第3話 制服とプレイと僕
女装とは、岩波国語辞典(第四版)によれば、男が女の姿をすること、とある。実にそのままの真っ直ぐな説明だ。では、コスプレとは、これは昭和の時代に発行された国語辞典にはさすがに収録されておらず、同辞典の第七版を引くと、漫画・アニメ・ゲームなどのキャラクターに扮装すること、コスチュームプレイ(衣装劇・時代劇)からの略語、とある。ねえさんはキャラクターではないので、少し違うか。ただ、女子高生という役柄ととれば、そうなるか。
因みに、第七版で女装とは、男が女の姿をすること、とあり、時代が流れてもその説明は変わらない。
それはさておき、僕のコレはどういうことか? 女装、確かにそうだ。コスプレ? 女子高生のコスプレ、いや、ねえさんのコスプレか? コスプレのプレはプレイの略だ。つまりプレイするのだ。女装してプレイ。学園祭の演劇ではない。つまりは所謂
いやはや。
そんなわけで、僕は頭をブルブルと激しく振って、邪念を払う努力はした。
僕はねえさとは違う。僕たちは実の姉弟で、確かに目鼻立ちは似ている、が、ねえさんは特別なのだ。そう思っていた。美しい肌、美しい瞳、スッと伸びた鼻筋、優しげな眉、どれもがねえさん特有の特別なものだと。同じ兄弟でも、僕とは月とスッポン、何となく似ていて、そして非なるものだと確信していた。
が、僕が姿見で見つめるねえさんらしき者は、紛れもなくねえさんであり、そして僕だった。
この僕という平凡な一男子は、実は──、美しい? キュートなのでは? そう感じてしまったのが、そう意識してしまったのが、過ちの始まりだったのかもしれない。
「……」
あぁねえさんっ! というか僕だろっ!!
何をやってるんだ僕は。
がしかしっ! コレはつまりナニでアレなのだ。そう、
僕の股下にっ!!
あぁー待て待て、なんということか、僕の下半身、股間に鎮座する男の子の象徴、股下の
落ちつけ僕、そして僕の
お願い、今は自重してっ! 股下の彼っ! 物理的に汚してしまっては大問題だ。神聖なるねえさんの制服だぞ。いやそもそも、無茶振りにもねえさんそっくりに変装して、こんなこと、僕にも
どうしてこうなった?!
「たっくん、どう? 着替え終わった? 制服のサイズはどう? 大丈夫? ウィッグのつけ方ちゃんと分かる? あ、あと、お姉ちゃん少しメイクもしてあげるわね。ねぇ? たっくん? たっくん大丈夫?」
と、ドアの向こうからねえさんの声が聞こえる。
あぁ、ねえさん、僕はトンデモナイところに来てしまったような、というか、行ってしまうような気がするよ。
本能には抗えず、僕は股間の彼を
「た、たっくんっ! やだ、うそぉーっ! ほんとそっくり、私そのままだわ。なによそれ、そっくり過ぎじゃないっ?!」
「お、大淀、おまえ、まさか、これほどまでとはな──」
「まるで鏡を見ているみたいだわ」
そう言って頬に手を添えて僕の瞳を覗き込み、ジッと凝視するねえさん。ああ、ねえさんの眼差し、その瞳、綺麗だ。
「それに、脚もすごく綺麗ね。もう高校生なのに、たっくんって、いつまでもすべすべなのね」
とそう言って、ねえさんはさわっと僕の太ももの絶対領域に手を這わせた。
「あっ、う。ちょっ、ねえさん、触らないでください」
「いいじゃない、姉弟なんだから。たっくん、とっても綺麗よ」
「ねえ、木曾君もびっくりでしょ? 男の子から見てもそうでしょ? ちょっとドキドキするほどに、そうじゃない?」
「え? あっ──」
「木曾、てめぇ、それ以上見るんじゃないっ!」
