運命の文化祭
鉛色の心臓
桜木千鶴が死亡した。
何度同じ文字列を見ても、その意味が理解できなかった。それはまるで記号の羅列のようだ。
千鶴が死んだ? なぜ?
だって千鶴は昨日までテーマパークでいっしょに遊んでいたじゃないか。
頭の中をパンクしそうなぐらいの膨大な思考が駆け巡る。その思考の海に溺れそうな僕を引っ張り上げてくれたのは母だった。
崩れ落ちそうになっていた僕を支えるように、僕の左腕が掴まれていた。僕はテレビから初めて視線を外し、その心配そうな顔を見た。
立ち尽くす僕に母は「しっかりして」と、ゆっくり諭すように語りかける。ガラスに触れるかのように。幼子の柔肌を傷つけないように。母のこんな心配そうな表情を見たのは、僕が入院しているとき以来だった。
「うん、大丈夫」
中身の伴わない空虚な言葉だった。誰に向けて発せられたかもわからない言葉。母の表情が一層強張った気がした。
「今日は日曜日だから、ゆっくり休みなさい」
おそらく僕にテレビを見せまいとしたのだろう。僕とテレビの直線上に母が割り込み、部屋で休むようにと促す。
それに反論するだけの論理を組み立てることすら今の僕にはできず、部屋へと戻った。
ベッドに倒れ込んだところで、僕は激しく後悔した。横になった瞬間に、彼女がこのベッドで寝ていたという事実を思い出したからだ。
さらに、昨日までの一週間の思い出が雪崩のように襲いかかってくる。学校で一緒に受けた授業。河原をぶらぶらした放課後。一周年記念にデートしたテーマパーク。そのどれもが生々しい彼女の生物としての存在感を示していた。
そんな彼女が、今この瞬間にこの世界に存在しない。
僕はその受け入れ難い現実から逃げるように顔まで布団に強く包まって、深い闇へと落ちた。
目が覚めたのは昼過ぎだった。衝撃的なニュースに焼き切れそうになっていた頭も、眠りを経て、思考力らしい思考力を取り戻していた。
僕は意を決してスマホを取り出し、検索欄に残っていた『桜木千鶴』という文字をタップする。そこには、彼女の公式ブログより上に事件のニュースがいくつも表示されていた。
有名な新聞社が提供している記事を開くと、今朝テレビで見たのと同じような光景を写した動画が流れ始める。立ち入り禁止と書かれた黄色いテープの道路を背景に、レポーターがマイクに語りかける。
『昨夜未明、人気アイドルグループ所属の桜木千鶴さんが住宅街で刺され、死亡したことが確認されました。事件は住民たちからの通報で発覚し、倒れていた桜木さんは病院へ搬送されましたが、間もなく死亡が確認されました。現場では、不審な男性が目撃されており、警察は通り魔の可能性があると捜査を続けています。』
レポーターが話し終えると、今度は通報したという住民へのインタビューと画面が切り替わった。
僕はあることに気がついた。それは、犯行現場として立ち入りを禁じられている住宅街がこの近所だということだ。それはちょうど、僕と彼女の家を結んだ中間あたりにある住宅街だった。ニュースでは、詳細な地域までは述べられていなかったが、間違いない。
普段の彼女は東京に住んでいるはずだ。ということは、帰省中に運悪く通り魔に襲われたのだろうか。だとしたら神様はなんて残酷なことをするのだろうか。
その後もスタジオにいるニュースキャスターたちの場面に切り替わり、映像は続いたが、それ以上の情報は現時点では判明していないようだ。
その日はどの番組も彼女の事件で持ちきりだった。僕は改めて、彼女という存在がいかに世界にとって大きかったのかを痛感させられた。
結局、その日は一日中、布団の中で倒れているだけだった。起き上がる気力もなく、食欲もなく。僕はただひたすらに布団が作り出した闇の中に閉じこもっていた。
七月九日。
月曜日。梅雨明け以来、はじめての雨だった。
窓を打つ雨音で目を覚ました僕は、昨日までより明らかに下がった気温に身を震わせた。空に浮かぶ雲は鉛のように重く、降り注ぐ雨は刃物のように鋭かった。
一日ぶりに部屋から顔を出した僕を見て、両親は少しホッとした顔を浮かべた。昨日のこの世の終わりのような心配した表情を思い出して、申し訳なさを感じる。
まだ食欲は戻っていなかったため、朝食に用意されていたパンは口にすることができなかった。口にしたら必ず吐き出す予感があった。パンを手に取らない僕を見て、母は探るように尋ねてくる。
