利己の宣言

 七月十日。

 千鶴の家へお見舞いに行き、秀一と詩織に日記のことを話した翌日。

 昨日とは打って変わって、太陽が天高く昇り、眩しいほどの陽光が教室を満たしている。必然、教室の中は快適というよりも蒸し暑いといった状態だ。

 放課後の誰もいない教室で、僕たちは互いに顔を見合わせ、誰から話を切り出すかを探る。

 虫の音だけが響く中、机の角に座りながら腕を組んでいた秀一がその腕を解いた。


「それで、ヒロが持ってる過去の自分の行動を変える日記、長いから過去日記でいいか。それを使って桜木を事件から助けるって話だよな」


 過去を書き換える日記、過去日記。

 日記は基本的に過去の行動を記すものだから少し違和感はあるものの、呼びやすくて良さそうだ。

 僕は頷き「うん、そのために――」と本題に入ろうとしたところ、続きを阻むように秀一が言葉を重ねた。


「ちょっと待て。その前にヒロ、お前それがどういうことか理解してるか?」

「どういうこと?」

「お前は人を殺すことができるか、ってことだ」


 その物騒な単語に心臓がどきりと跳ねる。だけど、秀一の真剣な瞳はまっすぐ僕を捉え、逃がそうとはしない。

 秀一の言葉の意味が理解できなかった。僕はただ過去日記を使って千鶴を助けようとしているだけで、他の誰かに危害を加えるようなことはするはずがない。まして、人を殺すだなんて。

 助け舟を出してくれたのは、隣でじっと空気が緊張するのを眺めていた詩織だった。


「秀一、何言ってるの? ヒロはちーちゃんのために何かしようとしてるんだよね」

「ああ、そうだ。だけど、桜木を助けるってことは他の人間を殺すかもしれない、ってことだ」

「ごめん、秀一。わかるように言ってくれ」


 要領を得ない秀一の言葉に僕は少し反抗的な気持ちになっていたのかもしれない。言葉に少し棘が入ってしまった。


「ヒロは殺された桜木のことを過去日記を使って、桜木が殺されない世界を創ろうとしているんだろ。ってことは、桜木以外の死んだ奴はどうする? 例えばこの十年間、死亡者が多かった出来事って言えば関東で起きた震災とかか。あのとき、死者は確か数万人にも登ったって話だ」


 関東の震災といえば、ここ十年で日本に起きた一番大きな災害だ。震源地は東京の直下。マグニチュードは9.0。巨大な揺れは、高層ビルの数々をなぎ倒した。多くの箇所で火災が発生し、沿岸部では津波により、多くの建物、人が飲み込まれた。死者の数は……、世界でも記録的なものだ。二十一世紀の悲劇として、後世まで語り継がれていくであろう。

 だが、その震災と今の僕たちの状況がどう絡むのか、いまいちわからない。


「ちょ、ちょっと待って。秀一の話が見えないんだけど。確かに震災で数万人なくなったのは事実だけど、それと千鶴の事件に何か関係があるの」

「つまり。お前はやろうと思えば、過去日記を使ってその数万人の死者を救えるかもしれないってことだ。もちろん全員は無理だけどな」

「僕がその人たちを救える、って……。過去日記で予言するってこと? でも、それは……」


 それは間違っている。明確な根拠が挙げられる訳ではないものの、そう確信していた。

 秀一も同じ考えのようで、僕の考えに補足する。


「あぁ。俺もやるべきじゃないと思う。亡くなった人たちには申し訳ないけど、自然災害に巻き込まれた人を歴史を捻じ曲げて助けるのは違うと思う。だけど、ヒロが桜木を助けてこの人たちを助けないってことは、ヒロが見殺しにしたとも言える。お前は、恣意的に世界に存在する人間の生死を操ろうとしている。神にでもなるつもりか」

「そんな言い方しなくても、ヒロはただ」

「わかってるよ。ただ確認したかっただけだ」


 秀一の厳しい言葉は、僕の胸を突き刺した。

 確かに僕は、僕が助けたいからと言う理由で、他の人たちを見捨てようとしている。もちろん積極的に見捨てようとしているわけではない。だけど、助けられる可能性があるのに助けないのだ。自然災害で亡くなった人を除いても、事件性のあるものだけでもこの十年の死者は数万人は下らないだろう。

 不幸は、世界のどこにも広がっているのだ。

 そんな不幸を全て取り除くことなんて、きっとできない。

 僕の行動を咎められる人は世界のどこにもいない。だって、千鶴を助けた世界で、それを覚えているのは僕だけなのだから。だけど、もしそんな行動を咎められる人がいたとしても、僕の心はもう固まっている。

 僕は正面から秀一と向き合う。


「秀一の言いたいことはわかった。……だけど、僕は千鶴を救うよ。それは僕が神だからじゃない。今の僕がここにいるのは千鶴のおかげだからだ。だから僕は、僕のエゴで千鶴を助ける」


