虚栄の信頼

 世界を書き換える、口にしてようやくその解決方法を思いついた。

 僕の日記は、過去を書き換えることができる。つまり、過去を書き換えることで、千鶴が殺されない世界を創ればいいのだ。千鶴が世界の理不尽に巻き込まれない世界。

 僕がこの不思議な日記を持っていることは、きっと彼女を救うためだったのだろう、とさえ思った。


「ヒロ、お前何言ってんだよ。さっぱりわかんねぇぞ」

「ちーちゃんを助けるって、……どういうこと」


 秀一と詩織は呆けた顔を浮かべ、僕を見つめた。

 無理もない、僕の言葉は傍目に聴いても意味がわからない。

 二人に説明するため、僕は日記の置いてある教室へと向かった。二人は訝しがりながらも、黙って僕についてきてくれた。

 雨が降りやみ、夕陽が鈍色の雲から地上に向かって梯子をかけるようにその光を伸ばしている。

 校舎にはほとんど人影がなかった。さっきまでの激しい雨できっと部活もなかったのだろう。

 教室にも人は残っておらず、僕たちの席に置かれたカバンだけがぽつんと三つ佇んでいた。僕は自席においてあるカバンから日記を取り出した。

 それを見た秀一が当然の疑問を投げかける。


「それって、桜木からもらった日記か? それがどうしたんだ」

「そう、これは僕が千鶴からもらった日記。僕は十年近く、この日記を毎日欠かさず書いてきたんだ」


 僕はどう説明しようか少し迷ったが、やはり率直に切り出すことにした。


「二人には信じられないと思うけど、この日記に書かれていることを書き換えると、実際にその行動が変わるんだ」

「え?」

「例えば、二週間前の日記に『今日も雨だった。学校に行くのが憂鬱だったけど、何とか登校した』っていう文章がある。これを『今日も雨だった。僕は体がだるくてズル休みした』って書き換えると、実際に学校に”行かなかったことになる”んだ」


 二人は何も言わずにただただ僕の手にある日記を見つめていた。

 たっぷりと時間を置いた後、秀一と詩織の目が日記から僕へと移された。


「お前、大丈夫か。こんなこと言いたくはないけど、桜木の写真を見て頭が変になったんじゃ……」

「いや、僕は冷静だよ。この日記は、本当に不思議な力を持った日記なんだ」

「ヒロ、きっと疲れちゃったんだよ」


 期待に反して、秀一も詩織も僕の話を信じてくれてはいなかった。

 二人とも僕のことを心配してくれている。だけど、僕が欲しかったのは二人の心配ではなく、理解だ。きっと、二人の目には僕の頭が狂っているようにしか見えないのだろう。


「違うんだ、どうやったら信じてくれる……」

「どうやったらって言われても、ヒロの言ってることが証明でもされない限り、こんな話信じられるわけないだろ」


 秀一が吐き捨てるように言う。

 日記を書き換えることによって、実際に過去が書き換わる証明。

 そんなこと果たして可能なのだろうか。

 前回過去を書き換えたとき、秀一も詩織も何の違和感もなく、僕たちが付き合っていることを受け入れていた。つまり、僕が過去を書き換えて新しく世界を創ったとしても、僕以外の人間は、その世界が本来あったはずの世界とは異なることを認識できない。

 だから、僕がいくら世界を書き換えても他の誰かにそれを証明することなんて不可能だ。今ここにいる僕が未来の出来事でも言い当てでもしない限り、きっと二人に信じてもらうことはできないだろう。だけど、現在の僕に未来の出来事なんてわかるわけがない。

 ふと、僕の頭に一筋の光明が浮かんだ。

 そうだ、現在の僕に未来の出来事を知る方法はない。

 だけど、過去の僕に現在の出来事を伝える方法ならあるじゃないか。

 僕は手に持っていた日記をチラリと見る。


「いや、証明する方法ならある」

「え?」

「例えば、一ヶ月前の僕に今日までの天気を教えて、二人に教えるように日記を書き換えるんだ。そしたら、二人からすれば、僕は一ヶ月間の天気を正確に予知したことになる。それなら、信じてくれるんじゃないか」


 僕の考えた方法はこうだ。過去の自分に現在までの出来事を教えることで、過去の自分はその時点から未来の情報を知ることとなる。それを秀一と詩織に伝えることで、未来を正確に予測した僕を信じてもらう、という手筈だ。

 秀一は、顎に手を当てて何かを考えていた。さっきまでの秀一は僕のことを心配するばかりで、まともに話の内容を理解してくれようともしていなかったけど、僕の提案に少しだけ興味を持ってくれたようだ。やっぱり、秀一は頭を使うことに関しては、無意識のうちに真剣に考えてしまうのだろう。

