第1話 姉と体操着と僕

  

 青春。青い春と書いて、青春。


 岩波「国語辞典」第四版によれば、

 青春とは──、若い時代。人生の春にたとえられる時期。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期、とある。なるほど、実に簡潔かつ明確な説明文である。


 世知辛く、とかく生きにくい現代、僕が通うこの学園の全生徒、いや、今現在漫然と授業を受けている僕の、その視界に入るだけのクラスメイト達、華々しくも初々しい四月の入学式からまだ二ヶ月ほどで未だ親しいとは言い難い彼ら彼女らに限定したとしても、全員が希望をもち、理想にあこがれているかどうかは、些か怪しい。


 が、しかしだ、

 

 学園全生徒どころか、全国の高校生全員に拡大したとしても、というのは、ほぼほぼ当てはまるのではないだろうか! この場合の異性とは、文字通りの性別という意味ではなく、恋愛対象ということだろう。

 

 ただ一部には、やれ薔薇色なんて興味ない、或は恋愛なんて非効率的な活動、ナンセンス。などとニヒリズムよろしくクールなスタンスを決め込むような、口癖「興味ないね」≒俺カッケー的な気障な奇人もいよう。そんな奴は大抵、教室の一番後ろの窓際の席に座り、基本無口で、休憩時間は寝てるか、黙々と本を読んでいて、常に虚ろで遠くを見るような、或はすべてを見透かしてるかのような眼差しで、時折鋭い切り口の気の利いた言葉でツッコミを入れてくる、そう、まるでライトノベルの主人公のような奴だ。まさに今僕の後ろの席に座るこいつもそうだっ! ま、こんな色即是空な奴はほっといて──、あ、あと「指すは全国制覇っ!」的な部活が恋人な奇特な方々もいよう。


 だがそんな特殊事例はさておき、みんなすべからく恋に、恋愛に興味津々であることは十中八九確実だ。ほぼ間違いない。これが凡庸でありながらも普遍的であり、至極まっとうな高校生だといえる。

 

 そういう意味では、僕はすこぶる正常かつ標準的な男子だと思う。


 だた、その求める対象が、だという点を除けば。

 

 さて──、

 

 僕はx、y、zや、sin、cos、tanなど、まるで生徒達を謎に導く暗号のような文字が並ぶ黒板から、森の野鳥のさえずりのように心地よい、「キャッキャ」と妖精が跳ねるような黄色い声のする校庭に視線を移した。数学という迷宮で遭難する前に、さっさとクエスト放棄したのだ。

 

 そこには、僕の愛しの女神、マイスイートハニー、ねえさんがいた。

 

 どうやら二年S組は体育の授業らしい。同級生の女子達に囲まれ、何やら「キャッキャ、キャッキャ」と騒いでいる。中心にいるねえさん、クラスの同性からも人気があるのだろう。クラスの男子達は言うに及ばず、図書館委員を務めているのもあって、学園内の迷える雄ども──劣情の権化のごとく悶々と思春期を高温発酵させ、薔薇色とは対極の玉虫色の青春を突き進む全男子生徒達──からの知名度及び人気はすこぶる高い。だからこそ、ねえさんを篭絡しようと企む不届き者も数知れずで、それこそが、学園生活における僕の、最も懸念する所である。

 

 それはさておき──、

 

 突然、一人の女子生徒がねえさんの手を引き、乙女達の輪から引き離した。

 女子にしてあの堂々たる立ち振る舞い、凛とした立ち姿──、あれは、明石先輩。


 この学園での立ち位置を未だ見いだせないでいる僕の、数少ない面識のある先輩の一人で、ねえさんの中学時代からの親友である。よく自宅に遊びに来るので、僕にとってもに親しい知人と言える。

 ねえさんと同じくスラリと背が高い。ショートボブのヘアスタイルも相まって、キリリと凛とした、悪く言えば怒るとコワそうな先輩といった印象。だが、実際は至って気さくでおおらか。良い意味で大雑把かつ豪快、面倒見のよい近所のおねえさんといったところか。僕を実の弟のように、悪い意味でもくれる。


 そんな明石先輩が、ねえさんに対しオーバーリアクションとも言える剣幕でなにやら話して──?

 まあいい、僕は姉さんの体操着姿ブルマを眺めれれば、それで幸せなので──、が?

 

 ねえさんの体操着が──、あれ?


