280 再び、慶央へ……・その10



 下女の声で、嬉児は母の叱責を思い出した。


 母の萬姜は優しいが、筋の曲がったことには厳しい。

 下働きの女たちとのお喋りやつまみ食いは大目に見ても、お守りの下女を困らせたことは許さないだろう。


 慌てて、嬉児は白麗の袖を引く。


 人の言葉を理解しない白い髪の少女だったが、一日の大半を一緒に過ごす嬉児の存在は特別だ。その顔の表情そのしぐさの一つで、自分に伝えたいことが理解できる。期待に輝く金茶色の目で厨の中を見渡していたが、諦めたようでくるりと身を翻した。


 婚礼の宴席の最後に祝福の笛を吹くという大役を担っている白麗は、美しく着飾っていた。


 ひだを幾重にも重ねた薄青色のスカートの裾が、彼女の体の動きに合わせて軽やかに広がる。スカートの上に重ねた短い上着は艶やかな白い絹だが、あでやかな色糸で細かい刺繍が施されているのが遠目でもわかる。


――なんと美しい着物でしょう。

 義妹となられる白麗お嬢さまへの、千夏さまからの贈り物かしら?――


 梨佳は手を止めて、去っていく少女の後ろ姿に見惚れた。

 そして、はっと息を呑んだ。

 白麗の真白い髪が、両肩の上で切り揃えられている。

 白く細い首筋が露わになるほどに短い。


 彼女の驚いたさまに気づいた下働きの女が言った。


「ああ、白麗お嬢さまは、安陽の暑い夏がお嫌だとかで、自らばっさりと髪を切っちまったんだと。

 お嬢さまは、言葉が喋れないからねえ。

 さすがの萬姜さんも、気づいた時は大慌てだったそうだ」


「まあ、そんなことが……」


 それで英卓さまに厨に招かれたあの日、白麗さまも母もその姿を現さなかったのか。英卓さまが、突然、白麗お嬢さまにお菓子を作って差し上げようと思いつかれたことと、関係があるのだろうか。


 女のお喋りは続く。


「でもねえ、髪の短いお嬢さまもそれはそれで可愛いと、あたしは思うよ。

 言葉が喋れないという可哀そうなお体なんだから、お元気であればそれが何よりさ」


 横で青菜を刻んでいた女たちもお喋りに加わった。


「そうだよ、お元気そうで、あたしも安心したよ。

 英卓さまとお嬢さまは、特別に仲がよい兄妹だからねえ。

 千夏さまとの婚礼が決まったと聞いた時は、正直言って、どうなるかと思ったねえ」


「世間では、大切な兄を盗られたと、やっかみを隠さない妹も多いもんさ」


「英卓さまを千夏さまに盗られてやっかんでいるのは、お嬢さまではなくて、おまえさんだろう」


「やだよ、突然、何を言い出すんだい」


「あらら、顔が赤いよ。図星だね」


 遠慮のない笑いがどっと起きて、女たちのお喋りは下世話な噂話へと堕ちていく。

 梨佳は静かにその場を離れた。





 寝入った桃秀を抱き秋の始まりの青い空を見つめていた梨佳の傍らに、茶と菓子を卓に並べ終わった下女が立った。


「梨佳さま、お茶とお菓子の用意が出来ました。

 梨佳さまの作られるお菓子のように美味しくはございませんでしょうが、甘いものは疲れをとります。

 桃秀お嬢さまはわたしがお預かりいたしますので、ひと休みなさってください」


「雑作をかけますね」


「いいえ、いいえ。

 そのようなもったいないお言葉、嬉しく思います」


 桃秀を下女に託したあと、若い女主人と下女は二人して秋の始まりの青い空を見上げる。桃秀をそっと揺すりながら、下女が言葉を続けた。


「若奥さま、あと十日もすれば、旅の空の下でございますね」

「ええ、ほんとうに……」


 南の空に浮かんだ筋雲は吹き流されて、すでにその形を変えていた。

 刻々と変わる雲の姿は、まるで人の世を写し取っているようだと、梨佳は思う。

 




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