第9話 本郷美希の過去と山路の元彼女

 朝の出庫前の整備点検時にはいつも絡んで来る隣の車番の松井が今日もまた無駄口を叩かず点検を終えていた。

「どうした松井、元気がないなあお前がくそ真面目に点検していると面白くなくなる」

「山路さんからかわないで下さいよこことこ正念場なんですから」

「嘘つけ、正念場は奥さんだろう」

「その女房ですが、やつが風引いて寝込んじゃったんですから」

「だから日頃から大事にしろって言ってるだろう」

 まあねとの苦笑いして車に乗り込んだ。

「ブレーキオイルはちゃんと見ただろうな」

 大丈夫と親指を立てて松井は出庫した。だが山路はこれから缶コーヒーを飲んでおもむろに車を出した。先月までの焦りが嘘のように軽やかな出庫だった。

 この日は客も順調に伸びてまた昼頃には急ぐのか歩道で手を振ってる客が目にとまった。そう慌てなくても行きますよと、近付くとその見知った客に今度は山路が逆に慌てた。 

 どうするかと思案したあげく客の居る位置から三メートルずれてしまった。諦めて次のタクシーを待つかと思えば駆け寄ってきた。万事休す、どうにでもなれと自動ドアの取っ手を引いた。それでも彼女は何の疑問もなくゴメンナサイと乗り込んで来た。

 停止位置を過ぎて仕舞ったこっちがゴメンナサイなのに、それでもいつもなら振り向いて行き先を訊くのだが前を向いたまま尋ねた。彼女は行き先を言ってから走り出した瞬間にふと顔を起こして直ぐに乗務員証を見た。

「あなたなの元気そうね。でも奇遇ねこうしてまた会うなんてどう云う巡り合わせでしょう」

  元カノの河村美咲の何気ない一報に驚いて、山路はチラッと横向いて直ぐに前へむき直した。

「これは長谷寺の十一面観音菩薩の御利益でしょうね」

「何なのそれは、あなたはお城には興味が有っても仏像には確か関心がなかったわね」

「それが最近とあることで興味を持ちまして」

「何ですのそれは……。それより車が違うけど前の会社は辞めたの」

「夜勤がきついからそれに前みたいに稼ぐ必要がなくなったからね」

「その言い方だとあたしがこき使ってたように聞こえるわね」

「……まあそれは置いといて、また働いているのか、それでいまは仕事中か」 

「そう、あなたの云う働かざる者喰うべからずかな」

「それは俺でなくおふくろの口癖だ」

「どっちにしてもあなたはその信望者なんでしょう。でもあなたのお母さんは人の役に立てといつも余分な物は全部孤児院に寄附して贅沢も禁じているのね。そう云えば五年前には復興のお手伝いに仙台までいかれたのねあのお歳で」

「仙台じゃなくて石巻いしのまきだ。お陰で飼い猫の餌やりに留守番させられたよ」

「それは聞いてなかったわね」

 ほぼ一年ぶりの予期せぬ突然の再会だったが山路の驚きより彼女は至って落ち着いていた。まるでまた再会を予想しているような冷静な対応だった。

「君こそどうしているんだあの男とはどうなったんだ」

 あの男はやけに気っ風のいい男だった。それに彼女はいかれてしまった。

「別れちゃった」

 それを聞かされた山路には意外だったようだ。がそれに反して美咲はおどけて目をひんがら目にしてあっけらかんにチョッピリ舌先を覗かせた。

「いつだ」

 あの男への未練のなさにホッとひと息つくと鷹揚おうように構えた。

「半年前の出来事、あれはあたしの思い違いだったの、 確かにあなたより稼ぎがダントツで女性にも惜しみなくお金を遣ってくれた。でもそれも郷里の仕事を任す為だったもの」

「どう云う事だ」

 ーーあの人は某家具メーカーの凄腕の販売員で手取りも四十万近かった。その凄腕をあたしに注いで口説いて来たのである。

「だがその人は旅館の跡取り息子であたしをそこの女将おかみさんにするつもりだから、それも福井県の雪深い山間部の古い旅館らしの」

「いいじゃないか俺は泊まりに行って売り上げに協力してやるよ」

 美咲はフンと思わせ振りに笑った。

「本心じゃないくせに。それはともかくあたしがうんともすんとも言わないから半年前にお母さんが紹介した人と一緒になるのよ、あの人は。近いうちに越前大野に帰って式を挙げるらしいの」

「越前大野 ! なんて云う旅館だ !」

「そんなに怒鳴らなくても聞こえるわよ あ ! そこで止めて」

「ちょっと待ってくれその話もっと詳しく聞きたい」

「何の事 ?」

「元彼の話だ」

「変な趣味ね、でも今は仕事中で書類を届けた帰りだから。あなたの携帯に着信しておくからその番号で連絡して」

 そう云ってサッサと車を降りてしまった。

 冗談じゃないこっちにとっては一大事なのにと諦めきれずに車を走らせた。


 それから一時間後に着信が有った。律儀なところは変わってないかと、携帯を取り出すと彼女でなく本郷美希からのメールだった。彼女は十分後に来られるか、無理なら他のタクシーを捜しますと云う伝言だった。

 いつものあの会社の前なら着けると送信した。直ぐに待ってますからお願いしますと着信が有った。彼は回送にして本郷の会社へ向かった。

 しかし立って居るのは男性でよく見ると確かあの人は上司の佐藤さんだった。ウィンカーを出して歩道に寄せて止めた。ドアを開けると山路を確認するように彼は覗き込んでから乗って来た。