 秀一は考えをまとめるようにつぶやいた。


「それじゃ、ダメだな。いやダメってよりも、弱いっていう方が正確か。一ヶ月前の俺がそこからの一ヶ月間の天気を正確に当てられたところで、ヒロが未来の情報を過去の自分に渡した、なんて話は荒唐無稽に感じるはずだ。だから」

「だから?」

「天気なんかよりももっと俺たちと関わりの深い情報。つまり俺たちの秘密を過去のヒロに伝えればいいんじゃないか」


 秀一の提案に、僕は内心驚いていた。僕は日記で過去を書き換えたことがあり、実際に違う世界の出来事も体験していた。だからこそ、今回の案を思いつくことができなのだ。

 だけど、秀一は日記のことなんてついさっき知ったばかりで、それも僕の少ない情報からだけだ。それなのに、僕よりも日記の効果を信じさせるために有効な手段を提案してきた。秀一の頭のキレに頼もしいと感じつつ、どこかで怖いと思ってしまった。


「どうだ、ヒロ?」

「え、うん。秀一の案でいいと思う。詩織は?」

「え、本当にするの……? 秀一もヒロの話を信じるってこと……?」

「いや、まだ信じたわけじゃないが。これでヒロが納得するなら、それでいいと思っただけだ。ヒロのためにもな」

「ヒロのため……」


 詩織はまだ迷っている様子だったが、俯きがちに考え、「わかった」と顔を上げた。

 詩織の決断に胸を撫で下ろす。これで準備は整った。後は二人の秘密を日記に書いて、過去の自分に教えるだけだ。


「じゃあ、詩織の秘密から聞いていい?」

「え、私!? えっと……」


 秘密を考えている詩織に、秀一が「他人に絶対言わないような秘密にしろよ」とアドバイスをしていた。冷静に考えれば、そんな大事な秘密を僕は聞き出そうとしているのだ。協力してくれるという二人には、感謝しかない。

 たっぷりと頭を捻り終えた詩織が、僕たちから少し距離をとって顔を背けて言った。


「私の家のくまのぬいぐるみに、……ヒロって名前をつけてるの」

「え? それが詩織の秘密?」


 想像していたよりも秘密らしくない秘密で、僕は拍子抜けして、思わず聞き返してしまった。

 詩織は、僕の問いかけには応えずに、後ろを向いているだけだった。その手を見ると、強く握りしめているようで、何だかこれ以上詮索するのは悪い気がした。


「あぁ、ぬいぐるみに僕や秀一の名前をつけてるってことか」

「え? ……あ、うん、そう! そうなの! ヒロも秀一もちーちゃんもいるよ!」


 突然まくし立てる詩織の勢いに僕は口を挟むこともできなかった。

 隣では、なぜか秀一が苦笑していた。

 詩織の秘密を日記に書き終えた僕は秀一の方へと向き直る。


「よし、じゃあ秀一は?」

「そうだな……。俺は、アリスで」

「アリス?」


 聞き返したときに盗み見た秀一の横顔は、今までに見たこともないような顔だった。どこかここではない遠くを眺めるようなそんな瞳。まるでそこだけ別世界のような。

 僕はその単語の意味が気になった。アリスというと、人名だろうか。よく創作物に登場する名前という印象はあったが、それ以上でもそれ以下でもない。そこにどんな意味が込められているのか、僕にはわからない。

 それだけ言って口を噤む秀一。言外にそれ以上は訊くな、という雰囲気を感じた。本当はそれが何を意味するのか聞きたかったけど、秀一と詩織は僕の日記が本物であることを証明するためにわざわざ自らの秘密を教えてくれている。それ以上聞くのは、さすがに野暮に思えた。


「わかった。じゃあ秀一の秘密を書くよ」


 僕は、詩織のものに加えて、秀一の秘密を日記に記述した。

 秀一から、秘密なら変に一ヶ月前とか日を空けるより、近い日付にした方が良いんじゃないか、とアドバイスをもらって、僕は直近の昨日の日付に追記した。


『2029年7月8日 桜木千鶴が殺された。僕は秀一と詩織に電話をして、告げた。「二人に聞いてほしいことがある。なぜそれを知っているかは、明日の放課後まで聞かないでほしい。詩織は、自分の部屋に置いてあるくまのぬいぐるみにヒロって名前をつけている。秀一は、アリスって単語でわかるかな。明日の放課後、全部話す」と。』


 書き終えた僕は二人に目を配ると、秀一も詩織も頷いた。

 今更だけど、僕のこんな話を真剣に聞いてくれた二人には感謝しかない。普通だったら、こんな話を聞かされたら、まともに取り合おうともしないだろう。だけど、二人は聞いてくれた。そして、自分の秘密まで教えてくれた。