自分で言うのもなんだけど、このいわゆる「ねえさんコスプレ」は信じられない程の出来栄えだった。目を疑うし、鏡に映る姿に見蕩れてしまったりするほどに。傍から見れば気色が悪いかもしれないが。ねえさんの目を見張った驚きも、木曾の奴の面食らった様子も、それはそれで見もので、ほんの少しだが、してやったりと得意げな気持ちになったのも事実で──、
いやまてまて、これはあくまでねえさんの
でも股間の陰で、密かに屹立する
そうして僕は、煙るような夕陽の下、恐る恐る玄関の扉を開け、学園に向かっての一歩を踏み出した。完璧な偽ねえさんとなって。この背徳とエロスと高揚が綯交ぜとなる訳の分からない緊張感は、特殊性癖を所望する者の甘美な麻薬か。この一歩が、健全なる普通の男子高校生の一線を越える、その一歩となってしまうのだろうか。そんな風に感じていた。
そして正直に言えば、かりそめにも、こんな歪んだ形で、心の奥底である種の自己実現にも似たものを、僕はほんのり感じてしまっている。そんな嘘みたいな内心を、完全否定できないでいるのだった。
外を歩くというのは、部屋で姿見を前にしてニヤニヤしたりくるりと回転して見せたりするのとは、まるで次元の違うプレイだった。ただ歩くだけで、冷や汗が滲む。緊張で身体が震える。出くわす人にいちいちビクッと動揺し、そして、何よりも、その視線に硬直する。変な目で見られているのでは? 自意識過剰か? 特に男性の視線が恐いし、キモイ。いやキモイのは僕の方だけど。
ただ、スカートがこんなにも開放的で美しいとは。素直にそう感じた。これを軽やかに着こなすことは、素敵なことだ! と、自分の感覚に少し驚いた。
僕は誰とも目を合わせないように、やや俯き加減で目線を落し、すれ違う人がいれば、視線を避けるように端に寄って、そして前髪をいじるふりをして顔を隠した。駄目だ、緊張で死にそうだ。
人の視線がこんなにも鋭く突き刺さるものだという事を初めて知った。
友人やクラスメイト、教師に出くわす、或いは見知らぬ女子中高生達に正体を見破られて、ひそひそと後ろ指を差されていたならば──、想像しただけで爆死しそうな状況の中、僕は股下の
あぁ、いつも通る校門を、ねえさんコスで、あたかもその
放課後もかなり過ぎた学園は、ほとんどの部活動も終了し閑散と静まり返っていた。もう教師も生徒達もそれほど居残っていないだろう。と、僕はそそくさと玄関口まで小走りで行き、校舎に入った。入るというより、忍び込むという方が正解か。忍ぶのだ。教師や生徒、ましてやクラスメイトには絶対に出くわしてはならない。
あ、下駄箱、ねえさんの上履きを履くのか、いやサイズが合わんだろう。でも、僕のを履くと、バレる? いや、誰とも会わなければどうということは無い。
廊下も夕陽で黄金色に染まっていた。人気のない放課後過ぎの校舎という閉ざされた空間は、街中を歩くより僕を幾分安心させた。その安心感は、妙に僕をたきつけ、本来の目的とは違う、そのねえさんなりきりプレイを助長させたのだった。胸を張って軽やかに颯爽と廊下を歩く。廊下の窓から中庭を覗く。壁に靠れかかり、スカートを少しつまみ上げてみた。片足を前に伸ばして、フラフラと振り上げ、マジマジと見る。本当に、ねえさんの脚のようだ。ヤバイ、これ、──楽しい!? ふと見ると、トイレの標識、男子トイレと女子トイレ。いや待て、今お手洗いに行くとしたら、どっちだ!? この姿で男子は無理だろう。しかし女子トイレに入っていいのか!? イケナイな好奇心と誘惑が僕を襲う。この異様な動悸、このプレイ、なんて甘美でエクスタシーかっ!
