僕と彼女と過去日記
水瀬すず
僕と彼女のプロローグ
過去の選択
七月に入り、照りつける太陽がいよいよ本格的な夏日和を告げていた。
今年の梅雨は、鈍い雲が絶えず日本上空を覆っており、各地で記録的な降水量となった。
僕の住む街も、例に漏れず雨の日が続いたため、鬱屈とした気分が続いていた。
そういった事情で最近はずっと高校までバスで通っていたが、今日は一月ぶりの自転車通学だ。もちろん、梅雨の間も自転車に乗れる機会はあったが、一ヶ月分のバスの定期を購入してしまっていたため、なんだかもったいなく感じて、晴れの日もバスで通学していた。
自転車は最初こそ気だるそうに鈍い音を立てたが、走り始めるとすぐに調子を取り戻した。家から学校までの距離は自転車でおよそ十五分。道中には子供の頃から続いている小さな商店街や風情を残す川の側が見える。水分を含んだ爽やかな風が寝ぼけた朝の頭を覚醒させていく。久しぶりの風を切る感覚は、思いの外心地よいものだった。
学校にはすぐに着いた。校門では、生活指導の先生が服装のチェックを兼ねて、生徒にあいさつしている。僕は自転車を降りて、歩きながら簡単に頭を下げる。
古びた校舎を三階まで階段で登り、二、三教室すぎた場所が、僕の教室だ。今朝は余裕を持って家を出たため、教室内には生徒が数人いるだけだった。その静寂を壊さぬように、自席に着きカバンから教科書を取り出して、今日の授業の分を予習していると、後ろから足音が二つ聞こえた。
「お、ヒロ。珍しく今日は早いな」
「おはよう、秀一。今日は自転車通学だからね」
振り返ると、サッカー部の朝練を終え、スパイクを片手に揚々と教室に入る秀一と目が合った。月見秀一。勉強では入学以来一位の座を譲ったことはなく、サッカー部ではエースを務めるという文武両道を地で行く男だ。さらにその人当たりの良さと嫌味のない容姿からクラス内外を問わない人気者だ。
「おはよ、ヒロ」
「おはよう、詩織。あれ、夏服になった?」
その少し後から今度は落ち着いた声音の挨拶が控えめに聞こえてくる。
問いかけられた女子は声を出すこともなく首肯する。高島詩織。普段から物静かで、誰かの後を着いていくことが多い控えめな女の子。今日も秀一の後から来たようだ。サラサラと流れる長い髪は、一年前から重いという理由で茶色に染まっている。
「詩織の変化には気付くんだな、俺も夏服だぞ」
「いや、秀一はジャージだから。変わり映えがしなくて」
「まったく……妬けるな、詩織」
「バカ」
詩織は顔を赤くして、わざと僕から目を逸らすように席に戻っていった。
僕たち三人は中学からの付き合いで、体育祭や音楽コンクールなど、イベントでは何かと同じ班で行動することが多かった。今でも休みの日は誰かの家に集まって遊んでいることが多い。ただの友達というには、僕らはあまりにも多くの時間を共に過ごしすぎた。
離れていった詩織を横目に見ていると、秀一がいじっていたスマホの画面を見せつけてくる。
「今日、桜木がメインのテレビが夜九時からやってるみたいだぞ」
秀一が指差した画面には、ギッシリと並んだテレビの番組表が写し出されていた。そこには『人気アイドルグループ所属、桜木千鶴の素顔に迫る!? その人気の秘訣とは』とデカデカと強調されている。
「一年前までこの桜木と同じ学校に通ってたのが信じられないよな。今じゃゴールデンタイムを飾る人気アイドル様だぜ」
僕は適当に相槌を返していた。
秀一の言う通り、桜木千鶴は一年前まで同じ学校に通っていた。僕に関して言えば、とある事情から千鶴とは中学に入る前からの付き合いだった。中学に入学してからも、人付き合いに不安の合った僕をクラスに馴染ませてくれたのが彼女だ。
僕たちは学校の中でも外でも、いつも四人で行動していた。だけど、去年の文化祭直後に千鶴は学校を辞め、アイドルとして活動するようになったのだ。それからは、連絡は取り合っていない。
「ヒロも見るよな?」
「まあ、多分」
言葉とは裏腹に僕は絶対に番組を見るつもりだった。というより、彼女が出ている番組はどんな小さなものでもほとんど見ているし、学校や用事で見られないときは必ず録画している。ただ、それを口に出すことは憚られた。
そんな会話をしていると、周囲には段々と生徒の数が増え、予鈴のチャイムが鳴った。同時に担任の先生がどかどかと足を踏み鳴らし、教室に入ってくる。秀一も「後で詩織にも教えてやらないとな」と呟いて前の方の自席へと向かっていく。
その日の授業はほとんど覚えていなかった。夜の番組のことばかりが気になっていたからだ。先生が黒板に文字を書いている間もずっと窓の外を眺めていた。学校から道路を挟んだ先には、大きな児童公園が敷設されている。午前中も午後も絶えず、子供達が遊具で遊んでいた。