 女子体操着ブルマじゃないっ?!

 

 僕の色覚に異常が発生しているのでなければ、ねえさんの穿くアレは、紺色の短パン? 上はジャージだが──、と思うが早いか、たった今、ジャージを脱ぐねえさん。はっ!? 半袖Tシャツの襟首と袖に、ブルーの縁取り!? ──間違いない、確かにこの青空よりも濃いブルー!


 今ねえさんが着ている体操着、それは紛れもなく、男子体操着! え、何故?


 いったい、何故にっ?!

 

 何故だ? 何故ねえさんが男子の体操着を着ている!? 何故わざわざ男子用紺色ベースの体操着上下ををしれっと着こなしているのだ? 明石先輩もソレを問いただしているのであろうか? 全くもって訳が分からない。いやまて、体操着の胸元に小さく名前の刺繍があるはず──、が、二階のここからでは見えるわけがない! が、しかしっ! 明石先輩にツッコまれて、てへぺろしてるのは分かってしまうぞぉ、ねえさんっ!


 とその刹那、ねえさんの姿に動揺しているこの僕に、教壇にて数学クエストを率いる教師から命令が下った。


「おい、大淀、なによそ見してんだ? ちゃんと授業を聞いているいるのか? よしお前、この問題の最初にやるべきポイント、説明してみろ」

 と、黒板に書かれた、まるで古代遺跡の暗号碑文のように摩訶不思議な図柄を指した。

「はいっ、えっ?」

 咄嗟に立ち上がった僕だが、もちろんてんで分かっていない。黒板の文字列はもはや、僕にとってはエニグマを解読するかの如く難解に思えた。

「えっとぉ──」

 

 ──最初にやるべきポイント?

 

 最初にやるべき──、


 最初にやるべき、そう、それは問題を正確に理解することだろう。そうだ! そう、何故わざわざ男子体操着を着ているのか、その理由だ! 持ってくるのを忘れたからか? いや、今朝はちゃんとかあさんが用意してくれていたし、登校中ねえさんは体操着袋を確かに提げていた。じゃあ、何故? これは、もしかして!? まさか彼氏的な男子がクラスにいて、着てくれと? いや、そんな変態プレイ願望な男とねえさんが付き合うなんてあり得ない。では、ねえさんが着させてくれと? いやいやいや、そんなプチ変態行為──、もし、もし仮にねえさんに変態願望があったとして、でも果たして、わざわざ学校でそんな行為を披露するだろうか? 学園では図書館のと称えられるねえさんが、そんな痴態をわざわざ晒すか? いやまて、痴態を晒すことに快感を覚えるからこそ、変態といえるのでは? いやまてまてまてぇいっ! ねえさん変態説がデフォルトでどうする! それこそ本末転倒おかしいだろう。いや、そもそも彼氏の存在なんて、あり得んっ!!

 

 などと、この期に及んでなお、あろうことか僕の思考は数学クエストから逃避してしまったのだった。


 マズイ──。


「おい、大淀、何黙りこくってるんだ? わからんのか? 聞いていなかったのなら正直にそう言え。まったく、お姉さんはあんなに優秀なのに」

 という、優秀な姉を持つ弟にとって定番のディスりを織り交ぜ追及してくる教師。もちろん教室内は軽くドッと笑いで沸くのだが──、

「す、すみません、少しボーとしてました」

 そう、ここは大人しくやり過ごすしかないのだ。

「かー、仕方のない奴だ。じゃあ、後ろの木曾、お前、助け船を出してやれ」

「え? ──はい」

 そのやる気のなさげな返事と共に、気だるげに、ガラリと椅子を押し出し、立ち上がる木曾。

「まずはxとyの二次方程式の解からグラフ上の点を見つけて、そこを起点に図形を描いて──」

「そうだな。正しい。二人とも着席。じゃあ、全員そのようにやってみろ。できた者から前に来て先生に解答を口頭で説明してみてくれ」

「はーい!」と、クラス一同。


 ごく自然に恥をかいた僕だが、そんな数学クエストの失態なぞ、寧ろどうでもよかった。

 

 もっと重要かつ不可解な事態に、今まさに直面しているからだ。正直、授業どころではない!

