第13話 ねえさんと僕と、そして島風。

 そういったものに、まったく疎かったわけではないけれど。

 愛と恋の違いなんて、今まで考えたことも無かった。


 例えばスイーツとデザートのように、言い方、表現、ニュアンスの違いなだけであって、だいたい同じものだと考えていた。


 愛とは、岩波国語辞典(第七版)によれば、そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。かわいがり、いつくしむ心。いつくしみ恵むこと。いたわりの心。大事なものとして慕う心。特に、男女間の慕い寄る心。恋。その価値を認め、大事に思う心。とある。


 そして恋とは、同じく岩波国語辞典(第七版)によれば、異性に愛情を寄せること、その心。恋愛。本来は、(異性に限らず)その対象にどうしようもないほど引きつけられ、しかも、満たされず苦しくつらい気持ちを言う。とある。


 なるほど、やはり似たようなものだ。しかも愛の意味に恋とある。これでは本当にスイーツとデザートだ。がしかし、違いに着目してみると、愛とは人として(その価値を認め)相手を慕い大事に思う心であるのに対し、恋とはとにかく相手に愛情を寄せ、また本来は恋愛が成就せず、満たされない気持ちを言う。恋焦がれ、モンモンとした気持ちなのだ。


 では、僕のねえさんに対する気持ちはどうか?


 成就せず、満たされずモンモンとしているのも確かである。が、そのものの価値、人として認め、強く引きつけられ、大事に思う気持ちもそうである。


 恋であり、愛であるのか。


 異性として恋して、姉として愛しているのか。


 こう言えばとかく綺麗に聞こえるが、思春期真っただ中のモンモンとした男子高校生で、かつねえさんそっくりに女装し、股下のが暴走し爆発しそうなくらい、イキイキと青春を拗らせているのだから、困ったものである。もう弁解の余地はない。


 そんな僕だが、

 

 あの日以来、ねえさんとの間の空気に、何かしらの変化が生じたように感じている。


「たっくん、おはよ」

「おはよー」


 朝、顔を洗ってダイニングに行くと、すでにねえさんは朝ごはんを食べ始めていた。いつものように隣の席に座ると、ねえさんはいつものように明るく優しい口調で挨拶をくれる。


「ベーコンエッグならぬ、塩鮭エッグなのよ。お母さんったら、洋風だか和風だかわかんないよね」

「スクランブルエッグを卵焼きにすれば、和風になれたのに」

「でもね、スープがコンソメなの。お味噌汁じゃないのよ。ふふふっ」

「朝食バイキングでテキトーに選んだ感じだ」

 今ある食材でバランスも考え、かつ手間を省いてスピーディーに。そんな母さんは、ある意味で合理的ではあると思う。 


 ねえさんは僕のスープに、小皿にとっておいたクルトンをパラっと入れてくれた。きっと、先に入れておこうとした母さんを止めて、わざわざ小皿にとっておいてくれたのだろう。食べる直前に入れた方がおいしいと。母さんらしいし、ねえさんらしい。


 ちょっとした気遣い、それはいつものことではあるけれど。


 或いはそれは、僕がを意識しているからだろうか?


「お母さん今日は早いからって、朝ごはん作ったらすぐに出てったよ」

「仕事熱心なことで。親父は?」

「お父さんも今日は朝から会議だって、ついさっき出たよ」

「これまた夫婦そろって、まったく仕事熱心なこった」

「こらっ、そんなお父さんとお母さんなんだから、なに不自由ない毎日に感謝するのよ」

 と言って、ねえさんはテーブルソルトを取ってくれた。

「塩でいい? ケチャップにする?」

 と言いながら立ち上がろうとするので、

「え、塩でいいよ。玉子にかけるものなんて、僕はなんだっていい派だから、あるもでいいよ」

「グルメじゃないのねぇ」

 と言って、ねえさんは笑った。


 ねえさんが朝食の後片付けをするというので、僕は先に家を出ることにした。授業前の朝に会えれば、島風と放課後の予定、今日の美術部(明石先輩の絵のモデル)の終了時間やらを話そうと考えていた。

 

 玄関口で靴を履いていると──、

「あっ、寝ぐせ、なにそのアホ毛、ぴょこんって跳ねてるよ」

 と後ろから声がかかる。


 ふと振り返ると、

「あうっ」

 ねえさんの顔が、僕の顔スレスレの真ん前にあった。

「ちっ──」

 近いっ!

