第26話 天空の城

 八時を過ぎると次々と遠い親戚から席を外して行く。残った花嫁とその友人、花婿とその友人たちが寄り添ってはしゃいでいた。仲居は後片付けに奔走して、両家の親族が話合う中を山路と美咲は暇乞いをして部屋に戻った。

 二人は座卓で向かい合って座り暫くその余韻に浸していた。

 美咲に頼まれて携帯を見てみた。メールが来ないと云う事はまだ意識は戻ってないのだろう。

「そうか、まだ本郷さん泊まり込みに来てないからもう来る頃かしら、それとももう帰ったのかしら、それはないと思うけど」

「俺もそう思うから回復を待つつもりだろう」

 美咲に言われてもう一度加藤の様態を知る為に送信した。本郷からのメールでは様態は変わらずこのまま病院へ泊まり込むとの報せが届いた。

「どうしてなのかしら早朝にもう一度訪ねてもいいんじゃないの。こんな時間まで付きっきりだったんでしょう、だったら帰った後で意識が戻ったとしても本郷さんは責められないと思うけど」

「そう云う問題じゃないんだもっと次元の高い彼女の誇りプライドがそうさせたくないんだ。目が覚めたときに傍に誰も居ない加藤さんを想うときっと彼女は耐えられないんだ五年も長いこと忘れていなかった証明がたとえいっときの不在で消されてしまいたくなかったのだろう」

「そんなことはないでしようひと言さっきまで居たと言えば済むことなのに」

「加藤さんが目を覚ましたその一瞬が問題なのだろう妻だと名乗った人が消えているのとまだ目の前に居てくれてるのでは長い眠りから覚めた人にはどれほど心強いかたとえ今は遠い存在の人と解っていても……」

「ならどうして」

「海に依存しない都会育ちの人には考えられないだろうなあ。石巻いしのまきでは加藤さんは漁師だから朝早く船を出していた。だから夜明けが早いからと言っても時にはずっと寝ずに彼の寝顔を見ながら夜明けを待った日々もあったはずだから」

「そうなの漁師の奥さんって大変ね」

「美咲には旅館の女将さん以上に大変なんだと知れば本郷さんの苦労も思いも並大抵のものじゃないんだ」

「そんな微妙なものなの」

「君でなくあの人にとっては……」

 と言かけて美咲が絡んで来ると思って唇を噛んだ。が意に反して彼女はちょっと失せた瞳を窓辺に投げつけた。そして「雨になったわね」と言った。

 言われて見れば窓の外は煙るような小雨になっていた。

「昼間あんなに晴れていたのに雨になった病室で待つ身には堪えるかでもまあ検査では何処も異常はないのだから少しは気が楽だろう」

 と云ってはみても心細さに耐えている彼女の姿が浮かぶと二人とも霧雨に煙る町の中に目を移した。そこには本郷の想いが小雨に煙る中に埋もれるように映った。


 病院で加藤は明け方に目を覚ました。四隅はまだ暗い霧のような朝靄が掛かっていた。長い眠りから醒めた加藤が最初に瞳に捉えた物はうつらうつらと揺れ動く本郷の姿だった。彼はその手をしっかり握った。その手の温もりが彼女に伝わると薄っすらと瞳を開けた。その瞳が五年前の石巻の桟橋を出る彼の姿を映した。

「洋一さん」

 本郷はその瞳に映る人の手をしっかりと握り返した。その手を昇り始めた春の陽射しが写しだした。

「美希ちゃん、ずっと傍に居てくれたのか」 

 此の言葉の為に本郷は夜通し見守った。

 霧雨に煙る雲をかき分けるように昇り始めた陽の光が二人を包み始めた。その眩しい光を浴びた二人は失われた長い年月を埋める様に精一杯の微笑みで見つめ合った。

「思い出してくれたのね私のことを……」

「ああ、それよりあれから石巻はどうなっているんだ」

 彼の言葉とは裏腹にどこかまとまりを欠けた瞳が寂しさを誘った。

「見事に復興してあなたを待ってると思う」

 彼女は気落ちしないように精一杯力付けるように言った。

「でも両親も妹も一緒に乗ってたあの子も居ないのに今更どうやって帰ればいいんだろう」

「でも何度の災害に遭っても暖流と寒流の交じわる豊潤の三陸の海は昔のままよ」

「だから何百年もあの海で俺たちは生かされて来たから今更離れられないのだが……」

 この人の一抹の愁いを帯びた表情は何を語ろうとしているのだろう。

「石巻へ帰りたいのね」

 彼のその顔に惹かれるようにこの言葉が出て仕舞った。

「でももう君を連れて行けないんだねぇ」

 やはり言わせてはいけない言葉を導き出してしまったと彼女は悔いた。

「ゴメンナサイあなたがこの街で暮らした五年の年月をあたしとの出会いで人生そのものを変えて仕舞った。それは二人のせいじゃないけれど。どうしてもっと早く神は導いてくれなかったのかしら、すべては山路さんの責任でなくあの十一面観音菩薩様が罪な事をしてしまったのね」

