第10話 復興する街角に寄せて

 もう一度過去を見詰め直してそこから新しいものを見付ければと本郷美希は仙台に向かった。車中で佐藤から社用で郊外へ行く用事が出来て山路さんの車を使いたいと連絡してきた。本郷は新幹線の中から山路にメールを送って確約を取り付けた。用件が終わった佐藤も料金メーターに上乗せしたタクシーチケットで彼を支援したことを伝えていた。 

 佐藤に事情を説明はしたが協力は求めなかったが彼女にとってはこの配慮は嬉しかった。自分に無関係ながら加藤への橋渡しに奔走する山路さんにはそれ以上に頭が上がらなかった。彼はただ仕事上の売り上げを伸ばすだけでやっているボランティア活動に等しい以上は、それ相応の対価を払うのはやぶさかではないと考えていた。それに対して佐藤も共感を持った事に少しは気分も癒やされた。

 列車は馳走する美希の思いと加藤への想いも乗せて仙台へ仙台へと狂ったように走り続けた。

 微睡まどろむ車窓から映る風景が狂ったように遠ざかり意識が虚ろになる中で夢を見た。それは津波に呑まれて行く一隻の見覚えのない漁船の夢だった。次にその船は何処どこにもない見知らぬ世界を彷徨さまよい続けていた。もうそこには不幸の存在さえも否定する夢だった。

 美希はこの夢に酔いしれた。やがて虚ろな長い旅路の果てに仙台を知らせる車掌のアナウンサーで美希は我に返った。その時には列車はゆっくりとホームを助走していて窓から父の顔が見えた。

 地に足を着けるようにホームに降り立った。

「疲れたか」

 父が最初掛けた言葉に五年の歳月の重みを感じた。だが何もかもが変わり果てていた。もうここには心の中にしかあの爪痕が残っていなかった。

「すっかり変わったのね」

「そうか、そう云えば美希は半年後のまだ傷跡が散在する街しか知らなかったのだなあ」

 あの人と初めて歩いた街角は昔のように賑わっていた。

 父の仕事の一環として美希はこの街で加藤を見知った。初めて加藤から水産庁のビルを尋ねられた。良く日焼けした黄銅色の頬が夏の太陽に映えていた。それから幾度となく父の職場で顔を合わせた。だから父が引き会わせたようなものだった。

 それから結婚して石巻いしのまきに住んだ。だが彼はあの震災から行方不明になってしまった。だが行方不明者は数千にも及んだ。まして沖で操業中に津波に遭って遭難すれば死は確実だった。それゆえに突然に降って沸いた加藤の存在にもう少し早ければ何も無かったように迷わず加藤の懐に飛び込めたのだが。

 確かに長谷寺の御本尊の十一面観音菩薩は奇跡を導いてくれた。だがいつまでにと云う指定がなかったことで余計なお世話になってしまった。

 この巡り合わせがもっと早いかもっと遅ければこれほど迷わなかったのに。 痛し痒しで宙に浮いたまましかももう日延べ出来ないまでに追い込まれても軽々しく決められない想いがあったからだ。だから父に話しても決めるのはあたしだけど加藤をよく知る父の意見を聞きたくて仙台まで居ても立っても居られずやって来た。

 父には事前に山路さんの橋渡しで加藤との経緯を知った長文のメールを送っていた。会ってから考えてもらうより会う前に十分な時間を掛けた返事を期待していた。

 美希は仙台に着くと宮城野にある店で少し早い昼食で入った。

 席に着くと「お前はどう思うんだ」と真っ先に問い掛けられた。

 ーー山路さんの話しだとあの人はほとんど一般の人と遜色がないほど回復していて、ど忘れのような感じだから身分が判れば連鎖反応のようにすべてを知るのにそんなに時間は必要ないでしょうと言ってましたから。でもあたしには五年の隔たりがあるのに加藤さんにはそれがないから新鮮に写るでしょうねとも山路さんは言ってました。

「そうか向こうは浦島のように開けてビックリ玉手箱だなあ」

「お父さんの比喩は良くない」と娘は揶揄したが堅さを取りほぐす父の配慮に頬を緩めてしまった。そうだなあと父も傍で繕うように苦笑いをした。

 ーーあたしには忘れられないもどかしさがあり、あの人には思い出せないもどかしさがある。その五年の月日が玉手箱の煙のように一瞬にしてなくしてしまう。その怖さを二人ともまあ加藤さんは徐々にですがあたしは即知ってしまう。それを受け止めてくれる人があたしには居ますがあの人にはあたし以外に家族がいない天涯孤独な身の上なのでそれを想うと辛いです。あたしは五年掛けて新しい人生を見付けたようにこれからあの人の新しい人生が始まると想うと気持ちが楽になるんです。それは我が儘でしょうか、身勝手な理屈でしょうか、間違っていると思うでしょうかお父さんは……。

「相手に落ち度がない以上は難しい質問だねえ。親の立場なら答えは簡単だが世間はこの審判を下しにくいだろうな。誰も間違ってないがそれでも生きなけゃあならないと云うところがあの人には辛い所だろうなあ」