「ほら、ここだけ猫の耳みたいにぴょこんて」

 と言って、僕の頭頂部からやや左後ろ辺りの髪をつまんだ。

「え、そう?」

「うん」

 そして手櫛でさらっと僕の髪に触れ、直そうとする。

「ふふっ、だめねぇ、完全にぴょこんって、たっちゃうね。ほんと猫の耳みたい。ちょっと待ってね──」

 と、クスクスと笑いながらバスルームの方へ行ってしまう。

 

 というか、ねえさん、今までこんな風に、僕の髪に触れたとなんて、あっただろうか?


 触れられるのは、悪い気なんてまったくしない。けど──、


 それから、ウォーターワックスのようなものを手に付けて、ヘアブラシやらを持って戻ってきた。

「えっ、なに?」

「いいからいいから」

 手で荒々しく、髪全体を揉むようにワックスを馴染ませ、ブラッシングや手櫛で髪を整えてくれる。

「自分で出来るよ」

「いいから、任せなさい。たっくん、今日も明石のモデルやるんでしょ?」

「そうだけど──」

 ぱっぱと手でスタイリングを整え、満足げなドヤ顔で、ねえさんは言った。

「じゃあ、これ、渡しておくね」

 と小さな巾着袋を僕に手渡すのだった。

「え? なにこれ、ねえさん」

「ん? これは、つまり、よ」

「へ?」

「明石のモデルやるんでしょ? 私に変装するんでしょ?」

 変装というか女装だけど。

「そうだけど──」

「だからよ。いつも、ほら、たっくん、あれでしょ? 衣装の下に明石の、アレ、身に着けてたんでしょ?」

「え?」

「でも、これからは、ちゃんと私の、身に着けて欲しいかなって。その方が、ほら、よりそれらしいっていうか、私のだから。だって私に変身するんでしょ?」

 あ──、

「え、まさかこれって──」

 下着!?

「嫌?」

「そっ、そんなことないよっ! 全然、寧ろめちゃくちゃ──」

 めちゃくちゃ大興奮!? というか、それこそ願ったり叶ったりで、夢のようだよっ! なんて、言ったら、引かれるかな。


「ふふ、じゃあ、私のちゃんと身に着けてね、たっくん」

「ああ、うん」

 

 この空気──、


 ねえさんの眼差しが、いつも以上に大きく感じられて、そして僕は、ねえさんを真っすぐ見つめ返すことに躊躇なくなってしまって──、このままでは、この瞬間にも、何かの箍が外れそうで、自分でも恐いような言い知れぬ衝動が、もりもりと、心の奥底のリビドーの間欠泉から熱湯のように今にも湧きあがりそうででで──、


「じゃあ、美術部補助、頑張ってね」


 ほんの一拍子の間に、ねえさんは爽やかな笑みを残して、さっとダイニングに戻って行った。なんとも言えない感情に、心が膨れ上がってしまった僕を他所に。


「……」

 よく分からないが、僕はほっと息を吐いた。僕が何かしらを意識しすぎているのかもしれない。


 しかしながら、この中にねえさんのアレが──、


 僕はそっと巾着を開けてみる。そこには小さくたたまれたショーツとブラが入っていたい。薄い空色の、さりげなくレース柄の、ねえさんらしい、品良く、おとなしめなようで、とても可愛らしい下着だった。


 ねえさんが普段身に着けている下着を、僕が。


 よくよく考えてもみれば、これは途轍もなく淫猥でインモラルだと思う。


 つい数週間前には考えられなかったやり取りが、僕たち姉弟の間で行われている。この事実に僕は、感動すらしている。なんて言っていいものだろうか?


 しかし流石ねえさん。とても素敵なデザインだと思う。僕もこれは良いと思うし、仮に僕が真剣に自身が身に着けるものを考えたとしたら、これを選ぶと思う。そこはやはり姉弟だからであろうか? 好みが似るのか。というか、ブラとショーツの好みが一致してどうする?


