第19話 東尋坊

 越前大野に居る岡田は山路さんに過去の手掛かりになるのならと写真を撮ってもらった。京都は全国から人が来る有名な観光地だった。山路さんはその土地でのタクシードライバーだと期待を膨らませた。だがあれからほとんど彼は越前大野には顔を見せていなかった。所詮は三陸での震災の関係者に出会う確率は極めて低いと半ば諦めていた。

 気晴らしに休みには出掛けるがやはり近くでも知らない土地では記憶の欠如からくる方向音痴が災いして気苦労が多かった。だから見知った土地の水島さんからの誘いは大いに気晴らしになった。

 例によって水島さんがまた誘い出してくれた。水島さんは三国駅でなく福井駅まで迎えに来てくれるのも嬉しかった。だがこの日は福井の駅に迎えに来たのは未奈子みなこさんだった。

 改札口で元気そうねと笑う彼女の笑顔は、山里の旅館に閉じ籠もる孤独の身には癒やされた。

 福井駅は何回か送り迎えをしてもらったから特に違和感はなかった。しかし今日はいつもと違って車は漁協組合の事務所に寄らず岬へ向かって行くから可怪おかしいと気付いた。

「未奈子さん道が違うしそれにもう行き過ぎましたよ」

 彼女はいつもと違う異変にも間違っていないわと笑っている。そこで今日は一番有名な東尋坊へ案内しますと一方的に宣言した。

「今日の父は特に用事があるから誘った訳じゃないのよ。あなたの本当の名前が分かったからそれを知らせに呼んだのよ」

 彼はそんなに驚いていないから薄々何かを感じていたのかも知れない。

「山路さんを知っているでしよう」

 やはりそうだったのかと彼は目を輝かせた。

「何か京都のほうで同じ様に震災に遭った人がいてぼくの写真を撮ってもらったのですがじゃあそれで判ったのですか」

「そうその山路さんのお陰で岡田さんの本当の名前は加藤、加藤洋一さんで生まれも石巻だと解りました」

 彼はもっと喜ぶかと思ったが少し怪訝そうな顔をした。

「山路さんはどうして知ったのですか、またそれを何で未奈子さんが知ってるんです」

「本当はお父さんがもっと早くから解っていたけれど今日まで黙っていたの。車では何ですから東尋坊に着いたら話しますからそれまでドライブしましょう」

 未奈子は彼が一番知りたがっていたことを後回しにした。それはごちそうを目の前にした空腹のイヌの前でお座りを躾けているみたいだった。だが岡田は怒らなかった。自然に受け容れている。それが未奈子にはいとしいと思った。母性に目覚めた女性は無知な赤ちゃんが愛しいように無垢な加藤も同様なのだ。

 福井駅からゆっくり走っても車では一時間も掛からなかった。東尋坊近くの駐車場に駐めて二人は目の前の荒々しい海岸に向かった。

 水島から言われてた行動範囲を広げる一環として一度だけ来たが観光はしないままで素通りに近かった。

「ここは水島さんに休みは出来るだけ誰に聞いても判る所は率先して行く様に言われていたので一度来ました」

「お父さんらしいわね」

「その水島さんですが私の事はお父さんから訊いたのですか」

「そうだけど」

「じゃあお父さんは山路さんから聞いたのですね」

「あなたの家族だった両親と妹さんも亡くなりましたと聞いています」

「そうですか……」

 聴かれれば答えるつもりだったが加藤は配偶者の存在は聴かなかった。それはこちらでは口まで出かかったが、本郷さんの愁いを帯びた顔が私に思い留まらせた。白黒をハッキリさせた方が良いのは解っていたが、グレーの方が今は丸く収まると未奈子は思った。吉報は出し切った方が良いがショックは小出しした方が精神には良い。特に此の先は自殺の名所でもある。