 

 そんな僕に、後ろの席の木曾──実はこいつは腐れ縁で、幼稚園の頃からずっと小中高と延々と同じクラスでここまで来た奇跡のような同級生である。知人の分類上は幼馴染となるが、馴染んではいない──の奴がボソっと小声で、本当の助け舟を出してくれたのだった。

「おい、大淀、お前のお姉さん、お前の体操着を着ているぞ、なんだあれは? ま、似合ってなくもないがな」

「なっ?! マジか?」

「ああ、胸に大淀とある。あれ、お前のじゃないのか?」

 お前一体視力いくつだ? というのはこの際どうでもいい──、

 まさか!? そうか! 入れ間違えたのか!? かあさんが──。そして、ということは──、


 今僕の机の横にかかっている体操着袋の中身は、ねえさんの体操着ブルマ

 

 なんだ、そういうことか。答えを知ってしまえば、実にたわい無い──。


 で、ねえさんの神聖なる体操着眩しすぎるブルマがここに。神の悪戯か。いや、母のやらかしなのだが。確かに僕は異性を求めはじめる思春期だが、異性の衣服を求めているわけではない。思春期の手始めに、そうする迷える子羊的男子もいるやもしれないが。


 かあさんのうっかり入れ間違いなら、仕方がないだろう。がっ! だからと言って、ソレを着るか?! ねえさんっ!

 疑問が晴れて少しほっとした僕なのだが──、

 だが、問題がそれだけでは済まないことに、すぐさま気がついた。


 つまり、我がクラスの次の授業が体育ということだった──。


 ──さて、

 

 それから数学クエストをのらりくらりと、木曾の奴に少々助太刀してもらいながら乗り切った僕だが、次、どうする?!


 ──そしてチャイムは鳴った。


「おい、木曾、お前体操着を二着ほど持ち合わせてはいないか?」

「生憎だが、予備はない」

「だろうな──」

「いいじゃないか、大淀。お前の机の横にぶら下がっているソレを着たら」

「バカヤロ、お前に着せるぞ! いや、それはダメだ!」これは神聖なるねえさんのモノ。

「フッ、それお姉さんのだろ? ジャージの下になら、分からんだろ?」

「おまっ、バカヤロウ、ジャージの下にブル──、そんな事できるかっ! もしジャージ脱いでヤレってゴリセン(体育教師)に言われたらどうするんだよ。どうせ体育、またフットサルの紅白試合になるだろ?」

「確かにゴリセンの場合、男子の体育はフットサルの試合形式になる確率が高い。そして、ジャージを穿いたままでフィールドプレイヤーは、やや疑問視されるな。でも大丈夫な場合もある」

「控えだろ? 体育の授業中ずっと控え選手でやり過ごすのは無理すぎるだろうが」

「いや、ゴールキーパーだ」

 あッ!

「なっ、なるほどっ!」 

 

 いやまてぇいっ! それでも体育の授業をジャージの下にブルマを穿いてやりぬくなんて──、そんなリスキーなこと、そもそもできるのか!? いや、というよりも! 健全な男子としてそんな変態行為ができるものかっ!? もしもの場合だ、もしバレた場合、僕の学園生活が即終局を迎える!


「いやっ! キーパーだろうが、できんっ!」

「フフッ、だろうな」

「笑うな」 気楽に楽しみやがって、この色即是空男め。


 と、その時、教室の扉が勢いよく開き、聞き慣れた優しみのある声が響いた。

「あのー、たっくん! いる?」

「あっ!」

 ねえさんが体育の授業後、真っ直ぐに僕の教室へ飛んで来たのだった。

 いや、てゆーか! そもそもねえさん! 体育の授業前に飛んで来たらよかったのでは? そもそもっ!

「あ、いたいた」

 と、堂々とつかつかと躊躇いもなく教室に入り僕の席まで歩いてくるねえさん。しかも、僕の男子体操着を着たままで!? って、なんで? ただでさえなのに! その姿でか! 周りからの異様な注目が、苦しい。

「な、なにやってんの? ねえさん!」

「ふふ、ごめんね、たっくん。おかあさんが間違えちゃったみたい。急いでたから、つい着ちゃったよ。でも、サイズがほとんど変わらないから良かったわ」

「いや、良くないしっ! 次こっちが体育の授業なんだよ」

「そうなの? じゃあよかったじゃない、すぐ持ってきて。でもどうする? たっくんの体操着わたし使っちゃったしー、今度はたっくんが、わたしの着る?」

「着るわけないだろ! そっちはよくても、こっちはブルマになるんだよっ!」

「あはっ、そっかー、でも可愛いわよ、きっと」

「可愛くねぇよ! てか、そういう問題じゃない!」

「じゃあ、どうする? お姉ちゃんが使っちゃったけど、これ着る? ちょっと汗かいちゃったけど、いい?」

 と、その場で体操着上を脱ごうとするねえさん!