いやいや、まてまてまて、何をしているのか僕は。
早く
先ずは目的を達成し、──ま、おまけのお戯れは、その後だ。なんてね。
一応確認のため、先に僕の教室に向かった。教室の中を覗くと、誰もいない。そのまま中に入り、僕の机までそそと行ったが、やはり体操着袋は見当たらなかった。しかし、この姿でいつも授業を受けている教室に入るというのも、なんとも背徳的な。こんなところでそれこそアレだ、ソレをナニしたら、トンデモナイ変態だろう。
いかんいかん、またそんな、不謹慎な妄想はよそう。と、僕は自らを律するべく──、背筋を伸ばして自分の席に座ってみたり、机の上に座って脚をパタパタさせたり、そして何度も足を組み替えたりしたのだった。女子としての可憐と思しき仕草、ああ、歯止めが効かない。僕は一つ知ってしまった。正直これは、容姿に自信のある女子ならば、得意げになっても仕方あるまい。スカートという可憐なヒラヒラ、おみ足の柔肌をチラリと見せて颯爽と靡かせる。それはまるで、マタドールが赤いフランネル製の布ムレータで、堂々と牛を操るかのような気高さにも似ていて、というのは言い過ぎか。
ふと、見られたい──、とういう危険な妄想が脳裏によぎり、僕は頭をむしろ闘牛の牛のように振った。
駄目だ、頭を切りかえよう。
やはりねえさんが自分の教室に忘れてきたのだろうと、3階の2年生の教室に向かった。
で、ねえさんの教室をそっと覗く。誰もいない。ねえさんの席は窓際の先頭だった。僕は素早く教室に入って──僕のクラスメイトに出くわすよりも、ねえさんのクラスメイトに出くわす方がよっぽど危険な状況だとすぐさま理解して──忍者のようにそそと机に駆け寄った。そして椅子の下やら周りやら、机の中まで隅々を探した。
無いっ!!
何故だ!?
まさか、本当に、
一瞬狼狽したが、立ち尽くしている場合ではない。教室の後ろの棚やら教壇やら、ねえさんが置き忘れそうな、或いはクラスメイトの誰かが忘れ物としてどこかに置いたか、などなどを考慮し、教室の隅々を探し回った。そして、角の掃除用具ロッカーを開け、やはり無いのを確認したその刹那、僕は背中に突き刺さるようなぞわっとするものを感じた。視線!? この姿(ねえさんコス)が僕の神経を過敏にしていたのが幸いしたのか、いやそもそも幸いではないだろうこの姿だが、誰かが教室の後ろ側のドアから覗いている? ような気配がしたっ! 咄嗟に振り返ったが、誰もいない。僕は再び忍者のようにそそと教室の黒板側のドアまで走り、廊下を覗いた。やはり誰もいない。が、今さっき視線や気配は確かにあった! 僕はドアをガラリと開け廊下に出た。と、その時、ジャリっという靴底で床を擦る音が響いた。廊下の左右を素早く見るが、やはり誰もいない、人影もない、が誰かが確かに近くにいるはず! 階段への曲り角か? 僕はその階段とは逆側の、廊下の突き当りにある教室から遠い方の階段を目指してダッと走り出した。マズイマズイ、ねえさんのクラスメイトやら先輩達に出くわすわけにはいかない! 絶対に無理!
廊下にパタパタと足音が響く。が、あれ? ちょっとまて、これは!? 僕の足音だけじゃない? さっきの隠れていた誰かか!? まさか、僕の後を追いかけて走って来てる?! マジかっ! ヤバイヤバイヤバイ! スカートがパタパタと靡く。このスカート丈、全速疾走するとパンツ見えちゃうのでは? ねえさん! などと考えている場合でもなく、僕は廊下の角を靴底をキュキュっといわせてほぼ直角に曲り、階段を一気に駆け下り1階まで来たのだった。しかし、耳を澄ますと、僕を追ってきた足音は、階段を下りては来なかった。あれ? 諦めたのか、或いは僕の勘違いなのか?
いやまて、まさか!? この誰かこそ、
ねえさんが忘れ物を取りに戻ると分かってて、待ち構えていたのか!? だから、姿を見せず、だがねえさんを付け回す。この変態野郎め! 犯人を突き止めねば! そして
ゆっくりと注意深く、そして足音を立てず、しかし聞き耳を立てて、僕は気配の察知に全神経を集中させて階段を上がった。ひたすら無音に徹して。だが、二階まで上がりきっても、追いかけてきた誰かの気配は、完全に消えていた。バカな? それから僕はそのまま廊下をすたすたと、それこそ不意に誰かが教室から出てきたとしても、ねえさんとしてサッと通り過ぎてやりすごせるような早足で進んだ。ここで出くわした奴が容疑者だ。その顔を拝んで、そして一旦は逃げる。そして今度はこっちがコッソリそいつを尾行するのだ。
再び、ねえさんの教室の前に来る。中を覗くが、──誰もいない。
どういうことだ? でも、さっきは絶対に誰かに追われていたし、人の気配は確実にあった! 一杯食わされた? 変態犯の野郎、どこからかこちらを変態の目で見つめているのか!?
