純白の後悔
職員室の前の廊下で、袖を掴まれて立ち止まった僕は、驚いてその女子高生の顔を覗き込んだ。間近で見てもその均整が崩れることはなく、美しいままだ。だけど、僕にはこんなアイドルのような知り合いは一人しかいない。
妙に甘い香りに逸る心臓を抑えて、僕はその女子高生に尋ねる。
「えっと、すみません。誰だかわかりませんが、人違いでは」
「人違いじゃないよ、ヒロくん」
抑えていた僕の心臓がどきりと跳ねた。目の前の女子は、その透き通るような声で、確かに僕の名前を口にしたのだ。繰り返しになるが、僕にアイドルのような知り合いは一人しかいない。
「君は一体……」
「私は水野亜希、って言えばわかるかな」
水野亜希、最近どこかで見た名前だった。
記憶の糸を手繰りよせようとするが、上手く思い出せない。
僕の考え込む態度に、水野と名乗った女子は大げさに肩を落とした。そのまま恨めしそうに「ショック……、これでも少しは有名になってきたと思うんだけどなぁ」とつぶやいた。
有名、その言葉で僕はとある新聞記事のタイトルを思い出した。
そうだ。
あれはここではない別の世界で見た記事。
『人気アイドルグループ所属、水野亜希の素顔に迫る!? その人気の秘訣とは』だ。
つまりこの子は、千鶴がアイドルでなくなった世界で、代わりに特集を組まれていた女の子なのか。
「千鶴と同じアイドルグループの、水野さん?」
「そ。ようやくわかってもらえたみたいだねー」
事も無げに肯定する水野。
だが、特集を組まれるほどの有名なアイドルが、なぜこんなところに。その疑問は秀一が引き継いでくれた。
「で、その人気アイドルがどうしてこんな場所にいるんだ? それに何でヒロの名前を知ってる」
「ちづるんに教えてもらってたからだよー。ちづるんの彼氏を一目見ておきたくてね」
ちづるんというのは、十中八九千鶴のことだろう。そうでなければ、水野が僕に接触してくる理由はない。しかし、妙な勘違いもある。
「僕は別に彼氏じゃないけど」
「あれ、違うの? ちづるんがよくヒロって人の名前を出して楽しそうに話してたからてっきりそうだと思ってたのに」
僕は少し驚いていた。千鶴がアイドルになってからは、彼女と連絡を取ったことはない。だから、この一年間の千鶴の交友関係などは一切知らないのだ。だけど、今目の前にいる水野は親しげに千鶴の名前を口にする。芸能界のことはわからないけれど、千鶴にもアイドル仲間がいたのかと思うと、僕はなぜか安堵した。
「君のことも知ってるよ。秀一くんでしょ。いやー、イケメンだね。私と付き合う?」
「いや、遠慮しとく。それよりここにきた理由をちゃんと……、って、そうか。おばさんが言ってた東京からの友達って、水野のことか」
「ちづるんのおばさんのところなら昨日行ったよ。多分私のことだろうね」
そういえば昨日、僕たちが千鶴の家へお見舞いに行ったとき、千歳さんが東京から来てくれた友達がいたと言っていた。そういうことかと、得心する。水野は千鶴の事件を知って、お見舞いのためにこちらに飛んできたのであろう。
「でも、どうしてわざわざ僕たちのところに来たの?」
「それは……、ちづるん、最後に何か言ってなかったかな、って」
「どういう意味?」
「君でしょ? ちづるんが刺される前にいっしょにいた人って」
「え、僕?」
「何言ってんだ。俺とヒロは桜木が殺された日、昼はずっといっしょにいたぞ。ヒロ、夜からどっか行ったのか?」
水野は言いながら僕を指差す。だけど、そんな心当たりは一切なかった。
千鶴の事件があった日の記憶を必死に辿る。あの日は、僕は別の世界で千鶴とテーマパークに行っていた。それから夜九時ごろにはこっちの世界に戻っていて、そのまま疲れて寝たはずだ。つまり、この世界で僕と千鶴は会っていない。