「あの人はこの五年間ただ自分を知りたいそれだけで生きてこられたのですからね」

「何も知らないってことは邪念が入る余地があの人には無いってことだなあ。そして純粋に自分を見詰めて生きていた。そして考えていたのはただお前の事だけだろうか」

「あたしは会って話合いたいけれど佐藤さんの事を考えるとこのまま人伝にして去りたくなるの」

「そうなると取り次ぎはその山路さんと云う人しかないだろうなあ」

「薄情な女だと思われたくないけれど佐藤さんは会って納得してもらうのが一番いいがと云っていたけれど君が後悔しない方法を探し出せば何も意見する気はないと言っていたの」

「佐藤さんはお前任せか、それでもよく見抜いていると思うし加藤さんにはお前より記憶を無くした五年の月日を恨みに思うだろ」

「それはあたしも同じだけど未来を見詰めるのと過去を見詰めるのとの違いだけど、それは一歩下がらなけゃあならない人と一歩ずつ前進できる人の違いだけど無心でなければこれは出来ないのね」

「どうだ五年の月日がどれほど変わったか石巻へ行ってみるか」

 そしてふと父は窓越しに見える水産庁のビルを顎で示した。

「あのビルもよく揺れたよ。それから一時間後の午後四時頃には二、三キロ向こうの宮城野区までも津波がやって来たよでもほんの手前で止まってくれた」

 あの時は直ぐに石巻へ戻る娘を津波が来るかも知れないと止めて結局その日は戻れなかった。

 二人はその石巻へ向かった。快速電車で一時間で着いた。ほとんど昔と変わりがないがただ空き地が昔より目に付く程度だった。だがもとあった加藤の家は更地のままだった。それが胸を締め付けられた。

 ほんの少し立ち止まっただけで二人は港がよく見える高台に登った。当時の津波の状況を重ね合わせながら市内を眺めて港に戻った。

 次に加藤の新造船が係留されていた岸壁に行った。そこにはもう別の舫い船が繋がれていた。その岸壁に立った美希はやるせない思いに囚われたが「お前らしくない」と父によって諫められた。

 あの日、三月十一日の夜明け前に確かに良人おっとと共に此処に居た。いつもの様に操業前のあの人を笑って見送った。岸壁にはこの日初めて船に乗ると云う高校の卒業式を終えたばかりの彼の両親が見送りに来ていた。

 出航前に良人と交わした言葉はいつも通りだった。

「あなた、今日もまた無事に帰ってきてね」

 これに良人も笑って心配するなと言った。そして岸壁に繋がれたとも綱を船に投げこんで飛び乗った。良人と男の子は並んで手を振ると、良人は操舵室に入り舵を切ると船は舳先へさきを防波堤に向けて進み出した。何かを堪えるように暫く男の子だけは船尾からこちらを眺めていた。

 海が荒れない限りいつも通り漁に出る出船の光景に、今日も大漁の夢を託しても何の戸惑いもなかった。

 美希はその男の子の両親と一緒に防波堤を越えて出て行くまで船を見送っていた。

 息子に新しい人生の門出を託した両親の眼差しを美希は眩しいほどその時は心に捉えていた。このあと父に会う用事が出来て仙台へ行った。

 ここで震災に遭って電車が止まり帰れなくなった。直ぐに日が暮れて結局は父の宿舎に泊まり、翌朝石巻へ半日掛かって帰り着いたが良人の船は帰ってなかった。

 辺り一面にはがれきが散在しており壊れた車が無造作に点在していた。乗り上げられた船に絡みつくように数台の車がのし上げていた。まるでその日から生活の時間が止まったようにそれらの物は無造作にうち捨てられていた。それらを縫うようにして避難所に到着した。そこで嫁ぎ先の様子を窺った。

 あの日の石巻には雪が降っていて妹さんの車で避難したが、渋滞に巻き込まれて身動きできないで居ると津波がやって来た。三人は車から降りて走った。走る三人の足元に津波が来ると歩けなくなってそれから三分もしないうちに流されてしまったらしいんです。とここで加藤の家族をよく知る人から訊かされた。

 遺体安置場で三人を確認した。だが良人の船はまだ見当たらなかった。別の港へ避難してないか父からも問い合わせたが何処の港にも船は見当たらなかった。 

 一週間後に高校を出たばかりの男の子の遺体が漂着して遭難が確実視された。それから半年後に死亡届けを出して東京へ行った。

「ここにはもうあの日の面影は残ってないのね」

 復興した町を眺めて美希はふと漏らした。私が居る場所が此処にはないと受け止めてるようにも見える。

「そろそろ帰りの電車が気になるのじゃないか」

「あたし帰りは仙台空港から飛行機で帰ります」

「泊まらないのか、そうか、長く居たくないんだなあそれも良かろうそう決めたのなら居ても迷うだけだ」

 結局この日は娘には父として何もうながす言葉は掛けなかった。ただ復興した郷里の姿が彼女の背中を後押しした。

 美希は夕暮れが迫る仙台空港を飛び立った。

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