 ねえさんとの関係が何かしらの進化を遂げた、或いはこれがお互いに高校生となり、青春に突入したのだから、思春期のアレコレ、必然と言えるのか、なんとも訳のわからないことを言っている。が、そうとしか言えない。


 そんなわけで僕は、ほけっと浮かれながら、学校に向かったのだった。こんな朝は、木曾をすっぽかして、さっさと行ってしまおう。きっと奴はウチに顔出して「あれ? 朝早くに用があるとかで、もう行っちゃったみたいよ」なんてねえさんに言われ、とぼとぼとひとり登校するのだ。たまにはいいだろう。


 そうして家を出たのだが、思いもよらぬことは重なるものなのか、数歩も歩かないうちに、僕は後ろから声をかけられたのだった。


「大淀クン、おはよう」


 振り返る前に気が付いた。その声は、優しさを含んでいて、聞いていて心地の良い響き。島風だ。


 あれ? でも──、


「あ、おはよう」


 と振り返った僕は、目を見張った。


 島風は女子制服をきっちりと着て、髪をおろして、涼しげに微笑んでいた。


「なっ、島風──」


 その格好で、登校するのか!?


「夏服になる前に、もっとこのセーラーブレザーを着ておきたくて、きちゃった」

「ええーっ」

 

 着ちゃったって、いや、来ちゃったってこと?


「その姿で登校して、大丈夫なのか?!」

「うん、別に、下校もしてるし、誰も気が付かないよ」

「そうなのか?」

「学校に着いたら、保健室で着替えさせてもらってから、教室に行くのです」

「そ、そうなんだ。というか、なんでここに? 島風の家、逆方向だろ?」

「うん」

 そう言って、島風ははにかむようにニコニコしながら、髪を耳にかけるようにかき上げた。


 つまり、僕と一緒に登校するために、遠回りしてきたのか? でも僕はそのことをいちいち聞くのをやめた。

「どうかな? この前着ていたのと少し違うんだよ」

 そう違う。プリーツスカートが、あきらかに短い。そしてニーソックス。ねえさんのようなギリギリの丈で、スカートの裾とニーソックスの淵との間の、俗に言う絶対領域が、太ももの付け根により近く、むちっとした肉感が一層眩しくて、釘付けになるほど艶めかしい。

「とっても、似合ってる──、可愛いよ」


 可愛いよ。と、その言葉を僕は自然と発していた。


「ありがとです。でも面と向かって言われると、恥ずかしいです」

 と言って島風は、はにかみながらまた髪を撫でるようにかき上げた。

「うん、すごくいいよ。女の子より──、あ、というか、なんというか──、脚が長いから、ニーソックスがとても似合うよ」

 女の子より? つまり島風がなんだというのか? 些か表現に困る。

「大淀さん、お姉さんもよく穿いてますよね。とても女性らしい美しさを感じます。です」

 確かに、ねえさん以上にニーソックスの似合う人を見たことが無い。と言ってしまえるほどに、僕はあの素敵さにやられている。が──、

「でも、島風も負けてないよ。脚のラインが女性的ですごく綺麗だし、しなやかで、健康的で、魅力があるっていうか、その──」

 組体操の時の「僕の脚、好きに、触ってもいいですよ」という島風の言葉を思い出し、背筋になにかがゾッと走り、言葉に詰まってしまった。

「ふふふ。ありがとです」

 と言って、島風はサッと歩き出し、僕の前を嬉しそうにてくてくと進んだ。


 その後ろ姿、よくよく見ると、身のこなし、足取り、カバンを下げた手、振り返る仕草、全てが女性のそれのように、柔らかく流れるようなしなやかさだった。


「島風って、後ろ姿も、身のこなしも、本当に女性的というか、優雅だよ。柔らかい感じがして」

「え、そうですか? ふふ、嬉しいですけど、そんな風に観察されると恥ずかしいです。でも、きっと服のおかげかもしれませんよ。女性の服は、スカートもそうですけど、着ていると、自然とそうなると思います、です」

「へぇ、そういうもんか?」

「だって、立ち振る舞いとか、特に意識したことなんて、ないですから」

 デザイン的にそう見えるのか? それともそれを着ると、そういう動きに自然となるのか?

「そうか、ずっと子供のころから、そうだったから、全部が自然なんだな」

「でも、きっと大淀クンも、こういう格好をしたら、きっと、こうなると思う。です」

「え?」

 僕もそうなる? そんなこと言われると──、というか、ねえさんの下着を持って歩いている今の僕、妙な気持になる。というか! そういえば、島風はその制服の下に、なにを付けているのか!? やはり、いやそれはきっと! 女性用の下着!? ショーツと、そしてブラもか?!


 どうして今までこの事に気が回らなかったのか?