 オイっ!

 

 刹那ザワっと、教室内に動揺の波が広がった。エロスが綯交ぜになった股間の疼きのような。


「って、ここでいきなり脱いでどうするのっ!」

「あははっ、ついつい、ごめん──」

 慌ててねえさんの手を止めた僕だが、その時、男子達の落胆の帯びた視線が、集中砲火のようにチクチクと刺さる。「惜しいぃ! なんだよ、止めんなよー。てか綺麗なお姉さんもちやがってちくしょー。姉弟でイチャつきかよ!」などという心の叫びが聞こえたようにも感じた。


「とりあえず体育更衣室に行こう」

「あら! 木曾クン、こんにちわ」

「どうも」

「こいつのことはいいから、早く!」

 と、僕はねえさんの手を引き、取り急ぎ教室を後にした。クラスの男子達から、ヒューヒューと色んなものを投げつけられているかのような、針の筵的雰囲気から逃れるように。

「木曾! 先に行くなよ、もどるまでそこにいろよな」

「へいへい」


 体育更衣室は、体育用具室の隣に男子用と女子用とそれぞれある。とはいえ、ねえさんと二人で女子更衣室に入るわけにもいかず、二人で男子更衣室に入った。ちなみに、男子は更衣室を誰も使わない。面倒だからと、教室で着替えるのが一般的であった。


 さて──、がしかし!!


「あっ! ねえさん! その体操着を脱いで僕に渡したとして、ねえさんは一体どうするの!? 何着るのっ!?」

「え? あっそっか! どうしよ?」

「どうして着替える制服持ってきてないのーっ!」

「だって、すぐ必要になるとは思ってなかったの。それに、たっくんはわたしの体操着を着るかなぁーって、思って、というのは冗談よ。でも、じゃあ、どうする? うーん。お姉ちゃん結構汗かいちゃってるかもだよ? ほんとにいいのこれで?」

「い、いいよ、べつに」

 ねえさんが使って汚れるものなんて、この世に無い。なんて、言葉に出しては言えない。

「じゃ、どうしよっか。あっ! じゃあ、今度はたっくんの制服をわたしが着ようかな」

「えっ!」

「たっくんのなら、着てたものでも、わたしは全然平気よ」

 ええっ! ね、ねえさん、なんていとも簡単にそんなこと言えちゃうんだーっ!?

「いやいやいや、ちょっとまって、そんなことしたら余計に問題がややこしくなるからぁっ! どんどん深刻化していってるからっ!!」

「え? そうなの? 授業が終わったらまたとりかえっこしたらいいじゃない」

「いや、そうだけど、いやいやいや、そうじゃない──」

 今度は男子制服姿で、次の授業を受ける気ですか!?


 とその時、男子更衣室の扉がゴンゴンとノックされ、すぐさまガラリと豪快に開け放たれた。

「大淀ぉー、いるぅー?」

 

 あっ! 明石先輩!?


 ねえさんの制服を胸に抱えていた。わざわざねえさんを探して、そして持ってきてくれたのだった。

 しかし──、確かに普段使っている生徒はいない男子更衣室だが、こんなに堂々と開け放し、何の躊躇も恥ずかしげもなく中を覗けるとは、おそろしい人だ。というより、流石だと言うべきか。