「いや、夜は九時には寝ちゃったからどこにも行ってないよ」
「あれー、おかしいな。ちづるん、『大切な人に会いに行く』って東京から急に飛び出して行っちゃったから、てっきりいつも話に出てくるヒロくんのことだと思ったんだけど。うーん、違うのかなー、でもなー……」
大げさな動きで頭を悩ませる水野。だけど、僕はそんな動きよりもその言葉に引っかかっていた。『大切な人に会いに行く』と言って、千鶴は東京を出た。僕はてっきり帰省中にたまたま通りかかった犯人に殺されたのだと思っていたけれど、今の話を聞くとその会いに行く人というのはとても怪しい。
「その話、詳しく――」
僕が一歩水野に踏み込んだそのときだった。
視界がぐらりと揺れる。この感覚は、と思ったときには、僕はすでに真っ白な空間に放り出されていた。
間違いない、別世界に移動する瞬間に訪れる謎の空間。
だけど、僕は日記を使っていない。一体、何が起こっているのだ。
困惑する僕の頭が現実に帰ってきた。
僕が状況を確認するため、「秀一!」と呼びかけたときだった。さっきまで、隣に立っていたはずの秀一はどこにもいなかった。それどころか、僕が詰め寄った水野も僕の目の前から消えている。
僕は職員室の前で一人立ち尽くしていた。
背中にじんわりと冷たい汗が流れ落ちる。思わず誰もいない空間で「何だこれ……」とつぶやく。何が起こったんだ、僕のこの異常な事態は間違いなく別世界への移動が原因だろう。しかし、僕は日記を使っていない。日記は今、教室にあるはずだ。教室には詩織が……。詩織?
気がつけば、僕は教室へと走り出していた。階段を降りてくる生徒とぶつかりそうになったが、今はそんなことを気にしていられない。嫌な予感が胸を満たしていく。何か自分では制御できないような、とてつもない何かが知らないうちに悪い方向へ向かっているような。
そんな予感を感じながら開けた教室のドアの向こうには、一人の女子が座っていた。
詩織だ。
僕たちが先生に呼ばれて教室を出る前と同じ場所にいる詩織の姿に、僕は安心した。
座っているのは詩織一人で、あたりには他に人影はない。
「詩織、良かった。秀一はどこにいる?」
僕の呼びかけに詩織はびくりと肩を揺らし、恐る恐るこちらを振り向いてくる。その瞳は僕がいつも見てきた穏やかな温もりがなく、どこか余所余所しい印象を与えた。
「八坂……、くん? さあ、月見くんのことは知らない」
詩織は突き放すようにそれだけ言うと、僕から視線を外した。そして、これ以上話すことはないと言わんばかりに手元のプリントに向かって、何かを書き始める。
その様子に僕は激しく混乱した。
目の前にいるのは確かに詩織だ。
だけど、よく見れば髪の色が僕たちがはじめて会ったときと同じ漆のような黒色だった。ありえない。僕と秀一が先生に呼び出される前、詩織は確かに太陽を透かしたような茶髪だったはずだ。それが短時間で髪の色が変わるなんて。
それに……、詩織は僕と秀一のことを下の名前で呼ぶ。それなのに今詩織は確かに言ったのだ。八坂くん、月見くんと。
悪い冗談だと思った。だけど、詩織が冗談でそんなことをするような性格じゃないことを僕は誰よりも知っている。
僕が立ち尽くしていると肩にポンと手を置かれた。
「やっと見つけた、ヒロ。何してたんだ? さっさと物理準備室に戻るぞ」
振り向くと秀一が校内を走り回ったのか、少し息を切らして立っている。いつもと変わらない秀一。依然混乱したままの頭だったが、ひとまずその姿に僕は安心していた。
「ま、待って。秀一。詩織が」
「何言ってんだ? 先行くぞ」
