崩落の日常

 七月七日。

 その日は眩しいほどの太陽が照りつけ、初夏の風が吹いていた。

 鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいるとすぐに待ち合わせの駅へ着いた。一旦近くの駐輪場へと自転車を停め、再び駅へと向かう。ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認すると待ち合わせの十時よりも二十分早い九時四十分を示していた。前日から楽しみにしていたこともあって、早く着きすぎてしまったようだ。何だか少し恥ずかしい思いをしながら改札前にたどり着くと一つの影がこちらに近づいた。


「お、ヒロ。早いね~」


 そこには僕より先に着いていたのか、千鶴がすでに準備万端といった様子で待っていた。

 涼しげな白のブラウスに柔らかな青のスカート、機能性を重視しつつ全体に違和感のないスニーカー。そして、そのコーディネートに負けないぐらい整った顔。思わず僕は息を呑んでいた。彼女はこの世界ではアイドルではない。だけど当然、トップアイドルになれる資質を秘めているのだ。

 通り過ぎる人たちからも心なしか視線を感じるような気がする。立ちつくしていた僕の顔を覗き込んで「大丈夫?」と彼女が尋ねてくる。


「あぁ、ごめん。大丈夫。待った?」

「それ、女の子が言うやつだよ」


 僕のとっさの言葉に彼女はしししと笑う。


「じゃ、行こっか」


 彼女はあらかじめ用意しておいた電車の切符を二枚取り出し、一枚を僕へと手渡し、改札へと向かう。歩き出す彼女に僕はただその背中についていくだけだった。

 僕は、服の一つも褒める言葉を出せない自分に辟易していた。こちらの世界の僕は勇気を出すことができたんだ。僕にもできないわけがない、そう自分に言い聞かせる。

 今日のプランは、前日までにすべて彼女が考えていた。流石に悪いと思って手伝おうとした僕だったが、「ふふん、私に考えがあるのです」となぜか敬語で話す彼女があまりにも楽しそうだったので、僕は口を挟むことができなかった。結果として、僕は今日どこに向かうのかも知らず、ただただ待ち合わせ場所である近所の駅と時間を教えられただけなのだった。

 駅からは一時間ほど電車に乗り続けた。これほど長時間電車に乗ることがないので途中退屈するかと思えば、最初は元気だった彼女がすやすやと小さな寝息を立てて僕の肩にもたれかかってきたせいで、終始心臓の鼓動が早かった。

 目的地らしい一駅前になると彼女は突然を目を覚まし、「あぶないあぶない、次だね」と呟いて電車内の電光掲示板を指差した。以前、父から聞いたことがあるが、父も会社の一駅前になるといつも目が覚めていたそうだ。どうやら彼女も同じ能力を持っているらしい。

 駅に降り立つとそこはもう地元とは別世界だった。その駅は有名なテーマパークに直結する駅で、辺りを見回せば西洋風のお店が立ち並んでいた。昔に一度だけ来たことがあるような気がするけれどそのときは家族と来たはずだ。


「目的地って、ここ……?」

「そう! お母さんがね、仕事先でいっしょの人からペアチケットをもらったんだって。最初はお父さんと二人で行ってきなよ、って言ったんだけどお父さんが恥ずかしがって」


 千鶴の父の気持ちは少しわかった。ここの来客層は主に、家族連れや若者のグループが多い。その中で夫婦二人というのは、少し気後れしたのだろう。


「それ、千鶴がいっしょに行ってあげればよかったんじゃ?」

「私も言ったんだけどね。でもお母さんが私にって」

「そうなんだ」


 そういうことなら遠慮する必要はなさそうだ。このテーマパークの入場料は数千円するはずだ。交通費なんかも考えると、高校生の財布には厳しいものがある。今度、千鶴の両親にお礼を言っておこう。

 千鶴は「そんなことより」と、顔を背けながら無言で僕に右手だけを差し出してくる。恋愛経験の乏しい僕でもさすがにその意味は理解できた。大丈夫、千鶴から誘ってくれているんだ。勇気を出せ。自分に言い聞かせる。

