抗戦の決意
放課後、授業が終わると同時に僕たちはカバンを取り、学校を飛び出していた。千鶴の家は学校から十五分ほど歩いた場所にある。途中、お見舞いの花を買うために少しだけ寄り道をして、僕たちは千鶴の家へとたどり着いた。
洋風な家々が立ち並ぶ通りにあって、一際新しく建てられたその家は以前来た時よりも侘しく見えた。周囲を見回すが、想像と反して警察も取材も見当たらない。ただ地面を打つ雨の音だけがあたりに響いていた。
鉄でできた門の隣にある小さなインターホンの前に僕らは並んで立つ。無機質な冷たいボタンに人差し指が触れたとき、ふと僕はどんな顔をして千歳さんに顔を合わせればいいんだろうと思った。誰かがこの世からいなくなるなんて経験に、僕は立ち会ったことがない。何が人を傷つけるのかなんて誰にもわからないのだ。厄介なことに、それは善意ですら傷となりかねない。
僕が足踏みしていると、鉄門の内側にある重厚な扉がガチャリと開いた。そこに立っていたのは千歳さんだった。あたりは暗く、玄関の明かりが逆光となっていたため、その表情を正確に窺い知ることはできない。だが、明るいものでないことは確かだろう。
詩織が何か言葉にするでもなく、「おばさん……」とただ寂しく口にした。
僕たち三人をゆっくりと順に眺めた千歳さんは、小さく息を吐き出した。
「……詩織ちゃん、秀一君、それにひろ君も。……どうしたの」
「俺たち、千鶴さんとはずっと仲良くしてもらって。だから花だけでも、と」
「そう」
秀一が手に持っていた白い供花を持ち上げた。千歳さんの声は平静を装ってはいたけど、僕にはそれがどうしても無理をしているように聞こえた。
「その、この度は……」
あれ、こういうときは何て言うんだったっけ。決まり文句があるはずなのに僕は言葉を詰まらせてしまった。
「いいのよ、固くならなくて。雨が強いでしょう。少し上がっていきなさい」
「いえ、僕たち長居するつもりは……」
「いいから、風邪を引くわよ」
千歳さんはそう言うと半開きだったドアを限界まで開き、僕たちを招き入れた。僕たちは顔を見合わせてどうしようかと悩んだ結果、千歳さんの言葉に甘えて少しだけお邪魔することにした。
千歳さんに連れられるがまま通されたのは、家の外装と同じく洋風のリビングだった。部屋の中は隅々まで整理整頓が行き届いている。普段なら綺麗だと思うところだが、今はそれが妙に不気味に感じた。蛍光灯の光を眩しいぐらいに反射するフローリング。森の中で育ったのであろう自然の匂いが残る木製のテーブルと椅子。家族の楽しい食事風景を思わせるそれですら、たった一つが欠けただけで、その印象は一気に逆転する。日常とは、こんなにも脆いものなのだ。
僕たちは、勧められるままテーブルの椅子へと座った。秀一が手に持っていた花をテーブルの上へと、音を立てないように優しく置く。
「今日は来てくれてありがとう。千鶴も……、きっと喜ぶわ」
「おばさんは、大丈夫ですか」
「ありがとう、詩織ちゃん。私は平気だから」
お茶を用意してくれた千歳さんの顔を見て、僕の体は硬直した。一年前、僕たちが見た千歳さんは、千鶴と姉妹のように仲が良く、子どもより元気があるんじゃないかと思うぐらい若々しかった。だが、今目の前にいる千歳さんは全くの別人のようだった。頬はやせ細り、髪は乱れ、何より一晩中泣き明かしたであろう涙の跡で目元は痛々しいほど腫れていた。
当然だ。千鶴が死んで、一番つらいのは目の前にいる千歳さんなのだから。千歳さんの変化には、秀一も詩織も当然気付いていた。気付いてなお、何もすることのできない僕は己の無力さを呪った。
「千歳さん、その、ゆっくり休んでくださいね。僕たちにできることなら何でも言ってください」
「ありがとう。……それなら少しだけ、私の話を聞いてもらえるかしら」
そんなことで良ければいくらでも。僕は大きく頷いた。
「本当はね。私、まだ信じられないの。土曜日のお昼、千鶴から急に電話がかかって来て『今日、夜家に帰るから』って。それで待ってたんだけど、夜になっても全然帰ってこなかったの。心配になって警察に電話しても、『とりあえず一晩様子を見ましょう』って。そしたら夜明けごろに急に電話がかかって来て、……千鶴が刺されたって」
千歳さんは、時折言葉を詰まらせながら、その心中を吐露する。
「日曜日は警察やマスコミが一気に押しかけて来たの。私はもう何が何だか。そうしたらお父さんが『取材は全部俺が受ける、だから家に近づくな』って言ってくれて、……今も家を出ているの」