 島風の下着姿──、


 そう考えるが早いか、ピンク色の鮮明な妄想が僕の脳裏を埋め尽くすのだった。島風なら、一体どんなものを選ぶのか、ショーツもブラも。可憐極まりないその姿──。と、僕が妄想でどうにかなってしまいそうなその刹那、島風は突然横に来て、僕の手を取ったのだった。

 

 あっ──、


「大淀クン、手を繋いでも、いいですか?」

 というか、もうすでに繋いでるんだけど、島風。

「嫌ですか?」

「え、いいよ。でも、誰かに見られたら、その──」

「嫌ですか?」

「嫌じゃないよ。でも、島風の迷惑にならないか?」

「迷惑なんてないです。ただ、僕、手を繋いで歩きたくなってしまって。それにまだ早いから、この時間に登校してる生徒も多くないし、きっと、見られる心配も少ないです」

 と言って島風は、ぎゅっと僕の手を握った。島風の手は温かかった。

「まあ、島風がいいなら、僕もいいよ」

 と僕は、とぼけたことを言って返した。

「本当ですか? もしクラスに気になるコとかがいて、そのコに見られたら大変とか、ないですか?」

 少し吹き出してしまった。

「いやいや、いないから、そんなコ。全然いないから、平気だよ。島風さえよければ、ね」

 というか、ねえさん以外に異性として意識した人とか、ときめきなど、今まで一度もないから。というのは一応、事実であるし。

「ほんとにですか? 大淀クン。少しだけ意外でもあったりします。でも、よかったです」

 と言って島風は少し俯き、なんとなしに微笑んだ。

「意外かぁ。というかそもそも、そんなにクラスにも学園にも馴染んでないのかもしれないな、そもそも」

「大淀クンも、僕にして欲しいことがあったら、なんでも言ってください。僕、なんでもいいですよ」

「え?」

「僕にして欲しいことです」


 して欲しいこと? なんでも!? それって──、なんでもなんて言われると、少し戸惑ってしまう。が、なんでもいいなら、島風の──、

「なんでもいいの? 本当に? 本気で?」

「なんでもいいです。大淀クンが僕に望むこと。いつも僕が我儘を聞いてもらっているような気がして、だから、なにかをお返しにしてあげたいのです」

 べつに我儘を聞いているつもりもないけど、でも、


 ならば──、


 僕は少し息をすって、心を落ち着けて「ならば言ってしまおうかっ!」としたその刹那、


 チリンチリンチリン♪ と自転車のベルが大きく響き渡り、

「おはよー! 早いわねぇー、えらいわねぇー、車に気を付けて登校するのよぉー」

 と、キーの高いお茶目なアニメ声で挨拶を飛ばし、僕等の横を颯爽と自転車で通り過ぎる小柄な女性。


 はっちゃん先生!!


 一瞬ビクッと驚いた僕と島風だが、すぐさまその場で吹き出してしまった。そして、繋いでいた手は放していなかった。


「伊八先生って、面白いですね」

「ほんと、ある意味変わった先生っていうか、特殊キャラだな」

「女性としても、とてもキュートで可愛らしいです。ああいった感じも憧れます、です」

 そう言って、島風はどこか嬉しそうに笑うのだった。


 なんだか島風といると、僕の中のある種の部分が、一般的高校生男子のそれとして正常に保たれるような、或いはこれが俗に言う、青春の一ページなのかとも思えて、実は真っ当な学園生活が始まったようにも感じられた。これもやはり、なんとも訳の分からないことを言ってるかもだけど。ただ、そうとしか言えない。


 そうして僕は島風と手を繋ぎながら、きっと傍から見れば薔薇色の学園生活を謳歌しているような感じで登校し、普段は生徒の出入りの少ない学園の裏門の方をあえてくぐった。


 またどこからか、明石先輩に目撃されていないことを祈る。そして、木曾の奴にも。


 因みにだが、この時の股下の彼の動向は、特に語らないでおこうと思う。奴はなんどきも節操なくイケイケどんどんなのは、もう周知の事実であろうが、しかし、この平和な朝を、僕は誰にも邪魔されたくないと思ったのだ。 

 

 余談だが、岩波国語辞典(第四版)では、愛についての説明文は全く変わらずだった(つまり愛は不変か)。そして恋については(異性に限らず)というカッコ書きの文が無く、また補足の説明がかなり少ない。第七版の、異性に限らず、という文言は、時代の流れを感じさせるが、しかし「恋」というその意味は、時代と共に大きく広がっているのかもしれない。それはまるで、僕らの青春の可能性のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大淀クンの黒歴史青春白書 目鏡 @meganemoe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