 緊張で今にも震え出しそうな体を抑えて、何とかその右手を握った。彼女は少し間を置いてからいつもの子供のような笑顔を浮かべた。僕も胸をなでおろす。


「それじゃあ、出発ー! 今日は遊びまくるよ!」


 その元気な背中に引っ張られながら、僕たちは入場口へと向かった。

 数年ぶりに訪れたテーマパークでは、すっかりアトラクションが様変わりしていた。古臭い建物の中で小さな乗り物に乗りながら洞窟を探検するアトラクションも、目玉の一つである敷地全体をぐるりと一周するようなジェットコースターも、記憶の中の映像より随分と新しくなっている。

 休日で、しかも記録的な梅雨の後のこの快晴だ。園内は至る所が入場客でごった返しだった。僕たちは、できるだけ待ち時間の少ないアトラクションを選ぶことにした。そうはいっても、短いアトラクションでも三十分ぐらいの待機列ができていた。基本的に人混みが苦手な僕は、人の多さに面食らったけれど、隣で並ぶ彼女がずっと楽しそうにクラスのこと、テレビのこと、家族のことを話していたので、途中からは気にならなかった。

 小さなアトラクションを二、三個回ったところで、ちょうどお昼の時間帯となった。僕たちはお互い顔を見合わせて、すぐに園内のフードコートに入ることにした。

 お昼時のフードコートということもあって、当然そこは人で溢れていたけど、運良くテラス席を取ることができた。まだ二時間ぐらいしか回っていなかったはずなのに、思ったよりも足に疲労がきていて、僕は久しぶりに座る椅子に感謝した。


「いやー、すごい人だね」

「そうだね」

「さっきの乗り物、何か揺れひどくなかった? 少し気持ち悪かった……」

「その感想、今言う?」

「だって本当にそう思ったんだもん」


 言葉では文句を言いながらも、テーブルの下では足をパタパタさせる彼女。そんな姿に僕は思わず笑ってしまう。

 きっと僕はそんな正直な彼女のことが好きなんだろうなと思った。僕ならきっと、アトラクションに文句があったとしても、相手に気を遣ってネガティブな感想は言えないだろう。僕が冗談が下手だという理由もあるけれど。でも、彼女はそれを臆面もなく口にし、それでもなお楽しんでいるということを行動に出す。僕には一生かかってもできなさそうだ。

 とりとめのない話をしている間に料理が運ばれてきた。園内の雰囲気とマッチした洋風の美味しそうな料理だ。こういう細かい気配りがすごいな、と感心していた僕だが、目の前の彼女はそんなことは気にならないようで早く食べよう、というキラキラした目をこちらに向けてきた。僕はまた笑って、いっしょに食べ始めた。

 午後からはメインとなるジェットコースターに乗ることに決めた。待ち時間は長かったけれど、それでも朝の一番よりはマシだった。ジェットコースターの登っていく感覚に僕は顔を引きつらせていたけれど、隣の彼女は宝石のように目を輝かせていた。

 頂上に到達し、急下降していくときも、僕は声を出す余裕もなかったけれど、隣の彼女は嬉しそうに絶叫していた。アトラクションの出口にたどり着いたとき、「もう一回乗ろう!」と言ってきた彼女だったが、再び待機列が長くなり、渋々諦めることとなった。僕は内心で、待機列に並んでいる人たちに感謝した。

 園内をぶらぶらしていると、園内のちょうど中央あたりに位置する広場で人だかりができていた。僕たちも興味を惹きつけられ、人だかりに参加してみれば、広場ではマスコットキャラクターたちのショーが始まっていた。マスコットたちが大音量で流されるポップな音楽に合わせて踊り、時には観客のすぐ目の前まで来て手を振ってくれる。

 僕の右隣では、家族で来た小さな女の子が必死にジャンプしながらマスコットに向かって手を振っていた。それに応えるようにマスコットも膝をかがめて、手を振り返す。小さな女の子の笑顔に僕まで笑顔にさせられていた。

 ふと左にいる彼女に視線を移すと、彼女も同じように女の子を見つめ、笑顔を浮かべていた。その光景に、僕はしかしどこか違和感を覚えた。何だろう、確かに笑っているのは間違いないのに、その笑顔からは一抹の寂しさのようなものを感じたのだ。

 僕がその正体を探ろうとしているとき、不意に大きなベルの音が鳴り響いた。どうやらそれはショーの終わりを告げるもののようで、同時に多くの客が退場口へと向かっていった。