「社用で大原野まで行って欲しいんです」

 乗るなり彼はそう告げた。

「本郷から出来るだけあなたの車を使ってくれと頼まれましてね。近場なら面倒くさいでしょうけど大原野往復なら結構メーターが上がるでしょう」

 ーー佐藤は本郷美希からの伝言を持っていた。写真の人は紛れもなく五年前の震災に遭うまで石巻いしのまきで一緒に暮らした良人おっとだと云ってくれと頼まれた。そして私と本郷は近々結婚する予定だと告げた。それ以上の詳しい事は後ほど本人があなたに伝えるから越前大野に居る加藤さんにはそれまで他言無用にして下さいとも本郷が言ってました。そして彼女は苦しんでます胸の内を整理する時間を下さいとも言ってました。

 ーー本郷美希の父は水産庁の役人で、彼女が中学の時に仙台に転勤されました。そこで漁業関係や指導なので石巻の漁港にもよく来られてた。そこで漁師の加藤さんとも懇意になりその娘さんの美希さんとも懇意になり結婚されました。それを機に新造船で新たな人生の船出をされたのです。であの震災で海辺に在った加藤さんの家は流されて加藤さんの両親と妹さんは亡くなられました。美希さんは幸い実家の仙台に帰郷していて、帰郷と云っても仙台と石巻は直ぐそこですからよく帰ります。でこの時は加藤さんの船に漁師見習いでその年に高校を卒業した男の子が乗っていました。彼は一週間後に福島と茨城県の境辺りで遺体が発見されましたから船が遭難したのは確かでした。でも加藤さんの消息はようとして見つからないのです。あの辺りは千島寒流と対馬暖流が、いわゆる親潮と黒潮がぶつかる所で、丁度三陸沖から銚子沖まで季節によって潮目が変わります。三月十一日は福島沖から茨城県沖辺りでしょうか。同乗者は親潮で海岸に流れ着きましたが、黒潮に乗ると太平洋の方へ流されますから。そうなると加藤さんの消息は難しいです。それでも本郷は半年間死亡届を出していません。でもそれでは困る方が結構居るんです。新造船の借金です。もちろんローン返済で信販会社と生命保険会社でローンを組んだ段階で掛け捨ての死亡保険が掛けられ、亡くなった場合はそれで精算されます。だからこの場合は死亡届が受理されれば無審査で保険は直ぐに下ります。新造船を後押しした本郷のお父さんの手前も有りますから彼女は辛かったでしょうね。結局は震災から半年後に良人おっとの死亡届を出しました。

 佐藤は車の中でこんな風に本郷美希の経過を伝えた。

 ーー本郷美希が生まれた時にお父さんは和歌山の紀州の紀を採って美紀に決めた。しかしこの地に拘らずもっと希望を持たす為に美希に変えた。その逸話どおりに本人は生きていますね。

 佐藤は満足げに彼女の過去を補足した。


 到着した大原野は京都の西山の丘陵地に拓けた土地で畑や民家が点在していた。眼前には長閑な山里の風景画が広がっている。

「良いところでしょう実業家はこういう所に別荘のような自宅を構えて居るんですよ」

 佐藤は百メートルほど先に有る古民家風の大きな家を指して言った。

「あの家の方と商談しますので、まあ三十分はかからないでしょう。その右手奥に鳥居が見えるでしょうあれが大原野神社です。そこの駐車場で待ってて下さい」

 そう言い残して佐藤はあの家に向かって歩いて行った。山路は言われた神社に駐車して神社を散策した。

 鳥居をくぐると石畳の参道が一直線に長く本殿までのびていた。遙か向こうに続く参道の終わり辺りに有る石段を登ると本殿が鎮座していた。

 その長い参道を歩いていると心が落ち着いて来る。その安らぎは今日の河村美咲との突然の再会がこの神社の御利益だと勝手に決めたくなるほど和ませられる。それにしても美咲の別れた元彼の話が気になった。

 ここの説明では紫式部がこよなく愛でた神社らしい。成るほど回遊式の池があり参拝客も少なく落ち着いた佇まいは観光地らしくなかった。

 源氏物語の二十九帖に書かれた広い境内をひと回りする頃には気になった美咲の話がスッカリ取り払われた。その時に佐藤が戻って来た。

「どうですここは観光客がどっと押し寄せないから穴場でしょう。とりあえず本殿へ参拝してから帰りましょうか」


 二人は本殿に両手を合わせて参拝を済ませてタクシーに戻った。

 参拝を済ませたその時に佐藤は本郷が仙台のお父さんに会いに行った事を告げた。もうこの話は彼女一人ではおぼつかない事を意味していた。それは山路への返事が長引くおそれをも意味していた。

 佐藤は帰りの車の中では身の上話をした。

 ーー京都へ来ても和歌山なまりが抜けなくて苦労しました。そこへ行くと本郷は中学時代に転校して、石巻でも直ぐに順応してます。だから京都人の話し方を習得出来たのは適応力の高い彼女の特訓のお陰ですよ。河内かわち弁の馴染みにくさは知られてますし和歌山はそのとなりで、河内ほどでもないにしても京都から見るとけんか腰に聞こえるらしいから困ったもんです。幾ら直しても語尾の強弱が微妙にきつく聞こえるらしいんです。それを本郷は見事に直してくれました。まあそんな関係でお互いに本音で言い合っている内に、スッカリ手の内が伝わってこの人しかいないと思い始めたのです。


 二人のなり染めを聞く内に会社へ着いた。そこでも本郷美希と同じように佐藤も料金メーターに上乗せしたタクシーチケットを寄越した。越前大野の交通費の足しにしてくれと言うところも同じだった。こんな所にも本音で語り合ってる二人には通じる所が有るらしいと山路は思った。

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