第8話 本郷美希との関わり
旅行から戻ると今度は直ぐに休み明けには出勤した。今日は週一で行われる朝礼日だった。先ずは先週までの事故件数とどう云う事故だったかの説明があり、運転手としての巻き込まれない注意点を事細かに松本係長が警察からの指摘を交えて要点を絞った説明して朝礼は終わり解散した。此処で各自の現状が的確に分かりやすかった。少ない水揚げが続く者はサッサと自分の営業車に向かい、そうでない者はそれなりにくつろいだ。
余裕の山路は長椅子に座って自販機の缶コーヒーを呑むと隣に西本さんがやって来た。松井でなくてホッとした。稼ぎの悪いあいつはどうやら直ぐに出庫前の準備点検に車へ戻ったようで事務所二階の集会所には姿が見えなかった。
「
相変わらず煙草を吹かしもって隣へ座った。
「珍しいですね朝一で出る西本さんがまだ居るなんて」
「最近は客が減ってのう」
「じゃあ尚更早う出んとあかんのとちゃいますか」
「客がおらんと中々尻が重とうなってのう、それよりそっちの金のなる木はまだ枯れんか」
西本さんは羨望の眼差しを山路に向けた。その眼差しに優越感に浸っては居られない何か訳ありの金のなる木だったから。
「今日もまた予約が入っているんですよ」
ホ〜おと西本さんは感じ入っていた。
「そのお客さん、まあせいぜい大事にせにゃあかんでぃ」
これだけ上客の話を聞かされればなんぼ尻の重かった西本さんでも居たたまれずに軽くなって席を外した。その後ろ姿を見ながら山路は軽く立ち上がり営業車に向かった。
本郷美希からの予約は昼からだった。岡田さんの写真は撮ったが彼女の反応が予測不可能だった。これで上客を逃せばまた超過勤務すれすれまで走らないと生活に響く。これからの楽な暮らしを考えると不安だが、そもそもこの上客も一過性に過ぎないと思えば気も楽になる。事実過去にも上客はあったが長続きしなかった。去年の内に去った彼女と同じ所詮はバブル、ひとときの淡い夢に過ぎない。と午前中は客を求めて車を走らせた。
この日も西本さん同様に客は伸びなかったが予約の入った午後一時に回送にして走ると結構挙手する人たちに出合ってしまった。何で今頃と舌打ちしながら断腸の思いで見過ごした。その先にある会社前の歩道に本郷美希は立っていた。さっき見逃したやるせなさからふっと安堵感が湧き上がった。車はピタリと彼女の前に停止させ自動ドアの取っ手を引っ張った。開けたドア越しに腰を屈めて笑顔を浮かべる彼女の視線と合った。軽やかに乗り込んだ彼女を確かめて自動ドアの取っ手を戻した。
「どちらまでですか」
「月並みな質問なのね」
山路はこれに愛想笑いを浮かべた。
「滋賀県の湖北まで往復しますけど貸切とメーター料金とどっちが得か山路さんの方で決めて下さい」
「そこでどれくらい滞在します」
「さあ十分でしょうかこの書類の内容を説明してサインをもらうだけですから前もって佐藤の方から話をしてますから後は確認してもらうだけです」
「じゃあ貸切の方が安いですね」
「正直な方ですねじゃあメーター料金で行って下さい」
躊躇う山路に本郷美希に急かされるようにして車を走らせた。
「山路さん、あなたはあたしと同じ境遇の人を知ってますと前回言いましたね」
「はい」
今日はどのタイミグにしょうか思案する前から彼女は先手を打って来た事に山路は少々驚いた。彼女はよほど思い詰めていたのか、その思案に暮れた
「確か岡田さんと言いましたね、その人今は何処に住んで居ます」
「越前大野ですけれど」
「なんで
「本郷さん」
「ハイ ?」
「この前は石巻どころか宮城県さえも何も聞いていないし、あなたも何も言ってませんでしたけど……」
彼女は慌てて手で口を押さえた。
「それよりなぜその人が気になるんです」
山路は困惑する彼女の為にここでもうひと押しするのを
「この前に長谷寺の話をすれば山路さんは急に刑事さんみたいに人が変わったから」
「ああそうでしたか、いえ、ただその人ですけれど津波で遭難した時に長谷寺の御本尊の十一面観音菩薩しか身元を知るものは身に着けていなかったのです」