「もうこんな時間なんだねー」


 気が付けば透き通るような青色を浮かべていた空が少しずつ茜色に染まっていた。


「早いね、もう帰る時間?」

「うん、お母さんが夕飯は作ってるから早く帰ってこいって。ヒロは?」

「僕も同じ」


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。よく言われている言葉だが、その言葉の意味をここまで切に実感したのは初めてだった。

 僕たちは大きな人の流れに乗って、広場から退場口を目指す。ちょうど来場客の多くが帰り始める時間のようで、今日一番の混雑だった。僕は人混みの中で逸れないように、千鶴の手を強く握ると、同じように強く握り返された。

 中々進まない列に焦れて、背伸びをして先を覗き込むと、同じように背伸びをして遠くを見ていた千鶴が急にこちらへと向き直った。


「ねぇ、ヒロ! 最後にあれ乗らない?」


 千鶴が指差した先には、この園内を一望できる観覧車がくるくると回っていた。


「僕はいいけど、千鶴は時間大丈夫なの?」

「ちょっとぐらい平気だって。私観覧車好きなんだよね」

「なら最後に乗ろうか」


 僕たちは人混みから抜け出して、少し離れた観覧車の下へと向かった。なぜ、最後に観覧車に乗ろうと言ったのだろうか。僕はその心がわからなかったけれど、やっぱりいつものように彼女に引かれるがままに従った。

 幸いにも観覧車の待機列はなく、すぐに乗れるようだった。彼女が先にゴンドラの奥の方に座り、僕はその横に空いた一人分に座るか悩んだ挙句、結局彼女と向かい合うシートに座った。

 最初の方は二人とも無言で外を眺めていたけれど、僕は途中で彼女の視線がある一点に向かっていることに気づいた。それはさっきまでショーを行っていた広場。僕たちがショーを眺めていた場所だ。僕はその憂うような横顔を見て、また同じ違和感を抱いた。

 キャラクターたちのショーで小さな女の子が笑顔になる。この一幕の一体何が彼女にそんな顔をさせているのだろう。

 そう考えたとき、一つの考えが思い浮かぶ。

 それを口にするかどうか僕は迷ったが、ここで聞かないともう聞くことができない。そんな予感に囚われ、僕は口を開いていた。


「千鶴、もしかして本当はアイドルになりたかった?」

「え、どうしたの。急に」

「さっきショーを見てたときに千鶴が何だか寂しそうな顔してた気がしたからさ。僕たちはショーを観る側にいたけど、もしかしたら千鶴はあのマスコットたちみたいに誰かを笑顔にする側になりたかったのかなって」


 彼女ははじめ不思議そうな顔を浮かべ、それから穏やかな表情を浮かべた。


「私、そんな顔してたかー。あはは、何だか恥ずかしいね」

「じゃあやっぱり?」

「うん。少しだけ、私もアイドルになっていたらあんな風に見てくれる人を笑顔にしてたのかなーって考えてた。ま、私なんかがアイドルになれるかはわかんないけどね」


 照れ隠しで笑いながら語る彼女の言葉に、僕は胸がチクリと痛んだ。

 なぜなら僕は知っているから。ここではない別の世界で、彼女が人気アイドルグループの一員として、多くの人々を笑顔にしていることを。僕は彼女のデビューから、いやデビューする前から、誰よりも彼女のことを見てきた。

 夕日があたり一面を赤く染め上げていく。朝に見る景色と夕暮れに見る景色は、どうしてこうも印象が変わるのだろう。人も疎らになってきた園内は、見ているものの心を締め付ける。

 僕は本当にここにいていいのだろうか。僕が胸の中に閉じ込めていた疑問が、突然僕の体を突き破って溢れてきた。

 千鶴は本当なら今ごろ僕とテーマパークにいっしょにいることはなく、きっとテレビの向こう側でアイドルとして活躍しているはずなのだ。それを僕が日記の書き換えという不思議な力で捻じ曲げてしまった。彼女の未来を、可能性を僕が奪ってしまったのだ。

