女一人ずつだよね?」
「あー、男子の方は高木なんだが、あいつ部活ばっかり行っててな。その分の仕事を高島がやってるのかも」
それは仕事の押し付けじゃないか。教室の中で一人プリントの山と向き合っていた詩織の姿が脳裏によぎる。
僕は高木と同じクラスになるのは今年が初めてで、この三ヶ月もほとんど話したことがない。だから、高木がどんな性格なのかわからないけれど、高木が仕事を放棄してしまったら、詩織はそれを一人で全部背負いこみそうな気がする。
「詩織は何も言ってないの?」
「高島がどう思ってるかはわからないな。高島も立候補したわけじゃないから、もしかしたら内心は嫌なのかもな」
「立候補じゃない?」
「あぁ、クラスで立候補を募ったけど、誰も手が上がらなかったんだ。で、男子はじゃんけん、女子は話し合いで決まったらしい」
文化祭実行委員は、クラスで立候補を募り、立候補がいなければ別の方法で決定となる。
実行委員はクラスで行う出し物の企画書や他クラスとのスケジュールの調整など、少なからず必要な仕事をこなさなければならない。そのため、部活動に入っている生徒はあまりやりたがらないのが実態だ。今は運悪く、秀一と同じサッカー部の高木が実行委員に選ばれてしまっている。
「話し合いって、もしかして詩織が押し付けられたの」
「いや、男女別々に分かれて決めてたから見てないが。だけど、普段クラスで浮いてる高島が押し付けられたのはあるかもな」
秀一によると、この世界での詩織はクラスの中でも浮いた存在となってしまっているらしい。それは詩織本来の大人しい性格に起因するところもあるが、何より詩織が気楽に話せる相手がいないことが大きそうだ。
もとの世界では、詩織は口数は少なくとも、クラスの中で浮いているということはなかった。それは、僕や秀一、千鶴がいつも側にいたからだ。しかし、この世界での詩織はクラスの中で誰とも話さず、一人で本を読んでいることがほとんどらしい。
そんな詩織が面倒な文化祭実行委員を押し付けられたとういうのは、十分にあり得る話だ。
「わかった。文化祭実行委員は交代できないけど、高木に言って僕が詩織を手伝うようにするよ」
「良いと思うぜ。今日はもう遅いから明日の放課後からだな」
「だね」
方針が決まったところで、ちょうど帰宅のチャイムが鳴った。別棟の物理準備室にいたためか、普段よりも小さく聞こえるその音は、しかし妙に僕の心に響いた。
机に広げた日記をカバンに詰め込み、埃っぽい物理準備室のドアに鍵をかけたところで秀一と別れた。秀一は鍵を返して、練習終わりの部活の方にも顔を出すらしい。
廊下は夕暮れの陽の光を浴びて、オレンジ色の空間を作り出していた。
そういえば、千鶴の事件の影響で今は帰宅時間がいつもより早くなっているのだ。また、帰宅時はできるだけ集団で帰るようにとの教師からの注意もあった。
ふと、昨日の放課後の詩織との帰路を思い出す。
この世界の詩織は、いっしょに帰る人がいるのだろうか。
僕は心配になって、教室を覗いてから帰宅することにした。別棟を渡って、本校舎三階の教室にたどり着くと、部屋の電気はすでに消えていた。詩織は先に帰ったのだろう。安心する一方で、一人で歩く詩織の後ろ姿を想像して、妙に切なくなった。
陽の落ちかけた頃、僕は学校と家の中間にある遊歩道を歩いていた。事件の影響か、いつもなら散歩する人影が見えるこの道も今日は僕の貸切だ。放課後はよく僕の家に向かうためにこの道を四人で歩いたものだった。一人で歩くその道は、何倍も広く感じる。失くしてしまったものを取り返さなければならない。この世界から。
僕は早足で帰路へと着いた。
家に着いて、僕はもう一度日記を確認した。あまりにも日記の内容と記憶が食い違っているせいで、自分の記憶に自信がなくなってくる。それは日記だけではない。アルバムを開いても、四人で写っていたはずのキャンプの写真、修学旅行の写真、卒業式の写真。そのすべてから一人の女の子が消えていた。まるで初めからそうだったように。
気が滅入りそうになった僕は、それ以上考えることから逃げるように布団へと入った。
明日から詩織に話しかけよう。
そう決意して、僕は眠りに落ちた。
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