287 再び、慶央へ……・その17



 安陽の東の空が白々と明ける頃、騒がしい人々の声とともに荘家屋敷の門が開け放たれた。何台もの馬車や荷車、これから始まる長旅を知って興奮した馬が、ぞくぞくと曳き出される。


  やがて人足たちによっておびただしい荷物が馬車や荷車に積まれ始めると、長旅の道中を共にするものたちも、まだ人通りのない路地に三々五々とその姿を現した。


 慶央に薬種問屋〈健草店〉の支店を開設する沈如賢と、その妻の梨佳とまだ幼い桃秀。新しい店を手伝う男たちと下働きの女たちも幾人か。

 女と子ども連れであり、店に並べる薬草を詰めた箱もあって、なかなかの大荷物だ。


 そして峰貴文と七、八人の芝居仲間たち。

 貴文の言葉通り、一切合切いっさいがっさいの芝居の小道具や衣装は安陽に残る仲間たちのために置いて出たので、彼らは身軽だ。

 荷物も銭も持たぬが、身に着いた芝居の芸には自信がある。途中の町々で大道芸を披露して、それで得る投げ銭で必要なものはその時々に調達すればよい。


 その後ろには、峰新と五人の子どもたちが続いた。

 今にも車輪が外れそうな荷車を子ども四人がかりで押している。

 貴文たちと同様に荷物らしい荷物はないが、彼らには大人の歩幅に合わせて歩けない子がいる。現にいまも、荷車に括りつけた荷物に体をあずけて、幼い二人の子どもが眠りこけていた。


「おいおい、新よ。

 慶央はとてつもなく遠いところにある町だ。

 そんないまにも壊れそうな荷車じゃ、最初の山すら越えることは出来んぞ」


「山越えどころか、安陽の南門を出るまで、その車輪がくっついているかどうかさえ怪しいもんだ」


 顔見知りの門番二人がさっそく峰新に絡んできた。

 口達者な峰新と言い合うのもこれが最後だ。今日はなんとかこの生意気な子どもを言い負かして、泣きべそを掻く顔を見たい。


「大丈夫だ、ちゃんと修繕してある」


 そうは言ったものの、その言葉が嘘であることは、峰新が一番よくわかっていた。

 その時、書付けを片手に荷調べをしていた允陶が、彼らの後ろから声をかけて来た。


「おい、おまえたち、峰新の荷車がおんぼろだとわかっているのなら、さっさと新しい荷車を持って来てやれ。

 それから荷車を曳く馬一頭と、くつわを取る人夫も一人。

 もうすぐ荘興さまたちのお出ましだ、急げ、急げ」


 その声に慌てて、門番の一人が走り去る。

 その後ろ姿に、萬姜が手配をしてくれていたのだと知って、峰新は安堵の息を吐いた。その峰新の顔を見て、一人残った門番が言った。


「やれやれ、最後まで強運な小僧こぞうだ」


 そして懐に手を入れ小さな巾着を掴みだすと、峰新に投げてよこした。

 受け止めたその重さから、銭がはいっているのだと知って峰新が顔を上げた。

 男が言葉を続ける。


「おい、峰新。

 これはおれたち二人からの餞別せんべつだ。

 慶央でも、その減らず口で達者で暮らせよ」


「おじさん、ありがとう!」


「ふん、ありがたがってもらうほどは、入っちゃいないが……」


 男の言葉は最後まで続かなかった。

 騒がしさが足音とともに近づいてきた。

 見送りの英卓・千夏・関景を従えた荘興たちだ。


 昨夜、充分に別れは尽くしたはずだが、皆の想いはまだまだ言い足りない言葉となって溢れ出て来る。

 荘家の屋敷の別れを惜しむ下働きの男女も全員揃って、その後ろに続いた。





******


 皆が出払い閑散とした荘家屋敷内の奥には、うまやが幾棟も立ち並んでいた。


 その中の一棟で、真っ黒な毛並みの美しい馬が苛立っては、しきりに後ろ足で敷きわらを蹴り散らかしていた。時おり、激しく首を振って、唇をめくりあげ歯を見せていななく。


 いななけば、白麗を引き止められると信じているかのように……。


      

                    ―― 完 ――




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