僕が制止しようとするも秀一はさっさと物理準備室の方へ足を向けるのだった。僕は教室の中で一人プリントと睨めっこする詩織を盗み見てから、一旦秀一についていくことにした。
校舎別棟の物理準備室に入ると、まず埃の匂いが飛び込んできた。地球儀や台車といったよく授業で見るものから何をするのかもわからない未知の器具までぎっしりと詰め込まれている。こんなところで、僕と秀一は何をしていたのだろう。
秀一は器具がたくさん置いてある机の上を雑にどかすと、その角に座って切り出した。
「それで、桜木を助ける話の続きだが」
秀一がいつも通りの調子で話を切り出す。自然に話し始める秀一だが、ここには一人足りない人物がいる。
「ちょ、ちょっと待って。詩織は?」
「詩織、って。あぁ、高島のことか。ヒロ、高島と仲良かったっけ? 高島がどうしたんだ」
僕は再びハンマーで殴られるような衝撃を受けた。嫌な予感が像を結んで現実世界に現れたような。僕は否定されることを願いつつ、その像の姿を確認する。
「秀一、千鶴を助けようとしてるのって僕たち二人だけ?」
「当たり前だろ。俺とヒロで過去日記を使って、桜木を助けるんだろ」
「僕たちはどうして物理準備室に来たんだっけ」
「どうして、って。高島がクラスで作業してるのに過去日記の話ができるわけないだろ」
嫌な予感の正体は、かくしてハッキリと姿を現した。
どうやら僕がさっき感じた世界の移動によって、僕たちと詩織は友達ではなくなっているようだ。
あり得るはずのない事実を、しかし目の前の残酷な現実は突きつけてくる。僕の心を抉るように。
だけど、どうしてこんなことになったんだ。僕と秀一が園田先生に呼び出されている間、詩織は教室で一人だった。そのときに過去日記を使って、何らかの過去を書き換えたのだとしても、何がどうなれば僕たちと詩織が赤の他人になっているのか見当もつかない。
「ヒロ、どうした。お前、顔が真っ青だぞ」
考えすぎてクラクラする頭を抱えていた僕を現実に引き戻したのは秀一の声だった。秀一は、当たり前だが世界が変わっていることに気付いていない。だから、このズレた現実を認識していないのだ。
まずは、状況を共有しなければならない。
僕は秀一に詩織のことを話した。僕と秀一、千鶴と詩織。僕たち四人は中学からずっといっしょに遊んできたこと。千鶴が殺されて、僕と秀一、詩織の三人で千鶴を救おうとしていたこと。そして……、僕と秀一が教室から離れている間に詩織が過去日記を使って、世界を書き換えたこと。
秀一は黙って僕の話を聞いていた。途中、信じられないといった表情を浮かべていたが、僕が真剣であることを察して、口を挟まないでいてくれた。全部話し終えたところで、秀一の顔を見る。
秀一はやはり困惑していた。それから、「ちょっと待ってくれ」と言って、ぎっしりと実験器具たちが詰まった物理準備室の中を歩きながら、ブツブツと何かをつぶやいている。部屋を五周したところで、秀一は歩みを止め、僕の前で立ち止まる。
「状況は大体わかった」
「信じてくれるの?」
「ヒロがそんな悪趣味な嘘をつくはずがないだろ。それに、桜木を助けようとしてるのが俺たち二人だけだって答えたときのお前の顔、ひどかったぞ」
一体どんな顔をしていたのだろうか。自分でも覚えていないが、この世の終わりのような気持ちで尋ねたのだ。それはひどい顔をしていたのだろう。
「それで、ヒロはどうしたいんだ?」
「どうしたい、って?」
「俺たちは桜木を助けるために過去日記を使うって決めたんだろ。だけど詩織……、いや高島が何故か過去日記を勝手に使って、俺たちとの繋がりがなくなった。高島がいなくても桜木の件を続行することはできなくもない。だから、このまま桜木を助けるのか、高島との関係をもとに戻すのか、どうしたいのか、って聞いてる」