 ありがとう、僕は心の中で呟き、開いていた日記を持ち上げ、閉じる。

 瞬間、三度目の不思議な感覚に襲われた。

 真っ白な空間で、立っているのか寝ているのかもわからない。自分の肉体がそこに存在しているのかすら認識できない。僕はただ、白い世界を眺めているだけだった。

 再び感覚を取り戻し、目を開くと、先ほどまでと同じ教室の自席の近くに僕は立っていた。教室の窓から差し込んでいた夕陽が徐々にその姿を消そうとしていた。

 目の前には、日記を書き換える前と同じ秀一と詩織の姿。

 しかし、二人の表情はさっきまでとまるで異なる真剣味に溢れていた。


「それで、そろそろ教えてくれるんだよな、ヒロ。昨日急に俺たちに電話してきて、すぐ切りやがって」

「ヒロ、どうしてぬいぐるみのこと……?」


 日記による世界の書き換えは、成功していた。僕は日記の通り、二人に電話で秘密を話していたようだ。

 僕はそのまま日記の説明をした。 

 千鶴からもらった日記。そこに僕の毎日の行動が記されていること。そして、それを書き換えることで、実際に過去の行動が変わること。今、この世界は僕が書き換えた世界であること。

 二人は僕の説明を黙って聞いていた。最初は信じられないといった様子の二人も、秘密を伝えた経緯を説明すると、少しずつ僕の話を受け入れてくれた。


「マジかよ」

「信じられない……でも、あの秘密、私以外誰も知らないし、言うつもりもなかったから、ヒロの話は本当なの……?」


 一通り説明し終えて、まだ頭が混乱した様子の二人が落ち着くまで僕はじっと机の上に腰掛けて待っていた。

 目を閉じて考え込む二人。だが、不意に秀一がぽんと自分の膝を叩いた。


「ま、ここまでされたら信じるしかないよな。……それで、これを俺たちに教えた理由は、桜木の事件のことか」

「そう、僕はこの日記を使って千鶴を助けたい。千鶴が、理不尽な目に遭わないように世界を書き換えたい」


 ようやく、僕は本題を切り出す。そもそも僕はそのために日記を使う決意をしたのだ。


「言いたいことはわかった。だけど今日はもう遅いし帰って、明日にしよう。桜木を殺した通り魔だって捕まってないんだ。詩織を一人で帰す訳には行かないだろ?」


 気がつけば夕陽は完全に沈み、周囲には夜の帳が下りていた。放課後、一度千歳さんの元へとお見舞いに行ってから学校に帰ってきたのだ。さらに、今日は雨が降ってきた関係でいつもよりも夜が近かった。僕の逸る気持ちは一度お預けを食うこととなった。


「わかった。続きは明日にしよう」

「じゃ、決まりだな。ヒロと詩織は途中まで一緒の方向だろ? 今日は家まで送ってやれよ」

「むぅ、私一人でも大丈夫だよ」


 詩織が顔を赤くしながら頬を膨らませて抗議する。詩織は大丈夫だと言ったが、確かに秀一の言う通り、通り魔がこのあたりをうろついていてもおかしくはない。僕も一緒に帰るべきだろう。


「秀一は?」

「俺か? 俺は襲いかかってくるやつがいたら逆に返り討ちにしてやるぜ」

「秀一らしいね」


 冗談なのか本気なのかわからない秀一の言葉に僕は笑っていた。

 その後は、すぐに荷物をまとめて、僕たちは学校を後にした。校門で秀一と別方向へわかれ、僕と詩織はいつもよりも少し近い距離で並んで帰路に着いた。途中で僕と詩織の家の岐路が訪れ、いつもならそこで別れるところだったが、僕は詩織の家まで送ることにした。詩織はいいと断ったが、やはり詩織を夜道に一人にすることは危険だと感じたからだ。

 道中、詩織は何度も秘密のことについて、元の世界にいた詩織が何か話していなかったかと聞いて来たけど、僕が特に聞いていなかったことを知って、安心していた。

 そのまま詩織を家まで送った僕も足早に帰宅した。いつもなら夜道を一人で歩くぐらいなんとも思わないが、千鶴を殺した殺人犯が近くに潜伏しているかもしれないと思うと妙に不安になった。路地裏から出てくる猫に驚いたり、電柱の影が人に見えたりなど、普段では考えられないようなこともあった。不安は妄想を掻き立て、妄想は恐怖を産む。あの日の千鶴は夜に一人でどんな気持ちでいたのだろうか、と思うと僕は胸が苦しくなった。

 家へとついた僕は長い一日の疲れからか、ご飯を食べて、お風呂に入り、すぐに眠ってしまった。ここ最近の僕は、どうも眠りにつくのが早い。

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