「今日、学校どうする?」
「行くよ」
「……そう、無理しないでね」
母はそう言うと僕の肩を叩いた。
正直に言えば、学校なんて休みたかった。けれど、母の表情を見て、自分がどれだけ心配をかけていたかを知って、心苦しくなったのだ。今日学校を休めば、きっと秀一と詩織にも同じように心配をかけてしまう。これ以上、自分の弱さが原因で他人に迷惑をかけたくなかった。
まだ重い体をひきづって制服へと着替え、カバンの準備をし、学校へと向かう。千鶴とのデートに向かう足取りとは、正反対だった。
学校に着くと、やはりというべきか、生徒たちの様子はいつもと違って剣呑なものだった。そして、あらゆる場所から『桜木千鶴』という単語が聞こえてくる。一年前までこの学校に在籍していたのだから無理もない。だけど僕は、彼女の名前を聞くたびにまるで心臓を刃物に一突きされているような痛みを感じ、気が気ではなかった。いっそ耳を削ぎ落とした方がマシなんじゃないかと思うぐらいだ。
教室に入ると、すぐに二つの足音がこちらに迫ってきた。足音の主は、秀一と詩織だ。
「ヒロ、大丈夫か? って、その顔は大丈夫じゃないよな」
自分が一体どんな顔をしているか、気にはなったが、相当ひどい顔をしていたのだろう。昨日から何も食べず、引きこもっていたのだから無理もない。
「お前が一番桜木とは付き合い長いもんな。ちゃんと飯食ってるか?」
「そこそこは」
心配をかけまいとついた嘘だったが、二人には見破られていたかもしれない。秀一は苦笑する。
「さっき詩織と話してて、今日おばさんのところにお見舞いに行こうって話になったんだけど、ヒロはどうする?」
「おばさんって、千歳さんのこと?」
「ああ」
千歳さんは、千鶴の母だ。一年前までは僕たちも千鶴の家で遊んでいたことがあったため、千歳さんとは面識がある。僕たちが家を訪ねると、いつもぱっとした笑顔で迎え入れてくれて、よくお菓子を作ってくれる優しい人だった。
確かに、お世話になった僕たちは顔を出すべきだろう。だけど。
「まだ事件から二日だから警察とか報道とかで忙しいんじゃないかな。それに、まともに話せるかどうか」
僕ですら昨日はずっとふさぎ込んでいた。それが実の両親となれば、一週間、一ヶ月落ち込んで、誰とも話せなくても不思議ではない。
「それも思ったんだけど……。でも私たち、おばさんにはすごくお世話になったから」
「警察とか取材で忙しそうだったら日を改める。おばさんと話すのも短時間で。これで行こうと思ってる。ヒロは、行けるか?」
確かに、それなら問題なさそうだ。僕は首肯する。
それにしても「行くか」じゃなくて、「行けるか」か。秀一は、本当に僕のことを心配しているようだった。
「決まりだな。じゃあ放課後に」
秀一はそういうと足早に自分の席へと戻っていった。詩織はそれについて行こうとしたところで、こちらを見て立ち止まる。その行動を不思議に思っていると、詩織はごそごそとカバンの中身をあさり始めた。やがて目当てのものを見つけたのか、僕に差し出してくる。
「ヒロ、これ。食べて」
口数少なく手渡されたのはコンビニの袋で、中にはフルーツの入ったゼリーとスポーツドリンクが入っていた。詩織は僕と視線を合わさないように目を背ける。
「もしかしたらご飯、食べてないのかなって。だから」
口ごもりながら遠慮がちにつぶやく詩織はいつも通り言葉が少ない。だけど、その気持ちは痛いほど伝わった。曇天の中、朝からずっと冷え切っていた僕の体が、少し温かくなった気がした。
「ありがとう、詩織」
「ヒロ、やっと笑ったね」
「え?」
僕は言われてはじめて、自分の口角が少しだけ上がっていることに気付いた。というよりも今までずっと沈んでいたことに気がついていなかった。それほどまでに、僕の視野は狭くなっていたのだ。僕は、”はじめて”詩織の顔を見た。
「ヒロがそんな顔してたら、ちーちゃんもきっとつらいよ」
「そうかもしれない」
今すぐは無理だけど、きっと僕も自然に笑えるようになるはずだ。
差し当たって、詩織からもらったゼリーを食べよう。
僕は始業のベルが鳴るまでに、ゼリーを食べきった。それを吐き出すことはなかった。
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