ふとその光景に懐かしいものがこみ上げて来る。一人ぼっちだった僕に声をかけてくれた女の子。子供の足では少し遠い河原に連れ出してくれた女の子。いっしょに星の浮かぶ夜空を見上げた女の子。気が付けば僕はいつも彼女のことを考えていた。
そして最後は、いつも同じ場面を思い出す。去年の文化祭、彼女が言った言葉。
『私、人に元気を与えられる人になりたいの。だから、アイドルを目指してみようと思うんだ。ヒロは、どう思う?』
その時の僕の答えは、何だったのだろう。それが正しかったのかどうか、一年経った今でも僕にはわからない。だからこそ僕は、テレビの前で活躍している彼女の姿を見て、その答えを探しているのだと思う。
すべての授業が終わり、部活へと向かう秀一を見送って、僕と詩織は帰路についた。詩織は徒歩通学なので、僕も自転車を押して隣を歩く。僕も詩織も物静かな方なので、二人だけの時間は無言のことが多い。だけど、決して居づらいものではなく、僕にとってそれは心地良い時間だった。
十分ほど歩いて、もうすぐ家の岐路に着くというところで、詩織が僕を見上げてきた。
「文化祭、もうすぐだね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。二週間後の七月十六日、今年はテストの関係で一週間遅れるみたい」
去年の文化祭は七夕の日だった。文化祭といえば、一般的には夏休みが明け、九月ごろに開催されることが多いらしい。そのため、受験を控えた三年生は参加しないところもあるのだとか。僕たちの高校では、三年も参加できるようにとの取り計らいで、いつからか文化祭は七月に行われるようになったのだ。
「そっか、そういえば去年は七夕の日だった」
「うん。ヒロは……、今年の文化祭はどうするの?」
「どうするの、って。別に出し物もないから適当にぶらつこうかな」
去年は僕と秀一、それに詩織と千鶴の四人で劇をした。有名な童話をモチーフにした劇で、脚本自体は特筆するようなものでもなかった。だけど、秀一と千鶴という二人の華やかな出演者のおかげで、他のクラスよりも明らかに繁盛していたことが鮮明に記憶に残っている。
「そっか。その……、誰かと回ったりはしないの?」
「秀一はクラスの手伝いで忙しいだろうし、別にないかな」
「じゃあ……」
詩織が言いかけたところで僕たちの足が止まる。ちょうど岐路にさしかかったからだ。僕は詩織の言葉を待つが、次の言葉は中々あらわれない。焦れて催促しようとしたとき、ちょうど詩織は自分の胸の前でバタバタと手を振った。
「ご、ごめん。なんでもない。また明日、って、明日は創立記念日だったね。また、明後日」
慌ただしく去っていく詩織の背に向かって手を振る。一体何だったのだろう。詩織の姿が見えなくなったところで、自転車にまたがり、家へと加速した。
家に着くと、カバンについたキーホルダーから鍵を取り出し、少し重いドアを開いた。「ただいまー」と声をかけるが、家の中に僕の声が響き渡るだけで、帰って来る音はない。
そういえば、今日は父さんと母さんは旅行なんだっけ。七月二日は両親の結婚記念日なのだ。両親と僕は毎年この近くの休日に旅行に出かけている。だけど今年は、文化祭の準備が忙しいから、と言って僕はそれを断った。本当は出し物もないので忙しくもないんだけど、たまには両親水入らずで時間を過ごして欲しかったからだ。母さんは今朝出かけるときも僕のことを心配していたけど、僕ももう高校二年になるので、少し過保護だと思う。
カバンを置いて、リビングでうたた寝していると、目が覚めたときには陽が落ちていた。僕は作り置きされていたカレーとサラダを取り出し、電子レンジで温めて食べる。食べ終えた後、食器を片付けたところで、時刻は八時を回っていた。
千鶴の番組は九時からだ。僕はシャワーを浴びて、三十分前からテレビの前で待機する。いつもならリビングでは父さんとチャンネル争いをしているところだが、今日は僕一人なので、その心配はない。
そわそわとしてソファに座っていると番組が始まった。内容は、デビューから一年で人気アイドルグループのセンターを務めるようになった桜木千鶴の秘密に迫るというものだった。スタジオで中継しながら途中にVTRを挟むというよくある構成の番組だった。彼女の練習風景やプライベートでの過ごし方などが映像として写し出されていく。
僕にはよくわからないけど、彼女の服装は若者の中でブームになっているものらしい。だけど、僕は服装よりもその表情に視線が向かっていた。カメラの前で常に浮かべるその笑顔は、やはりアイドルにふさわしく、周囲を元気付けるように輝いていた。僕たち四人で遊んでいた時の千鶴は、もっとガサツで服装も動きやすい服を着ていたので、テレビの中の彼女とは印象が異なった。だけど、周りにいる人を引っ張って、元気にするという部分だけは今も昔も変わらず、何だか笑ってしまった。