 さっきまでの浮かれた気分が吹き飛び、地面に足を引っ張られ、そのまま地に伏してしまいそうな重い気持ちが去来する。


「ごめん」

「何でヒロが謝るの?」


 千鶴は本当にわからないと言った様子で僕を見つめる。その真っ直ぐ過ぎる視線に僕はきっと懺悔しなければならない。


「去年の文化祭、僕が千鶴の夢を応援していたらきっと千鶴はアイドルになってた」


 きっと、ではなく確実な結果としてだが。

 僕の罪の告白を彼女はどう思うだろうか。僕を……恨んでいるのだろうか。

 彼女の表情を見るのが怖くて、正面に座る彼女を見れないでいた僕だが、勇気を出してその顔を盗み見る。しかし、そこに浮かべられていた表情は予想と反して呆気にとられたような表情だった。


「ヒロ、そんなこと気にしてたの?」

「いや、そんなことって……、僕が千鶴の選択の自由を縛っちゃったんだよ」

「いいじゃん、縛ったって。人は何かに縛られないと地面にすらまともに立っていられないんだよ。ほら、ちょうどあの風船みたいに、すぐ消えてっちゃう」


 彼女が指差した先には、夕日を浴びてその輪郭を浮かび上がらせた赤い風船がゆらゆらと宙を舞っていた。それはまるで小さな太陽のようで。だけど、すぐに遠い空の中へと吸い込まれるように消えていった。風船が完全にその姿を消すまで、僕たちは無言でじっと窓の外を見つめていた。


「どういう意味?」

「意味かぁ。うーん、じゃあ、ヒロは何で学校に行くの?」

「どうしたの突然。そんなの……、高校生だから?」

「そう! ヒロは高校生っていう身分に縛られてるの。だから高校に行く。そうじゃないと行かないでしょ?」


 何となく彼女の言いたいことがわかるような気がした。でもそれと今の話と何の関係があるのだろう。不思議そうな顔を浮かべる僕に、彼女は続ける。


「身分だけじゃないよ。私たちはみんな縛られてるの。時間に。職業に。物理法則に。人間関係に。でもそれは悪いことじゃない。きっとみんなそうしてないと自分の輪郭が見えてこないんだよ。そうやって初めて、自分のことを認識して、地面に立つことができるんだよ」


 正面に向かい合って座っていた彼女は、手を差し出して僕の手に重ねた。


「だから、ヒロが私の選択を縛ることも悪くない! それに私はヒロに恋人って関係で縛られて幸せだよ」


 彼女はうまいことを言ってやったと、したり顔でしししと笑う。

 確かに彼女の言うことにも一理ある。人はあらゆるものに縛られている。だから、きっと真に”自由な”人なんてこの世には存在しないんだ。そんな人はすぐに消えていってしまう。

 でも人は不自由だからこそ、雁字搦めの中で踠いて、自由へと手を伸ばすのだろう。それを恣意的に曲げてしまった僕の行為は、一体どう見られるのだろうか。

 僕のそんな思考は彼女の言葉に遮られる。


「私、ヒロのことがずっと好きだった。中学のときも何回も告白しようと思ったんだけどずっと勇気が出なくてさ。そしたらズルズル高校までいっちゃって。このままじゃダメだなー、って。そんなときにテレビの中でキラキラ輝くアイドルを見てさ。これだ! って憧れっちゃったんだよね」


 彼女は昔のアルバムを丁寧にめくるように優しく語り続ける。


「私はヒロを選ぶこともアイドルの夢を選ぶこともできなかった臆病者なんだ。自分では何も選べなかったからヒロに決めてもらったの」


 違う。臆病なのはあの日勇気を出せずに自分の気持ちを伝えられなかった僕だ。


「だから、あの日ヒロが勇気を出して私に告白してきてくれたのがすっごく嬉しかったんだ」


 違う。それは”僕”であって僕じゃないんだ。


「私はアイドルにならなかったことをこれっぽっちも後悔してないよ」

「僕は……」


 ここにいる僕は彼女を選ぶことのできなかった僕だ。そんな僕が、彼女の真っ直ぐな言葉をもらう権利はないだろう。

 いつしかゴンドラは乗りかかったちょうど真上、すなわち頂上にたどり着いていた。窓から見える景色は今日一番遠く、広く、そして美しく見えた。

 何もかもが綺麗な世界。

 僕だけが不純な世界。

 僕の心は決まっていた。僕はやっぱりここにいるべきじゃない。だって僕は彼女に告白すらしてないのだから。この一週間、彼女と接してきてわかったんだ。僕は正々堂々と彼女と並びたい。今の僕では、胸を張って彼女と並ぶことはできない。