少し汗をかいたので、髪を軽くかき上げた。ロングヘアというのはこんなにも熱いのか。眼鏡を外し、そして掛け直す。とはいえ僕は、ねえさんらしく振舞えているのだろうか。その仕草で自然と可憐さを醸し出すねえさん。そんなねえさんに僕はなりきれているのだろうか。別になりきることが目的ではないけれど、変態犯をおびき寄せるためには好都合だ。それに、こうなってみると、憧れのねえさんにもっと近づきたいと思ってしまう。
しかし、もし変態犯の気配が単なる気のせいで、ねえさんの教室にも無いとすれば、正直お手上げかもしれない。道に落したか、或いは体育更衣室か? それともお節介なクラスメイトが忘れ物として職員室に届けたか。職員室をたずねるのは危険極まりないだろう。この姿で教師と対面するのはそれこそ自殺行為だ。かと言って──
などと、ねえさんの教室の前で思案していると、
えっ──、
唐突に、背後に人の気配を感じた! しかもすぐ近く、もうすぐそこ、手を伸ばせば届くほどのっ!!
まさかっ、そんな、いつの間にっ! と思った次の刹那には、息遣いも微かに聞こえた!
やばっ! うそ!
観念して振り返ろうとするが早いか、僕は混乱した!!
突然背後から抱きしめられたのだった!! がばっと! その誰かにっ!!
そしてその誰かの手は、僕の胸元とそして、股間の中心を鷲掴みにっ──?!
うげっ! 胸はともかく、股間はマズイーっ!! 家を出てからずっと臨戦状態の
「大淀ぉーっ! なにしてんのぉ? こんなところでぇ」
だがその誰かは、予想外な声を発した。まっ、マジかーっ!? ──それは明石先輩だった。
「きゃわあああぁっ──」
僕は変な声を発してしまった。さらに胸と股間をムギュッとされる。
「あれ? えっ! なにコレ、えっ、ちょっと、大淀?」
「あっ、あう、あうあ、あっ──」
「ええっ! ちょっと大淀? え、大淀なの!?」
明石先輩は驚いて、僕をくるっとひっくり返した。
「え? あっ、大淀! えっ、あれ? どうゆうこと? え!? 大淀よね?! あれ?」
「あ、あの、あっ、明石先輩──」
「えええっ!! なに? えっ!? 弟クン? もしかして、大淀弟クンなのぉ!?」
「あ、はい、はぁ──」
「ええ! どうゆうことっ!? なになに、えっ! なに? なによ、一体、なにしてるのぉっ!?」
目をまん丸に丸くして驚く明石先輩。そりゃそうだろう。一見どう見てもねえさんだけど、ねえさんそっくりに、ねえさんの制服を着て、つまり女装で、ねえさんに変装した弟が、ねえさんの教室の前で突っ立っているのだから。
というか、驚くのはこっちもだった。
明石先輩は、体操着を着ていた。胸に「大淀」の刺繍。つまり、ねえさんの
まさかのまさか、
お互いに、ねえさんの制服を着こんだ弟と、ねえさんの体操着を着こんだその親友とが見つめ合う。
なんだこの変態の奇跡の邂逅!
僕はどうすることも出来ず、それこそ立ち尽くしてしまった。もう穴があったら入りたい。というか、墓穴に片足を突っ込んでしまったのだろうか? これぞ絶望感というのだろうか。
ただ、この奇跡の邂逅に歓喜の雄叫びをあげるべく、僕の股下の彼が、さらに天を劈くようにそびえ立ったのは、それこそ墓場まで持っていくべき秘密である。
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