108 №10-2 史記に登場する人物<司馬相如>
ところで、大金持ちの家の美人の娘さんに見染め見染められて、その結果、彼女に押しかけられてという羨ましい結婚をした司馬相如ですが。当然のことながら、奥さんの親は大反対です。
それで若い二人は生活のために居酒屋を始めます。
お嬢さま育ちだった奥さんは店に立ってホステスとなり、(このホステスという言葉、ネットの史記の研究者のサイトに実際にありました。笑)、司馬相如は褌姿で店の裏で食器を洗うことに専念します。それを見た人たちが奥さんのお父さんに取り成しをして、二人はやっと幸せな結婚生活が送れるようになりました。
司馬相如は初めは武帝のお父さんの景帝に仕えたのですが、この景帝は文学を好まず。ここでは自分の活躍の場がないと思った彼は、長安より南にある梁国に職を求めます。そして、文学を好む武帝の時代になって、再び、長安に戻ります。
先生はこの長安から梁国までを、実際に列車に乗って旅をされたそうです。
30年近い昔の中国で、列車で50時間の旅だったとか。ほぼ2日間の列車に揺られたことになるのですね。
何が大変って、食べ物の確保が大変だったそうです。それから梁国の近くにある名所を訪ね歩いて、帰りもまた40時間の列車に揺られたそうです。
ここから、講義はしばらく先生の中国の旅の話となって。
始皇帝が封禅の儀式をおこなった泰山に登った時の話となりました。
泰山は1500メートルほどの高さ。中腹までバスで登れてそこからはロープウェイもあります。
先生が1度目に登った時は、バスとロープウェイを利用されたそうですが、山頂は濃霧で景色が全く見えず。
それで翌日に二度目の登頂を目指されたのだとか。
その時、どうせ登るのであればと、バスもロープウェイも利用することなく麓からの歩きで挑戦。そして快晴に恵まれて、素晴らしい景色を楽しむことができたとか。
ところで、始皇帝はこの泰山での封禅を1度目は悪天候で中止しています。「始皇帝と同じ経験をした」と、先生は嬉しそうにおっしゃられていました。
また、話は司馬相如に戻ります。
彼は武帝に宮廷詩人として仕えた訳ですが。
宮廷詩人というと即興の詩を披露して宴席を盛り上げるというイメージなのですが。彼の詩は武帝の政治にかなりの影響を与えました。
その時、私は思い出したのですよ。李白や杜甫が詩人でありながら、朝廷で皇帝の近くで勤めることを望んだことを。その時に私は、「詩人って、どちらかというと世捨て人的立場だろう。それがなぜに政治の場に飛び込む?」って思ったものです。
それで、そのことを質疑応答の時間に先生に聞いてみました。
なんでも即座に答えてくださる先生ですが、この質問は意外であったらしく答えは得られず。
先生の顔に「意外だ!」という驚きと、それからその意外を内心喜んでいる表情が出ておられました。私も心の中でガッツポーズ!。そして、だからこそ、先生の『史記』の講座が好きでたまらない理由なのだとも思いました。
先生から答えを得られなかったことについて、私は家に帰ってからネットで調べました。
そうしたら、「古代中国においては、始皇帝の時代までは、一般人の才能ある人物は諸国を遊説してまわり政治に関わるというスタイルだったが、それから以降は、自分の思うところを詩にして皇帝に献上し政治に関わるというスタイルに変わった」という記述を見つけました。
政治形態も成熟してきて情報化も進むと、一匹狼として皇帝の前で弁舌爽やかに持論を披露するというのは通用しなくなったということでしょうか。常に皇帝の傍に仕えて、詩を献上して皇帝の心をつかむというスタイルになったのかなあと想像します。
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