「明石!」

「あ、いたいた。ちょっとぉ、大淀ぉ、制服持っていかないでどうするの? まったく。弟クンもこんな姉を持って、大変よねぇ」

「いや、その──」

 まあ事実、大変の意味合いが色々とあるのだが──、大変には変わりない。


「よかったぁ。さっすが明石ね。デキる友を持ってわたしは嬉しいぞ。じゃあ、着替えるから、たっくんちょっと後ろ向いててね」

 と言ってさっさと体操着を脱ぎ始めるねえさん。慌てて後ろを向く僕だが、こんな至近距離で──。


「なに? あんたたち姉弟、いい歳していつもこんな風に顔を突き合わせながら着替えしてるの?」

「いえ、そんなことは──」

「家ではお互いの部屋があるから、でも姉弟だし、別にヘンじゃないでしょ? わたしは平気よ。お風呂上りとかもこんな感じだし──」

「え! あ! じゃあ、大淀ぉ、あなたまさか──、もしかして、この歳で未だに一緒にお風呂とか入ってんじゃないでしょうねぇ?」

 ひえええっ──、そんな訳ないでしょ明石先輩。

「まさか。小学生じゃないのよ、それはないわよ」

「え? 小学生の時、一緒にはいってたの?」

「え、普通じゃない?」

「えっ!? 普通は幼稚園まででしょ? 小学生って言っても一年生ぐらいまでしか──」

「え、うそぉー? そうなの? そうなの? そうなのたっくん?」

「えっ!? あっ、えっとぉ──」

 どうなんだ? あれ? 普通って、どうなんだ? いや、確かに小学生の時までは、一緒に入る時もあったような──、

「ええっ!? 大淀ォ、高学年はないでしょ?!」

「え、あるわよ」

「ええぇっ!! そうなの弟クンっ!!」

「えっ!? えっとぉ──、その、あれ? そんなの、あった? あ! あったようなぁ──」

「嘘でしょー?!」

 と驚く明石さんをよそに、

「はい、たっくん、これ」

 っと、体操着Tシャツを俺に差し出すねえさん。

 チラッとそちらを向くと、白く輝くようなすべすべの肌が眩しい。ねえさんの背中、きめ細かく透き通るようなその柔肌。そっと触れたい願望に駆られるが、ブルブルと頭を乱暴に振って邪念を振りほどく。そして、脱ぎたてほやほやの体操着を手にとる。と──、むわっと、ねえさんの温もりが生々しく残っていた。こ、これは! この温もり、ねえさんの体温で温められた、その温もり!

 その脱ぎたてホカホカ体操着Tシャツに、心身ともに吸い込まれそうになっていた僕に──、

「たっくんも早く着替えないと、つぎ体育でしょ?」

「あ、そうだ」

 と、慌ててシャツのボタンを外す僕だが、

「あの、明石先輩、その──」

「あ、弟クン、どうぞどうぞ着替えて。私は平気だから。あれ? あ、私の視線が気になる? 私、出てようか?」

 てか、明石先輩! あんたも実は平気なんですかいっ!!

「いや、平気なら、いいです」

 シャツを脱いで、ねえさんの脱ぎたてホッカホカの体操着Tシャツを頭からかぶったその刹那──、

 

 ぐはっ!


 顔いっぱいにふわっと高湿な温かみを受け、そして包まれる。すかさず僕の鼻孔から、言いようのない甘い刺激が全身を駆け巡り、恍惚となって、金縛りのごとく硬直させたのだった。


 なっ、これがっ!! これが、ねえさんの香りっ?! これが、ねえさんの汗フレグランスっ!!


 それはまるで、天国に通ずるトンネルに頭を突っ込んでしまったかのような、そんなとてつもない興奮と幸福感。そして、すっぽんと首を出すと──、ふわっと、ねえさんの温もりに優しく包まれ、むわっと立ち昇るそのフレグランス。なんという甘美な着心地であろうか、どんな高級柔軟剤も遠く及ばない。


 いやまさか、体育の授業で1時間運動をした後の体操着を再び着るということが、自分のと好きな人のとで、これほどまでに違うとは思いもよらなかった。というよりも、思い至るすべはないだろう普通に生きていれば。まさに新感覚。五感を刺激するこの体験、いや第六感までもか。しかもその相手が、そう、最愛のねえさんなのだっ! その甘美なフェロモンたるや、恐ろしくも僕を魅惑し、マタタビを得た猫のように、ひどく動物的に恍惚とさせた。──が、

 

 ぐあぁーっ!!


 次の刹那、僕はまるで北斗百裂拳を喰らったジードの雑魚キャラのように血潮を、というか鼻血を吹き出さんばかりに、猛烈に熱くなった。心の奥底にある僕の性衝動、いわゆるリビドーが、突然爆発したのだった。性的興奮とはこういうことかっ?!


 僕は雄として、発情期を迎えてしまったようで、つまり、股下のいわゆる生理的反応が制御不能に陥ったのだった。

 

 僕の心の奥底にある性衝動≒リビドーの蕾が、ねえさんを対象に見事に開花してしまった瞬間だった。


 汗とは到底思えないほどの甘い、フルーティーかつフローラルな香り。頭も股下のも昇天しそうになる。ま、マズイっ! 股間のが暴れ出すっ!!


