分岐の世界
目の前の状況が飲み込めず僕は随分と間抜けな表情をしていたと思う。そんな僕を千鶴が不思議そうに首を傾げながら見つめる。
精一杯頭を回転させて、僕は何とか疑問を捻り出した。
「千鶴がどうして僕の部屋に……?」
「どうして、って。寝ぼけてるの? ヒロが今日親いないからって、私を誘ったんじゃん?」
僕が千鶴を誘った……? そんな記憶は一切ない。それどころか、この一年、千鶴と連絡を取ったことすらない。彼女の答えに僕は一層混乱するだけだった。
「千鶴、東京にいるはずじゃ?」
「本当に何言ってんの。私、東京なんて行ったことないんだけど」
それは明らかにおかしい。だって千鶴は、一年前に学校を辞め、そのまま上京し、東京でアイドル活動をしているのだから。その証拠にさっきまで……。
「あ、そうだ!」
僕は直前に見ていたテレビのことを思い出した。番組には、東京でアイドルとして活躍している千鶴の姿が映っているからだ。それを見せれば、きっとこの妙な状況にも気づいてくれるだろう。
怪訝そうな顔を向ける千鶴に「ちょっと待ってて」と言い残し、自室からリビングへ向かう。リモコンを取り、録画していたデータを検索したのだが。
ない。さっきまで見ていた番組も。この一年彼女が出演していたローカル番組のデータすらも。何一つ存在しなかった。
困惑する僕の瞳にテーブルの上に置かれた新聞が目に入った。テレビ欄を開くが、そこには今日見たはずの番組の名前が存在しなかった。代わりに書かれていたのは『人気アイドルグループ所属、水野亜希の素顔に迫る!? その人気の秘訣とは』というタイトルだ。
僕の混乱は頂点に達していた。何が起こっているのかわからない。それはまるで、千鶴がアイドルとして活動してきたこの一年間が、世界からごっそり切り取られているような、そんな感覚を覚えた。
考えがまとまらず、立ち尽くしていると、自室からこちらに向かう足音が聞こえてきた。
「ヒロ、遅いよ。何してんの? もしかして、エロいことでもしてた?」
千鶴はしししと、にやけ顔でからかってくる。しかし僕は、彼女の恥ずかしい冗談よりも彼女が手に持っているものに惹きつけられた。
「千鶴、それ……?」
「あ、これ。ヒロの部屋に置いてあったからさ。嬉しいな。私があげた日記、ちゃんと使ってくれてたんだ」
先ほどとは打って変わり、今度は大人びた表情を浮かべる千鶴。
その日記を千鶴にもらったのはもう十年近くも前になる。日記といっても、高級なものではなく、どこにでも売っているただのノートに自分で日付を書いているだけのものだ。だけどそれは僕にとって、短い生涯の中で一番大切な贈り物だった。それは僕を救ってくれたものだから。
「そうだ、日記。日記には、千鶴の番組を見たことも書いてあるはず」
「え?」
困惑する千鶴を横に、手に持っている日記を受け取り、中身を確認する。
しかし、そこには僕の期待していた内容はどこにもなかった。何でだ、確かに書いたはずだ。千鶴が初めてローカル番組に出演した日、僕は確かに書いたはずだ。
『2028年11月10日 千鶴がはじめてテレビに出た。アイドルとして活躍する千鶴はとても眩しかった。』
何度も見返したはずのその文章が、しかし別のものに書き換わっている。
『2028年11月10日 宿題を忘れて先生にひどく怒られた。秀一と詩織が放課後残ってくれて、宿題を写すことができた。感謝』
こんな文章、僕に書いた覚えは当然ない。僕が書き換えたのは、『2028年7月7日』に『千鶴に告白した』という文章だけだ。
”書き換えた”……? その言葉に小さな引っ掛かりを感じる。
ぐちゃぐちゃに散らかっていた思考回路が、一つの仮説を導き出そうとしていた。
もしかして、ここは日記通りに僕の行動が書き換えられた世界なんだろうか。つまり、一年前のあの日僕は千鶴に告白し、千鶴はそれを受け入れ、アイドルにはならなかった。
そう考えれば、番組表に存在しない『桜木千鶴』という文字、こんな夜に僕の家にいる千鶴、そして僕が書いていない日記、すべてに説明がつく。
だけど、頭では筋が通っていてもやはり僕の生きている感覚はそれを信じることができない。だって、やったことといえば、日記を書き換えただけなのだから。
その答えを確認する方法は、一つしかない。
「千鶴、もしかして僕らって付き合ってる?」
「当たり前じゃん! もうすぐ付き合って一年でしょ。怒るよ」
僕は確信する。やはり、僕の仮説は間違っていなかった。
僕は一年前、文化祭で千鶴に告白し、そして僕たちは付き合ったんだ。僕にその記憶はないけれど。いや、その記憶どころか、僕のこの一年の記憶は日記とまるまる食い違っている。パラパラと日記をめくると、千鶴と何度もデートに行った記録が示されている。だけど、僕にはその記憶がない。
状況を把握してなお、事態は理解の上を越えていた。
そんな僕の深刻な表情を見て、心配そうな表情が覗き込んでくる。
「ヒロ、大丈夫? もしかして……、また思い出せなくなっちゃった……?」
その顔に僕は見覚えがあった。これはまだ幼い頃、僕が入院していた頃に彼女が見せた表情と同じものだ。僕は心配させまいとできるだけ明るい声を出す。
「ご、ごめん。何か変な夢を見てたみたいで。その余韻を引きづっちゃって」
「なにそれ。小学生みたい」
くすくすと笑う千鶴の表情は、やはり国内中を魅了したアイドルのそれで。僕も例に漏れず、こんな状況にも関わらず見惚れてしまった。
「でも、疲れてるならもう休んだら?」