 これが僕の答えだ。

 もし幼い頃に千鶴と出会っていなかったら、僕はきっと今のような人生は送れていない。秀一と詩織とこんな風に笑っていることもできなかったと思う。僕は彼女に生きる希望を貰ったのだ。だから、そんな僕だから、彼女のために命を燃やせる。誰でもない、彼女だけのために。

 秀一はその答えに、「そうか」と小さくつぶやいた。


「ならその問題はいい。だけどもう一つ問題がある。さっきのは見殺しにするのか、って話だったが今度は本当にヒロが人を殺してしまうかも、って話だ。バタフライエフェクトって聞いたことあるか?」

「一匹の蝶の羽ばたきが竜巻を起こす、って話?」

「そうだ。ヒロが過去を書き換えることで、おそらく世界は分岐してしまう。ヒロが日記を書き換える前の世界と書き換えた後の世界に、だ。平行世界と言ってもいい。そのとき、ヒロの行動自体の変化は些細なものでも、その後の世界への影響は甚大になるかもしれない。つまり、意図せず誰かに不幸を与えたり、場合によっては誰かの存在そのものを消してしまう可能性もある」


 馬鹿げた話だ、と断ずることは難しかった。なぜなら僕は既に世界が変わってしまったところを実際に体験してしまっていたのだから。その世界では、僕と千鶴が付き合っていることに誰もが疑問を持っていなかった。もしかしたら僕は、知らないところで誰かの幸せを奪っていたのかもしれない。あくまで可能性の話ではあるけれど、僕にそれは有り得ないと言い切るほどの自信はない。

 でも、だからこそ僕は過去日記のことを秀一と詩織の二人に話したのだ。


「僕一人だったらもしかしたら誰かに不幸を与えてしまうかもしれない。それは否定できない。でも、だからこそ、二人に手伝って欲しいんだ。秀一は僕よりずっと頭が良い。きっと他の人が不幸にならないような方法を思いつくことができる。詩織は僕と秀一をずっと見てきてくれた。僕たちが間違いそうになったときは、きっと詩織が止めてくれるって信じてる」


 僕たちは誰よりも長く同じ時間を共有してきた。そんな僕たちだからこそ、心からその能力を信じることができる。きっと、それは僕だけの一方通行ではないはずだ。

 僕の答えに秀一は満足げな笑みを浮かべ、詩織は任せてと小さく胸を叩いた。


「ま、そこまで信頼されちゃ何も言えないな。悪かったな、お前を試すようなこと言って。脅かすようなことを言ったが、天才の俺に任せりゃ、そんなことは起こらないから安心してくれ」

「秀一、調子良すぎ。でも、私も精一杯手伝うから、ヒロは安心して」


 この瞬間、僕たちはようやく気持ちを一つにしたような気がした。

 僕は秀一と詩織を信頼して、秀一と詩織も僕を信頼してくれている。人の心なんて見えないけど、きっと僕たちに限っては別だと思う。

 緊迫していた空気を取り払うかのように秀一がパンと手を叩いた。


「じゃ、気を取り直して、桜木を助ける方法を考えるか」

「うん、そうだね。まず、やらないといけないことは……」

「桜木が殺された原因を特定することだな。さっきの話にも通じるが、過去日記を使って変える未来はできるだけ今と差分が小さい方がいい。これは余計な変化を産んで、誰かに危害を加えないためだ」

「だから、そのために僕たちは千鶴が殺された原因をピンポイントで特定して、それを回避するように過去日記を使う」


 僕と秀一がやるべきことを整理する。

 過去日記を使うにしても、どこを書き換えればいいのかがわからないと話にならない。まずは、千鶴が殺された事件のことについて、詳しく知る必要があるのだ。


「ちーちゃんが襲われた理由……。犯人は通り魔って報道で言われてたよね? 元ちーちゃんのファンとか」

「ファンがアイドルを襲うか?」

「理由はわからないけど、熱烈なちーちゃんのファンだったとか」


 千鶴の事件の報道では、近所の住人からの通報で千鶴が倒れていることが発覚した。そして、現場から立ち去る不審な人物が目撃されている。おそらく、この人物こそが千鶴を殺害した犯人だろう。


「犯人も逃走中、としか情報がないからまだわからないね。何とか、もう少し情報が集められればいいんだけど」

「犯人の情報を集めるのが難しいなら桜木の方を調べたらどうだ? 桜木のその日の行動とか」

「ちーちゃんの行動……」

「そもそも、何で桜木が東京じゃなくて、こっちにいたとか、な」


 僕たちが犯人の行動から千鶴の行動に考えを移そうとしたちょうどそのときだった。

 教室の後方から勢いよくドアが開かれる音が響いた。振り返ると、そこにはクラスメイトの高木が息を切らしながら立っていた。


「はぁ、やっと見つけた。秀一と八坂、先生に呼ばれてたぞ」


 高木は、その恰幅の良い体を上下に動かしながら僕たちの名前を呼んだ。ジャージ姿であることからきっと部活中なのだろう。秀一と同じサッカー部ということもあり、秀一とは仲が良い。