思わぬところで、僕は家の前で感じた静けさの理由を知った。千鶴の父はこの地域では有名な議員だ。千歳さんがまともに受け答えできる状態ではなかったことを察して、きっと警察やマスコミを退けたのだろう。事件からまだ間もないこの時期に、渦中の千歳さんが晒し者にされていないのは、不幸中の幸いだった。執拗な好奇の目を向けられ続けるのは、きっと今の千歳さんに耐えられるものではない。
「そのおかげで昨日の夜からは静かに過ごせたんだけど、一人になった途端、急に胸が痛くなってね。おかしいわよね。この一年、千鶴はずっと家にいなかった。昨日もそれと同じだっただけなのに。突然、涙が止まらなくなっちゃったのよ。そのまま身体中の水分がなくなって、私も死んじゃうかと思ったわ。ううん、死のうと思ったの」
最後の言葉に僕たち三人は揃って、びくりと体を震わせた。今の千歳さんなら本当にその選択を取ってもおかしくないと感じてしまったかだ。そう呟いた千歳さんの存在感はあまりに希薄で、本当に生きているのかすら疑わしくなった。
重苦しい空気の中、俯きながら語り続ける千歳さんが、初めて顔を上げた。僕たち三人の顔を順に見回して……、ほんの少しだけ微笑んだ。
「でもね、今日、千鶴の友達が来てくれたのよ。それもわざわざ東京から。千鶴とは向こうで一番の友達だったからって。だから、来ずにはいられなかったって。そして、今度はみんなが来てくれた。私……、嬉しかった。千鶴が……、私たちの子どもが……、こんなにも多くの人に大切に思われてるんだって知って」
千歳さんはついに言葉を紡ぐことも困難になっていた。その頬から伝う雫を、詩織が静かにカバンから取り出した布で拭った。
嗚咽が収まった千歳さんが、生々しく残る辛い思いを我慢してまで僕たちに伝えたかったのは、ただ一言だけだった。
「だからね……、みんなありがとう」
崩れ落ちそうになる千歳さんの体を詩織が支えた。詩織も限界だったようで、二人はお互いを支えあいながら、泣き崩れた。
僕は一瞬視界がぼやけたが、何とかそれが床に落ちるのを防いだ。なぜ我慢したのかはわからない。ここで僕が泣いてしまったら、二人が心の底から涙を流せない、そんな気がしたのだ。
朝から降り続けていた雨がようやく止んだ。空はまだ鈍色の曇天模様。それでも、雨は降り止んだのだ。
二人が落ち着いたのは十分後ぐらいだったと思う。千歳さんは憑き物が落ちたような顔で「取り乱してごめんなさいね」と謝ったが、僕たちはもちろん全く気になどしていなかった。これで少しでも毒を吐き出させることができたのなら、僕たちがここに来た意味はあった。
時刻が午後四時半を回った頃、千歳さんはマスクをして、夕飯の買い物へと向かった。どうやら今日も遅くまで警察へと顔を出している旦那さんにご飯を作りたいらしい。僕たちは、今千歳さんが外を出歩くのは控えた方が良いと思って、代わりに行くことを申し込んだが断られた。自分の足で行きたいのだそうだ。
僕たちは帰ろうとしたが、千歳さんに「千鶴の部屋にみんなとの写真もあるはずだから、良かったら見ていってあげて」と提案され、千鶴の部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中では、枕元に添えられた動物のぬいぐるみや勉強机に立てかけられてたくさんの写真が目に入った。そこは一年前と同じ、まるで時間が止まったかのような空間だった。
詩織がぬいぐるみを両手で持ち上げて、その手足を動かしながら呟く。
「おばさん、少しは元気でたかな」
「詩織がいっしょに泣いたおかげで少しはスッキリしたんじゃないか。自分から買い物に行くって言うぐらいだし」
「そうだね、そうだと良いね」
ぬいぐるみから視線を離さない詩織に秀一が雨の降り止んだ窓の外を見ながら、つぶやいた。
僕は千鶴の机に立てかけられた千鶴の家族写真を見ながら、さっきの千歳さんの表情を思い出していた。はじめこそ、その沈んだ表情に僕の心まで苦しくなったが、僕たちに語り終えた後の千歳さんは幾分か一年前の面影を感じさせた。
僕も二人と同じ意見だ。
「今日は来て良かった」
僕は自分の行動を美化するのが嫌いだ。だから、相手がどう感じているかもわからないのに相手の解釈を勝手に捻じ曲げて、自分の行動を”良い”なんて口が裂けても言いたくない。そんな僕でも、今日僕たちがここに来たことは、”良い”行動だったのだと思う。
僕たちには二つの選択肢があった。お見舞いに行くか行かないかという二つの選択肢。どちらも相手のことを想っての行動だが、今日の千歳さんの様子を見る限り、その結果は大きく異なっていただろう。それを、”正解”と呼ぶならば、……多分僕一人だったら選択を誤っていたのだと思う。僕は最初行くことには反対だったのだから。