 しかし、なんたる香りだろうか。男子達のいわゆる汗臭い、泥臭いだとか、土臭いだとか、或はチーズのような、それもブルーチーズのような強烈な発酵系の臭さとはまるで月とスッポン。いわゆる臭さとは対極にある匂い。もはや神秘的、いうなれば天女の香り。もう少し分かりやすく例えるならば、これはたまに親父が飲んでいる大吟醸酒の、甘くフルーティな吟醸香に似ている気がする。


 そしてまた、体操着Tシャツの隅々にまでこもるこの温もりも──、まるで、ねえさんに抱きしめられているかのような錯覚に陥り、もういっそこのまま眠りたい衝動に駆られる──、


 もはや思考が、罪深くもエロい方向に、糸の切れた凧のようにふらふらと飛んでいってしまう僕だった。しかし、ねえさんや明石先輩のいるこの場では、劣情に身を任せるわけにもいかず、正気を保ため自分の脇腹をギュッと抓ってでも、平静を装ったのだった。そして股下の、むずといきり立つのことを悟られてはマズイ。


「ちょ、ちょっと、弟クン? 大丈夫? ねぇ、顔真っ赤だよ? 大丈夫?」

 と、明石先輩にツッコまれるまで、僕は自分では正気を保っていたつもりだったが、どうやらすでに気が抜けていたのかも知れない。その声を聴いて、キーンと耳鳴りのような響きとともに、スタンと地面に降り立った、そんな感覚だった。気が動顛するとはこういうことか。


 ただ辛うじて、股下のの滾りはなんとか隠し通して、素早く着替えられたようだった。


「たっくん、大丈夫? 汗臭くない? ねぇ、平気?」

 と、すっかり制服に着替え終えたねえさんが、僕の両肩を掴んで顔を覗き込んで来る。過保護な母親のように。

「実はちょっと、汗臭いかも」

「うそぉーっ!! やだっ──」

「というのは、ウソ。 大丈夫だよ。別に、その、姉弟だし、特に、な、なんの匂いもしないよ」

「もう、やだ。からかわないでよね。もう、こらっ、たっくん」

「あんた馬鹿ね大淀、弟クンは傷つけないようにと、我慢してくれてるだけよ。汗臭いわよ、ぜったい」

「えぇぇ、うそぉーっ!?」

「いや、大丈夫だよ。全然大丈夫ですよ、平気ですって──」

 というのは真っ赤な嘘で、本当はねえさんのフェロモンでメロメロにやられてます。なんて絶対に言えない。


 いやはや──、


 思いがけないハプニングであり、神の悪戯か恵みか、いやいや何度も言うように母のやらかしなのだが、とんだスペシャルイベントとなってしまった。俗に言うラッキースケベというやつであろうか。いや、これをスケベに捉えてはいけないのだが。


 がしかし、こんなねえさんの魅惑のフェロモンに包まれながら、僕はちゃんと無事に体育の授業を受けられるのか? 1時間も正気を保てるであろうか。仮に僕が大丈夫でも、股間のが非常に心配である。ちなみに、大人しくなる気配がまったくない。

 

 これまた大問題である。が、


 ま、ともあれ木曾の奴の言うように、ジャージを穿いてゴールキーパーに徹するのが無難であろう。色即是空男め、たまにはいい事を言う。


 デキる友? ということにしておいてやろう。今回は。


 


 因みに、

 

 ねえさんの脱いだホカホカの短パンを受け取るとき、手が、というより身も心も震えたのは言うまでもない。また、その後ろ姿──もろ出しの下着姿、ふくよか且つ張りのある太もも、肉感的とはこういうものか? だが全体的にはすらっとしたおみ足、男子の求める脚線美をまさに具現化したかのような匠の造形、その美しくも魅惑的な生足──をチラ見した刹那、もう股下のは、黙ってはいなかったのだった。僕の立場も無視して。よくファンタジー作品などに出てくる、いわゆるのごとく、語り出したのだった。つまり、ドロドロとエゴを吐き出し自己主張してくるのだ。僕にはありありと生々しく分かった。彼がを口から語り、いるかを。


 心の中は隠せるが、僕の股下に鎮座するはそう易々と隠しきれない。股下の、そうのことについては、のちに語るとしておこう。





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