 遊歩道の先には切り立った絶壁が複雑に入り組んでいた。そこに立った加藤に動揺は見られなかった。先ずはひと息ついたが覗き込んだ加藤が発した。

「此の先はこうなっていたんですか」

 と云う意外な質問に調子抜けしてしまった。

「前回来られた時は何も見ないで帰ったのですか」

「観光が目的ではありませんからただ見聞を広げるのが目的でしたから」

 彼は尚も覗き込んでいた。

「山路さんはどうして知ったのだろう」

 この景色を見て彼はいったい何を不審に思ったのだろう。

「どうしてそう思うのです」

 確かめる必要が有ると未奈子は思った。

「最近知り合った人は山路さんしかいませんから。それに彼は十一面観音菩薩の所在地を調べたりして、写真まで撮って被災地からの人に出会えば写真を見せて捜してくれた。彼は有名な観光地のタクシードライバーですから不特定多数の人にも会えますからねきっとそれに違いない」

 彼が納得するのに日にちが掛かると。それでは来てもらうのも大変と父は距離の近いあたしに任せた。でもこんなにアッサリ認めてくれるのなら私よりこの役は山路さんの方が適任者のような気がした。しかし次の言葉でまずいと思った。

「山路さんからもっと詳しい話しが聞けるかも知れない」

 これはヤバイ山路さんの負担を減らしたい父の思惑に反する。

「さあどうでしょうその東北から来た観光客は身内でもなそうですから詳しくは知らないじゃあないでしょうか」

「それもそうだそこまで偶然が重なる訳が無い、でも家族まで流された事まで知っていたなんて石巻いしのまきも狭い土地かも知れませんね」

 事実は訳ありだが

「それなら一度石巻へ行って調べればもっと詳しい話しが聴けるかも知れませんね」

 そう続けて問い掛けられても未奈子には答えようがなかった。

「そうねでも右も左も解らないあなたなら一人じゃあ迷子になりそうね」

 と言うしかなかった。

 それを聴いた彼は歯がゆうそうに唇を噛み締めて崖下の砕ける波を見詰めた。

 ウン? 未奈子も覗き込んでみた。海面まで二十数メートルはあった。

「ここからどれぐらいの人が飛び降りたのですか」

 思わず未奈子は顔色をうかがったがそれほど深刻で無くひと息つけた。

「自殺の名所にもなっているのですから数え切れないんでしょうね」

「原因は何なのです」

「様々ですが健全な心が疲労したんでしょうね」

 彼女は出来るだけ感情を殺して冷静な対応に努めた。

「健全な心って何なのだろう、未奈子さんぼくは疲労していると思いますか」

「さあ……(こう言う報せにここを選んだ事に間違いはないと言い聞かせた)。でも楽な生き方は何処にもありませんよ」

「でも希望もありません。自分が何者かが解り石巻に居た事も解ったのに何も出来ないのに心が疲労しているのかも知れません」

「加藤さん」

 初めて呼ばれた名前に彼は不思議そう見返してきた。それを観て未奈子は次に掛ける言葉を見失った。

「ぼくに身内はいないのですか? 」

「でも此の五年間で築いた人たちが居るでしょう」

 そうは言っても何十年も築いて来た両親だが、今も父は母を愛していないのが解る。だからこれが無意味な言葉だと解っていた。それはあれほどの仕打ちを受けても父は仁和子になこの存在を認めている。

「でも繋がりがない。それを考えると急に怖くなって来ました」

 この深淵に此の人は何を見ているのだろう。何を言おうとしているのだろう。

「じゃあ戻りましょう。いつまでもこんな淵に居たら他の観光客から不審がられますからとにかく離れましょう」

 伝わらないのだろうか、その思いが次の彼の行動で払拭された。

 頷いて彼は立ち上がると直ぐに手を差し伸べて来た。突然の彼の優しさに少し驚いたが、直ぐにその手をとって未奈子もその場を離れた。

 しかし優しさは何も無いところからは生まれない。それは寂しさや孤独から人を求めるうちに生まれる。それで彼の孤独を知った。

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