「そうだね、じゃあ僕はリビングで寝るから千鶴は僕のベッドを使っていいよ」
「え? ヒロもベッドに来なよ」
何気なく発せられた言葉に時間が止まった。僕の心臓も止まっていたかもしれない。
彼女の言葉の意味をゆっくりと解釈する。そうか、僕たちは付き合ってるんだ。そして、両親がいない今日千鶴を誘ったということは……。
記憶には存在しない、僕が誘ったという事実にひどく恥ずかしさを覚えた。
どうするべきか、僕が逡巡していると、煮え切らない態度に辟易した彼女は「もう!」と言って、僕の手を引いた。僕はというと、情けないことにただひたすらにその手に引っ張られていくだけだった。
自室へと入り、僕と彼女は同じ布団に潜り込んだ。向かい合って横たわると、かつてないほど近くで見る彼女の整った顔立ちと時折触れる彼女の服、うっすらと香るシャンプーの匂いにずっと心臓の鼓動が高鳴っていた。
部屋の中では、目覚まし時計の秒針が刻む音が妙にうるさく響く。
「ドキドキするね」
目の前でもぞもぞと体を動かしながら彼女が言った。
「病院にいた頃を思い出すね。あの頃も一度だけ私たち、一緒のベッドで寝たことがあったね。覚えてる?」
「ごめん、全然」
「そっか……。あの頃はヒロもまだ不安定だったから、しょうがないね」
思い出を共有できずに残念そうな顔を浮かべる彼女。だけど、すぐにその表情は穏やかなものになる。それは、彼女が僕の手を握ってきたのと同時だった。
「ししし」
その笑いは、彼女なりの照れ隠しなのだとすぐにわかった。僕はさっきからずっと心臓の跳ねる音が彼女へと伝わってしまわないか気になって、思考がまとまらない。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
彼女が目を瞑る。僕の心臓の鼓動が、繋いでいる手から彼女に伝わらないことを願うだけで必死だった。
僕たちは潔白だった。
翌朝、窓の外から響き渡る小鳥たちの囀りで目が覚めた。隣で眠る千鶴は、無防備な寝顔で小さな寝息を立てている。その横顔に手を伸ばそうとしたが、何だか悪いことをしているような気がして思いとどまった。
その日は結局、後から起きてきた彼女の提案で昼食を摂りに小さな個人経営のお店へと向かい、そこから五駅分電車を乗り継ぎ、ショッピングモールへと向かった。普段から人混みを避ける僕の習性が災いして、久々に人に酔うこととなった。それでも、一年ぶりに何気なく遊ぶ彼女とのひとときは、間違いなく僕の心を喜ばせた。彼女にとっては一年ぶりではないのだろうが。
ショッピングに映画と王道のようなデートを済ませたところで、彼女が夕飯までには戻らなければならないと言って僕たちは別れた。別れ際、その後ろ姿を引き止めようとして彼女の手を引っ張ってしまい、自分の行動に顔から火が出そうだった。彼女はそんな僕を見て、「またね」と笑った。
帰り道、川沿いを歩いているとカップルたちが、川沿いの土手に沿って座っていた。カップルたちは川やそれを取り囲む木々を眺め、時には談笑し、時には道端で掻き鳴らされた音楽に耳を傾けけていた。きっと、それが普通のカップルなのだろう。
ふと僕は、ここにいた”僕”はどうなったんだろうと考えた。つまり、一年前に彼女へと告白をし、この一年間実際に付き合ってきた”僕”のことだ。僕は、その”僕”のことを知らない。ひょっとすると、元にいた世界の自分と人格が入れ替わってしまったのだろうか。それとも、僕は”僕”を消し去ってしまうのだろうか。
陽気な天気とは裏腹に寒気が走り、鳥肌が立った。
これ以上考えるのは止そう。思考を振り切るように早足で家へと帰った。
それからの一週間で僕は、自分に起きた大体の変化を知ることができた。
まず、千鶴は半ば予想通り翌日には、平然と学校に登校してきた。そのことを両親や学校のクラスメイトに尋ねると、彼女がアイドルになるとか、学校を辞めるという話は一切上がってこなかった。そして、秀一と詩織に確認したところ、やはり僕と彼女の関係は周知のものだった。
つまり、この世界では僕が日記を書き換えた通りに事実が歪曲されているのだ。そして、それを他の誰もが、世界が受け入れている。唯一この世界に違和感を感じているのは、僕だけだろう。
だけど、そんな僕の違和感も一日も過ごしていればほとんど消えかかっていた。なにせ変わったことといえば、僕と千鶴が付き合っているという事実だけで、僕や秀一と詩織の関係性、僕と他のクラスメイトとの関係性には一切変化がなかったからだ。
その週は授業を受け、放課後には千鶴に連れられて、近くの神社を散歩したり、ゲームセンターに行ったりした。夏の匂いを運ぶ風。並んだ鳥居。クレーンゲームで取れない人形。彼女は一つ一つの出来事に喜びや驚き、悔しさを大げさに表現した。
週末を控えた金曜日には、土曜日の一周年記念のために一日予定を空けておくように言われた。もし、予定が入っていたとしてもキャンセルしただろうが、幸いにもその予定はなかったため、誰かを悲しませることはなさそうだ。僕は嬉しい気持ちを隠して、彼女の誘いに乗った。
その頃には、この世界で起きた不思議な現象に対する違和感を忘れていた。それどころか、まるで一年前に僕は告白していたんだと錯覚するようにもなっていた。
家に帰る足取りが弾むように軽い。早く明日がこないかな。こんな幸せな日々がずっと続けばいいのに、そう願っていた。
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