「
「偽名です」
「それもそうね雇い主も名前が無ければ仕事もやりづらいわね」
彼女はすぐに納得したが神妙な顔付きになってきた。
「その人はどう云う人です」
待ってましたと山路はほくそ笑んだ
「この前に本郷さんから予約のメール頂いた時にまた彼に会ってきました」
「日帰りで越前大野ですか」
「彼は旅館で板前をやってますからそれがそう云う訳にもいかないんですよだから一泊します」
「それじゃあお金が掛かるわね。どうしてただの被災者と云うだけでそこまでされるんですか ?」
「理由は境遇があなたと似ているからです」
「でも幾ら奇跡を叶える長谷寺の観音様だけでは他に手掛かりが無ければ……」
ーー決定的な物が有ります。
ーー何です。
ーー彼の写真です見ますか。
本郷美希は一瞬躊躇した。
「見せてもらいますか」
山路啓介は内ポケットを探りながら出した写真を運転席の背もたれから後ろ手に差し出した。十数秒なんとも云えない間が空いた。それで山路はルームミラーを見たが死角で頭しか見えなかった。
「片手ハンドルなので早く取ってもらはないと運転がやりにくいんですが」
ゴメンナサイと彼女は写真を受け取った。山路は直ぐにルームミラーに目をやると彼女は胸元に抱えたまま視線を宙に浮かせていた。山路は小刻みに前方とミラーを交互に視線だけを変えていた。彼女が写真に目を通したのを確認すると前方に視線を移した。
「どうですか」
「何処か近くの店に入ってくれませんか、そこでゆっくり見たいから」
丁度感じのよい喫茶店のような店を見付けてそこへ入った。山路は先に降りてドアサービスをして彼女が降りてから二人が入った店は昼過ぎの午後で空いていた。二人は琵琶湖がみえる窓際のテーブル席に座った。何を秘めているのか珈琲を頼むまではほとんど無言の彼女に合わすように山路も掛ける言葉を探していた。
「どうですか」
やっと山路は絞り出すように声を掛けた。が 無言の彼女を
「本郷さんの捜している人なんですね」
と続けて山路は結論を言った。
彼女は遅いんですとやはり絞り出すように添えた。
「何が遅いんです、見付けられただけでも奇跡だと思いますけれど」
「あの観音様も罪な事をするんですね」
「罪ですが ? 」
「ええ罪です、だから加藤さんには暫く言わないで下さい」
「いつまでです」
「あたしの心の整理が済むまで……。だからこの話は今日はここまでにして置いて下さい」
「判りました、で、その写真どうします」
「返さないといけませんか」
「いえ、別に、お好きなように」
彼女は写真をバックにしまった。先方を待たす訳にはいきませんからと率先して席を立った彼女に慌てて後を追った。支払いを済ませた山路が車の前で待つ彼女をエスコートしてから車を走らせた。彼女は得意先の会社に着くまでずっと湖岸を眺めて居た。そして話題は過ぎゆく景色に費やされた。先方の会社では彼女の用件が済むまで車内で待機した。
用件を済ませた彼女は何事もなかったようにそのまま帰路に就いた。
「最初に会った時は有島武朗の話をしましたけれど山路さんはお好きなんですか」
「"生まれ出ずる悩み"でファンになりました」
この切り出しから帰りは文学論に終始した。車は彼女の希望で会社の前でなく裏通りの簡素な住宅街の前で停車した。彼女はメーター料金に更に一万円上乗せした金額を書いたタクシーチケットを渡した。
「本郷さん、これ多すぎます」
「途中の珈琲代も入ってますから」
「それでも多いです」
「残りは越前大野への交通費の足しにして下さい、でもくれぐも加藤さんにはわたしが良いと言うまで黙ってて下さい」
と念を押されて彼女が降りかけた時に別にもうひとつ念を押された。
「また社用が出来たときにはお願いしてもいいですね」
こちらからお願いしたいところだったから、これで写真の一件で先行きの抱えた不安が一掃された。
「もちろんです」
と笑顔で返した。
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