「サンキュー、高木。先生の用件は?」

「さあ、聞いてないけどとにかく職員室まで来いって。じゃ伝えたからな」


 用件だけ伝えると高木は、すぐに下の方へと走っていった。

 高木が言った先生というのは、担任の園田先生のことだろう。だが、僕に呼び出されるような心当たりはない。秀一も思い当たるものがないのか、首を振った。

 僕と秀一は顔を見合わせて少し考えたが、先生のところへ行くことを決めた。ここで職員室に行かなかったことで、後から先生がやってきても面倒だったからだ。

 詩織に送り出されながら、僕たちは教室を後にする。

 三階から二階へ降りて、職員室の前へとたどり着いた。廊下では、吹奏楽部の弦楽器が奏でる音が響き渡っている。うるさくないのだろうかと思ったこともあるが、職員室の扉は防音がしっかり効いていて、中までは聞こえないのだ。

 秀一が職員室の扉を開く。生徒が立ち入りを許されている職員室に入ってすぐの机の前に僕たちは並んで立った。

 それにしても、僕と秀一に用とは一体何なのだろうか。学校では、同じ委員をしているとか同じ部活に入っているとか、そういう関係はないため、僕たちがセットで呼び出されることなんてまずない。

 机の前に立っていると、僕たちの姿を認めた一人の男性が近づいてくる。クールビズのためスーツは羽織っていないものの、シャツをぴったりと着こなしている。ベテランの先生たちと比べると、まだ若い先生だ。


「来てくれたか。八坂、それに月見。こっちに来てくれ」


 担任の園田先生はそういうと、普段は生徒の立ち入りが禁止されている職員室の奥の小部屋へと手招きした。誘われるままに小部屋に入ると、あまり座ったことのないようなふかふかの座り心地の良い椅子に座らされた。どうやらここは来客スペースのようだ。小部屋からは職員室の音は拾えなかった。

 妙に熱がこもっているその部屋で僕は暑さに手で風を仰いだ。秀一も同じように感じたのか、シャツをパタつかせていた。園田先生は、こんな場所でもきっちりと襟元までネクタイを締めている。

 先生自身もソファに腰掛けると、真剣な表情で重く口を開いた。


「二人に話がある。桜木千鶴さんの事件のことなんだが」


 先生の口から出たその名前に思わず僕らはどきりとした。さっきまで過去日記を使って、それをなかったことにしようとしていたのだから無理もない。まさか、教室での話を聞かれたのだろうか。

 だが、その心配は杞憂だった。


「去年まで桜木さんはこの学校に在籍していた。そのこともあって、昨日から少しこの学校にもマスコミが訪ねてくるようになってな。私たち教師が対応する分には良いのだが、たまに生徒に話を聞こうとしてくる者もいるのだ」


 マスコミが来ていたなんて初耳だった。だが、考えてみれば当然のことでもあった。千鶴が殺されたのは、この付近ということもあって、マスコミもきっと多く滞在しているのだろう。その中で、千鶴が通っていた高校ともなれば、報道のネタ欲しさに押しかけてきていても不思議ではない。


「八坂と月見は特に桜木と仲が良かっただろう。だから、押しかけて来られたんじゃないかと思って心配になってな」

「僕は、特にそういったことはありません」


 先生の質問に答えながら、僕は僅かな不信を覚えた。先生は、千鶴と仲が良いという理由で僕らを呼び出したと言った。だけど、それはおかしくないだろうか。それならば、本来ここにはもう一人いるべきなのだ。

 だが、僕の疑問をかき消すように秀一が答える。


「俺もです」

「そうか、なら良いんだ。ただ、たまに心無い取材を試みようとする者もいる。だから、そういった人物に話しかけられたときは、私を通すように言ってくれればいい。それを伝えたかった」


 先生はそれだけ言うと、すぐに僕たちを小部屋から追い出した。

 先生なりに心配してくれてのことなのだろうが、もう少し丁寧に扱ってくれても良いんじゃないだろうか。先生はいつも不器用だ。

 簡単に会釈をして、僕たちは職員室を後にした。

 職員室から出ると、扉の前には見たこともない制服に身を包んだ女子高生が壁に背を預けながら佇んでいた。僕は思わず、その姿に見入ってしまっていた。それは、校舎という日常の風景の中であって、まるで写真撮影中に撮った一枚のような雰囲気を醸し出していたからだ。

 制服からほっそりとあらわれるその手足は驚くほどきめ細やかで、廊下の床を眺めるその横顔はまさに美少女と呼ぶに相応しい。僕はいつかの写真集に載っていた千鶴を思い出す。

 僕が立ち止まっていると、秀一がその女子高生の前を横切る。慌てて我に返った僕も、秀一についていこうとして、しかし立ち止まってしまった。僕のシャツの袖が壁に佇んでいた女子高生に引っ張られていたからだ。


「やっと見つけた」


 透き通る声に、僕は再び千鶴のことを思い出していた。

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