 そのためにも、僕はきっとアイドルである桜木千鶴に告白しなければならない。それは一年前の文化祭とは比べものにならないほどの勇気が必要だ。それでも、それを乗り越えて、はじめて僕は彼女と対等な場所に立てる、そんな気がした。

 自分の過ちを、そしてやるべきことを教えてくれた目の前の千鶴に感謝する。


「ありがとう、千鶴」


 僕は立ち上がり、彼女のその細い両肩を抱きしめる。そんな僕の抱擁に彼女もそっと僕の背中に手を当てる。


「本当はキスするために乗ったんだけどなー。でも、今日は許してあげる」


 しししと笑う彼女に胸がいっぱいになる。

 大丈夫、この温かさを覚えていれば、元の世界に戻ってもきっと勇気が出せる。心の中でそう確信していた。

 どれぐらいそうしていたのか時間感覚のなくなった僕たちは係員の一言で慌ててゴンドラを飛び降りた。退場のピークも過ぎ、僕たちは意外にすんなりと退場することができた。

 そのまま電車へと飛び乗り、来た道を同じく一時間ほどかけて最寄駅へとたどり着いた。


「あ、そうだ。ヒロ、約束覚えてる?」


 帰り道、夜空を見上げながら彼女は突然呟いた。僕は何のことかさっぱりわからず、きょとんとした顔を浮かべてしまう。


「その顔! さては覚えてないなー。はぁ」


 わかりやすくため息をつく彼女に僕はとりあえず謝っておいた。


「ま、もう果たせたからいいんだけどね」


 千鶴が名残惜しそうに「またね」と手を振って、僕もそれに返した。

 僕が、この世界の千鶴と話すのはきっとこれが最後だ。そう思うと、胸に込み上げるものがあったが、決意で押しとどめる。

 家へ帰ると、時刻は九時を指していた。リビングでは、両親がご飯を作って待っててくれていたけど、今の僕には何よりも優先してやらなければならないことがあった。

 急ぎ足で自室へと戻り、僕は毎日の日課である日記を開く。


『2028年7月7日 今日は千鶴と詩織、秀一と文化祭で劇を行なった。僕は勇気を出して、千鶴に告白した。』


 僕が書き換えた一文。この一文を書き換えたことで、僕はこの世界に迷い込んでしまった。この世界は一見幸せに満ち溢れているけれど、それは他の可能性を犠牲にした上で成り立った幸せだ。僕は自分の言葉で、自分の勇気で、彼女に思いを伝えなければならない。

 だから。

 僕は書き換えた一文を書き換えられる前へと戻す。


『2028年7月7日 今日は千鶴と詩織、秀一と文化祭で劇を行なった。結局、千鶴に告白することはできなかった。』


 瞬間、視界がぐらりと揺れた。

 どれぐらい意識が飛んでいたのかはわからない。視界が戻ったときには、僕は部屋の中央で立ち尽くしていた。

 戻ってきたのか……。

 スマホで『桜木千鶴』の文字列を検索する。そこには、人気アイドルグループとして活躍する彼女の公式ブログ、ファンによる情報サイトなどがズラリと並んでいた。

 どうやら無事戻ってこれたようだ。僕は安堵する。

 ほっとした途端、急激な眠気に襲われた。一日、テーマパークを歩き回ったからだろうか。こちらの世界の僕は、物理的にはテーマパークには行っていないんだろうけど。襲いかかる睡魔に我慢できず、誘われるままにベッドへと倒れこんだ。

 明日、千鶴に連絡しよう。そして、一年前に言えなかった想いをきちんと伝えるんだ。もしダメでも……、きっと今の僕なら受け入れられそうな気がする。

 そして、僕は眠りへと落ちた。

 翌朝、妙に眠気が残る体を起こして、自室を出た。

 リビングへつくと、両親が真っ青な顔でテレビを見つめていた。

 どうしたのだろうか、テレビを見てこんなに青ざめる両親の姿を僕は初めて見た。そして、僕が降りてきたことに気づいた両親が、すぐにリモコンを操作しようとするも焦って取りこぼす。

 僕は画面へと目を向けると、次の文字が飛び込んできた。


『昨夜未明、人気アイドルグループの桜木千鶴さんが住宅街で刺され、死亡したことが確認されました。』

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