「でもあの十一面観音菩薩が長谷寺の御本尊だと山路さんが調べてくれたお陰だからすべては運命に導かれたのでしょう」

 加藤は落ち込む彼女にあなたでなく運命だと否定した。

「そうね……。実にいたずらな運命なのね」

 今度は加藤が少し落ち込んだのに本郷の胸は痛んだ。

「今のは決してあなたを見限った意味に取らないで下さいもう少し時がゆっくりに過ぎていたら運命は変わっていたと言いたいのです」

 本郷はできる限りの思いを込めて訂正を試みた。だが加藤はあなたのせいじゃない、もっと大きな誰にも止められない時間の激流に呑まれた。だから気にする事はないとあなたも時の流れの犠牲者だと彼は本郷の痛んだ心の隙間を埋めてくれた。その優しさに此の人を伴侶に選んだのは間違いじゃなかったと確信したが不公平な時のいたずらに無力感が漂った。

「あら、今日は随分と霧が出て来たわね」

 今日の移り気な天気まで本郷は運命の気紛れだと感じた。

 冬の前とか春先の雨上がりのあとに急な陽射しで暖められて霧が発生する。とくに狭い盆地には特有の現象だった。

 加藤は窓から町を包む霧を見詰めて喜びの余りベットから飛び降りた。

「まあ、まるで子供みたいねそんなにこの霧が良いの」

「そりゃそうだ。山路さんはこれを見るために何度もこの街にやって来たが見られなんだ。今日は絶好の雲海が観られる。地元の人でも滅多にお目にかかれない物を美希ちゃんのはなむけに自然が用意してくれたんだ」と病院を抜け出そうとする。

 加藤の説明に自然も粋な計らいをしてくれると一転して本郷は気を緩めた。

「私でなくあなたへの餞なんでしょうでも勝手に抜け出していいんですか」

「云いも悪いもそんな事を言ってる場合じゃないし、それに俺はどっこも悪くないピンピンして居る」

 そう言って加藤は枕元に書き置きをして二人はタクシーを呼び出して病院を抜け出した。

 病院を出たタクシーは百メートルも先が見えない深い霧に覆われた市内を前車の尾灯を頼りに走った。乳白色の朝靄あさもやを切り裂くようにヘッドライトが前の車を照らしていた。

「夜が明け切ったのにライトを点灯するとはこんな深い霧は長くこの仕事をやってましたが初めてですよお客さん、今日は何処にも見られない天空の城が見えるのは間違いないでしょう」

 そう云いながら運転手は慎重に展望台入り口に車を着けた。


 町を囲む山々から取り残された小山に城は築かれていた。その小山に近い尾根筋に天空の城展望台がある。少し山道を行くと尾根筋に出た。そこから見る盆地は一面の霧に覆われていた。その疎らな雑木林の切れ間から、城のある小山の頂上だけが浮かんで見えた。山に囲まれた市内のすべてが見事に雲に隠れて見えず城だけが雲海から突き抜けて見える。まさに天空の城が二人の眼前にえも言われぬ姿を現していた。

「凄い!! 」

 本郷は長い年月の果てに再会を果たした二人を祝うかのような大自然のショーに見とれた。

「これほど市内全部を覆い尽くす雲海なんて初めて見た」

 と長年カメラを構え続けた地元の古老たちも周りで絶賛していた。

 そこへ山路と美咲が息を切らせて喘ぎながら山道を登って来た。

「本郷さ〜ん」

 美咲の呼び掛けに二人は振り向いた。加藤は山路の携帯に『今朝は今世紀最大の天空の城が見られますから陽が高くなれば雲海は消えますから今すぐ以前に案内したスポットへ来て下さい』とメールを送っていた。

 山路は「こんな時にもあの人は自分の事も忘れて……」とこのメールを見て唖然とした。とにかく慌てて旅館から駆け出す二人を沢井が発見すると直ぐに車で送ってくれた。その沢井は四人から離れたところで見ていた。

 四人は話す言葉を失うほど自然の営みを暫く見とれていた。

「加藤さん、もう大丈夫なんですか」

 やっと思い出したように美咲が声を掛けた。

 「皆さんには心配を掛けました」と言う加藤の言葉もこの景色の前には帳消しにされてしまった。それほど呼び出した加藤に感謝こそすれ異存はなかった。別に加藤が用意した物じゃないがたまたまの偶然が二人の再会のために創り出した物に讃美を惜しまなかった。

「ここ四、五年いやもっとだろう」

「わしの知る限りで数十年に一度あるかないかの劇的な雲海だよ」周りからそんな声が零れていた。あの人の執念が実ったんじゃないですかと長年ここからカメラを構え続けた古老を指差して噂している。古老はこの景色はわしよりもっと素晴らしい人へのプレゼントだよ。お爺さんは実に控えめな方なんですねと周りの者たちが古老を称賛していた。

 それを四人は我がことのように眼前の景色と共に聞き惚れていた。

 次第に陽が昇り出すと霧が晴れて来る。

 四人はうしろに控えていた沢井に催促されて駐車場へ戻った。沢井は帰り道の病院で二人を降ろしそのまま泊まり客の山路と美咲を乗せて旅館へ戻った。

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