二人がいてくれて良かった。僕は心底そう思った。
僕たちは千鶴の本棚に置いてあったアルバムを手にとって三人で覗き込んでいた。中学で僕たち四人が初めていっしょに撮った写真。林間学校の写真。修学旅行の写真。去年の演劇の写真。そこには、僕たちの共に歩んできた軌跡が確かに刻んであった。
「懐かしいね」
「この写真の詩織、何か今と雰囲気違うね」
「うるさい、ヒロ」
その軌跡をなぞるように思い出を語り合う。僕たちは四人で過ごした日々を共有することで、お互いがお互いを支え合っていた。まるで一年前の僕たちを再現するように、僕たちは笑い合った。
だけど、僕は愚かにも気付いていなかった。僕たちの日常なんて、歯車が一つ狂うだけで簡単に瓦解してしまうものだということを。僕たちはただ、存在しないものをあたかも存在しているかのように取り繕っていただけだということを。
別のアルバムを取ろうと本棚に手を伸ばしたときだった。僕の腕が本棚にぶつかり一枚の写真が、床へと舞い降りた。
アルバムから落ちたのかな。そう思って、裏返しになった写真を拾ったとき、僕の呼吸は止まった。それは、最も新しい千鶴の写真だった。
気が付けば千鶴の部屋を飛び出していた。後ろで声が聞こえた気がする。
「おい、ヒロ! どうしたんだ、ってこの写真……」
僕はそのまま玄関から家を飛び出した。門を無造作に開けたとき、買い物から帰ってきた千歳さんが家に向かっているところだった。だけど、僕は目も合わせることができずに、ただただ目的地もなく走り続けた。
僕の内側から溢れる黒い感情を吐き出し切るためにひたすらに走った。しかし、その感情が出し尽くされる前に僕の体力の限界が訪れた。荒々しく取り乱した呼吸。シャツびっしょりに纏わりつく汗。僕の中には、まだ泥のようにさっき見た光景がへばりついてた。
足が止まって、膝に手を当てていると後ろから肩を掴まれた。
「ヒロ、お前……」
「秀一」
秀一は、息は上がっているもののまだ余力を残した様子で僕を見つめる。その少し後から、僕よりも息を乱した様子で詩織が追いついてきた。
「ふ、二人とも、……ハァ、ハァ、……速すぎ」
詩織は今すぐにも吐き出しそうな表情で地面へと崩れ落ちた。
「ヒロ、お前さっきの写真見たのか」
「……見たよ」
「現場写真だよな。千鶴が殺された。何ていうか、あれは……」
僕たちが思い出に浸っていた中、ひらりと舞い降りた一枚の写真。
そこに写っていたのは、地面に倒れ、惨殺された千鶴の死体だった。死体には、無数の刺し傷があり、至る所から血が流れていた。一瞬のことで、千鶴がどんな表情で倒れていたのかは思い出せない。だけど、彼女から溢れ出た血が池のように溜まり、まるで彼女がその池に浮かんでいるような、その惨状だけは鮮明に脳内にこびりついていた。
「ちーちゃん、あんな……。ひどいよ……」
地面に膝をつけたままの詩織から透明の雫が地面を濡らしていく。
僕はあの写真を見るまで、千鶴が殺されたということを真に理解できていなかった。それはあまりにも惨たらしくて、あまりにも生生しくて。僕が千歳さんや秀一と詩織と語り合っていた時に感じた温かさは、氷のように冷たくなっていた。
僕は体温のなくなった自分の手を見つめた。血の通っていないようなその手はまるで僕のものじゃないようだった。気が付けば僕の手は、僕の意に反して震えていた。
秀一が肩を強く握り、心配そうな表情を浮かべる。
「ヒロ。お前、大丈夫か。何だかおかしいぞ」
「おかしいのは世界の方だよ」
そうだ。おかしいのは僕じゃない。この世界の方だ。
「秀一も詩織も見ただろ。千鶴はみんなに元気を与えたい、ってアイドルになったんだ。そんな千鶴が、あんな死に方をしている方がおかしいじゃないか」
僕は頭の中をそのまま曝け出す。
「言いたいことはわかるけどよ……。俺たちには、どうしようもないだろ。だから、少し落ち着け」
どうしようもない……?
僕はその言葉にひっかりを覚えた。本当に僕たちには何もできることができないのだろうか。この理不尽な世界に対して抗う術が。その理不尽の犠牲者となった彼女のためにできることが。その瞬間、僕の脳内に千鶴と過ごしたこの一週間の出来事が蘇った。そのきっかけとなったもの……。
「いや、一つだけある。千鶴を救う方法が」
「ヒロ……?」
詩織が未だ頬に雫を伝わせたまま、僕を見上げてくる。
秀一は僕が何をいっているのか理解できないといった顔で、僕を見つめる。
「僕が……、世界を書き換えればいいんだ」
僕は、世界に抗うことを決意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます