279 再び、慶央へ……・その9



ぐらぐらと音を立てて沸き立つ釜の上に重ねた蒸籠せいろうから、蒸しあがった饅頭のよい匂いが漂ってきた。


「英卓さま、出来上がったようにございます」


 蒸籠の蓋を取りながら梨佳が言う。

 その言葉に、のそりと痩躯を動かして、英卓は竈の側に立った。


 もうもうと立つ湯気の中、蒸籠には、真白く膨らんだ艶やかで美味しそうな饅頭が行儀よく並んでいる。その真ん中に一つ、真っ白な薄皮の上に小さな赤い点があるのが、英卓が望んだ白麗のための特別な饅頭だった。


 印にと、竹串の先につけた食紅を一滴垂らした。

 それは丹頂鶴の鶏冠のように鮮やかで、またうっすらと積もった雪の上に散った一輪の赤い椿のように美しい。


「甘いものが苦手なおれでも、この饅頭が美味いのは見ただけでわかる。

 麗もさぞ喜ぶだろう。

 梨佳、無理を言ったな、この恩は必ず返す」


「まあ、恩などととんでもない言葉にございます。

 わたしはただ英卓さまのお役に立ち、そして白麗お嬢さまがお饅頭を美味しく召し上がってくだされば、それだけで幸せです」


 あの時、『おまえは欲のない女だ』という言葉とともに、英卓の口から出た『恩を返す』という言葉は、その場限りの儀礼的なものだと思った。

 優しく賢い梨佳は自分の行いに見返りを求めることはしない。

 天分である料理と菓子作りで、誰かが喜んでくれたらそれだけで満足だ。





 腕の中で、ずっしりと桃秀が重みを増した。

 何度かの欠伸を繰り返したのち、桃秀は梨佳の腕の中で寝入ってしまった。

 寝た子は重い。

 起こさぬようにと、そっと彼女は幼子を抱え直す。


 南にもう一度目をやれば、さきほどまで青く晴れ渡っていた空に、一筋の薄雲が刷毛で撫でたように浮かんでいた。

 それはまるで彼女を慶央へと誘っているように見える。


――英卓さまの立場であれば、沈如賢が自分の新しい店を持ちたがっていたことを、どこかで知り得たかも知れない。

 荘家のご次男の立場であり、安陽に出て来て荘新家を立ち上げた英卓さまなら、親の生業から独立する大変さと苦労をご存じであろう。


 もしかして、蓮の実の餡のなかに混ぜ込んだあの丸薬のことを、永遠の秘密にする条件として、わたしたちの慶央行きを取り計らってくださったのだろうか。

 あの時の『恩を返す』とはそういう意味であったのだろうか――


 しかしながら、すべては梨佳の心の中に沸き起こる想像でしかなかった。


 あの丸薬の正体はなんであったのかと案じながらも、梨佳が白麗の姿を見たのは英卓と千夏の婚姻の日だった。


 夫の如賢は父親の明賢とともに沈家を代表して祝いの席に招かれ、梨佳は母の萬姜を手伝って厨の采配に忙しく立ち働いていた。

 

 その厨の戸口に、美しく着飾った白麗と嬉児が現れた。

 大鍋を杓子でかき回していた古参らしい下働きの女が、二人を見て笑いながら言う。


「やっぱり来ちまったね、お二人さん。

 まあ、こんなに美味しそうな匂いを屋敷中に漂わせていたら、そのうちに、姿を現すとは思っていたんだが。


 だけど、今日はつまみ食いはだめだよ。

 そのきれいな着物に染みでもついてごらんよ、萬姜さんに怒られるのはあたしたちなんだからね。

 さあさあ、食いしん坊のお二人さん、萬姜さんに気づかれる前に、部屋に戻っておくれ」


 その声にかぶさるように、白麗と嬉児の後ろから、息急き切った別の女の声もする。萬姜から二人のお守りを頼まれながら、目を離した隙に逃げられて、大慌てて追いかけて来たのだろう。


「まあ、お嬢さまに嬉児、姿が見えないと思ったら、やはり、ここに。

 お願いです、わたしを困らせないでください。

 今日だけは、お部屋でおとなしくお過ごしください。

 萬姜さんに言いつけて、叱ってもらいますよ」




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