話の内容を聞かなければならないのに、僕は秀一が詩織の名前を言い直したことに胸がチクリと痛んだ。この世界の秀一は詩織と話したこともほとんどないというのだからそれはしかたない。頭では理解していても、僕たちが過ごした日々が否定されているようで、心は耐えきれなかったのかもしれない。
僕は秀一が提示した選択肢を吟味する。
千鶴を助けるか、詩織との関係をもとに戻すか、か。
僕はもともと千鶴を理不尽な魔の手から救うために過去日記を使って、千鶴が生きている世界を創ると決心した。
僕と千鶴、そして秀一の三人で以前のように遊んでいる姿を想像する。
僕は、その光景に気持ち悪さを感じた。
当然だ、そこには一人欠けている人物がいる。僕たちは四人揃ってはじめて”僕たち”なのだから。
このまま千鶴を助けるために動くことを、僕は想像することができなかった。
「もちろん千鶴を助けるし、それに詩織との関係も戻す。でも、まずは詩織との関係を戻す方を選ぶよ」
「ま、妥当だな。桜木を先に助けたとしても、おそらく少なからず世界は書き換わる。そこから高島との関係をもとに戻すのは、今より難しいかもしれない」
秀一は僕の答えに理論づけて納得してくれているようだ。
だけど、秀一はまだ何か僕に言いたげだった。
「一つ確認しておきたいんだが、高島は自分で日記を書き換えたんだよな」
「うん、そうだと思う」
秀一は何を言いたいのだろう。その真意がわからなかった。
呆然としている僕に言いづらそうな表情を浮かべながら、秀一は切り出した。
「なら、これはあくまで可能性だが、向こうの世界の高島が俺たちと縁を切りたかった、っていうのは考えられないか」
言葉にならない声が出る。反射的に机を両手で叩いて、身を乗り出していた。
それを冷静さを保ったままの秀一が手で制す。
「いや、待て。あくまで可能性で、けど、そういうこともあるかもって話だ。高島が故意に俺たちとの関係性を断ち切ったのじゃないか、っていうな。それでも、ヒロは元の関係に戻すことを選ぶのか」
考えたこともなかった。詩織が僕たちと関係を断ち切りたい、なんてことを。ありえないと思う。目の前にいる秀一は僕たち四人がどんな風に同じ時間を共有してきたかを知らないから、こんなことが言えるんだ。
だけど。だけど、もし詩織が本当にそう思っていたらどうなのだろう。人の心はわからない。自分の心ですらその全てを把握できるわけではないのだ。いわんや他人の心をや。もしかしたら、詩織は何か致命的な不満を抱えていたのだろうか。
暗い推測が僕の頭をよぎった。
だけど、もし秀一の言う通り詩織が何か胸の内に抱えていたのだとしても。
僕の心はやっぱり変わらない。
「うん、詩織との関係を戻すよ。もし、ありえないと思うけど、万が一詩織がそう思っていたとしても、僕はそれを詩織から直接聞くべきだと思うから」
僕の言葉に秀一は驚いた表情を浮かべる。それは、僕が過去日記の話をしたときよりも、詩織の話をしたときよりも驚いていたかもしれない。
「ヒロはすごいな。俺は、時々お前のことが羨ましくなるよ」
「何言ってるのさ。秀一の方がすごいじゃないか。今だって、僕たちのことを考えて、何をするべきかをすぐに導いてくれている」
「俺はヒロが思うような人間じゃないよ」
突き放したような言い方に、内心ひどくびっくりした。
僕が知っている限り、秀一は誰にでも優しく、人を傷つけるような言い方はまずしない。だけど、今のは明らかに僕の反論を許さない、そんな強い拒絶を感じた。
その神妙な空気を振り払うように、「さて、それじゃ高島の件を何とかするか」と秀一は手を叩いた。
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