番組の中でインタビュアーが「桜木さんは何のためにアイドルになりましたか?」と尋ねた。千鶴は「私の歌やダンスで、見てくれる人を笑顔にするためです」と答える。
テンプレートのようなその返事もアイドルになる前の彼女を知っている僕には、本心に聞こえた。
映像の中の彼女は、さらに「それと、私がアイドルになるか迷っていたときに背中を押してくれた人がいるので、その人にいいところを見せないと、って」と付け加える。子供がいたずらを企むような笑顔を彼女は浮かべた。そのときの彼女はアイドルグループのメンバーというよりは、ただの年相応の一人の女の子のようだった。
僕は、その笑顔を見て胸がチクリと痛んだ。また、いつもの光景を思い出す。去年の文化祭、彼女が僕に尋ねてきた光景を。確かなことは思い出せないけど、きっと僕は彼女がアイドルになることを応援したのだろう。テレビの中の彼女を見て、その選択は間違っていなかったと思う。だけど、もしかしたら別の選択肢もあったのかもしれない。そんな未来を考えることに意味はないのだけれど。
番組は最後に、最近発表した千鶴の新曲を生で披露する形で幕を閉じた。
時刻は夜十時。少し早いけど、今日は寝よう。僕はテレビの電源を落とし、部屋の電気を消してから自室へと向かう。
そのままベッドへと倒れこみたいところだが、僕には日課がある。それは、その日おきた出来事を日記として書きとどめておくことだ。これは、僕のとある事情から十年近く毎日欠かさず行っている。インフルエンザで40度に達して死を覚悟した日ですら、僕は日記を途絶えさせていない。
七月二日の欄に何を書くか悩んでいたところ、僕はふとパラパラと指でページをめくり、過去の日付を見直す。
『2028年7月7日 今日は千鶴と詩織、秀一と文化祭で劇を行なった。劇は大成功だった。だけど結局、千鶴に告白することはできなかった。』
これは去年の文化祭の記録だ。僕はこの日千鶴に告白しようと計画していた。それは幼い頃から続いた関係を進めたかったからに他ならない。僕たちは、お互いに気のおけない大切な人として、信頼しあっていた。だけど、僕はその関係に別の名前が欲しかったんだと思う。
しかし、そんな僕の決意を挫くように持ちかけられた千鶴の相談により、僕は自分の気持ちよりも彼女の将来を優先した。そう言えば聞こえはいいかもしれないけど、実際はただ勇気が出なかっただけだ。僕は深いため息をつく。もし僕があの日、自分の気持ちを優先していたらどうなっていたのだろう。アイドルになんかならないで、僕と付き合ってほしい。たった一言、それを伝えられていれば。
そんなことを考えていると、僕はいつの間にか日記の中身を書き換えていた。
『2028年7月7日 今日は千鶴と詩織、秀一と文化祭で劇を行なった。劇は大成功だった。僕は勇気を出して、千鶴に告白した。』
書かれた一文を見て、バカだなと僕は自嘲気味に笑った。
少し頭を冷やしてから今日の分を書き直そう、そう思って日記を閉じた。椅子から立ち上がった瞬間、僕の視界がぐらりと揺れた。
何だ、そう思ったときには、僕の目の前は真っ白になっていた。
そこは空も大地も海の境界も何もないただ白い空間。
一面に続くその空間に僕の頭も真っ白になった。
「何だ、これ……」
思わずつぶやいていた。夢なのだろうか、だけど夢にしては妙に自分の体の感覚が生々しい。
あたり一面、どこを見ても純白の光景に、突如、夥しい量の写真のようなものが流れていく。そこには、見たこともない生物や風景から、僕の知っている建造物や人などあらゆるものが写っていた。それはあらゆる時代、あらゆる場所の記録のようなものだった。
そのあまりの情報量に僕の頭がぐらつき、再び視界が揺れた。
目を開くと、そこはさっきまで僕がいた自室だった。僕の手元には書きかけの日記が無造作に置かれている。
今のは一体何だったんだろう、困惑気味の頭を冷やすため、立ち上がろうとしたとき、後ろから人の気配がした。全身に鳥肌が立つ。今、僕の家に人がいるはずがない。だって、僕の家は両親と僕の三人だけしか住んでいない。そして両親は今日旅行に行っているのだから。だから……、誰かがいるはずなんてない。
しかし、そんな僕の論理はすぐに生々しい現実感を帯びた声に打ち破られた。
「あ、ヒロ。起きたの? もう。家に呼んでおいて、寝るなんてひどいよ」
そこには、さっきまでテレビの中で受け答えしていたはずの桜木千鶴が立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます